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第二章 本当の高瀬露(テキスト形式)

2024-03-28 12:00:00 | 本統の賢治と本当の露
☆『本統の賢治と本当の露』(テキスト形式タイプ)
  第二章 本当の高瀬露
 さて、ここまでの私の一連の検証結果は現「賢治年譜」等とは大分異なっていたり、果ては正反対だったりということで、そう簡単には世の中から受け容れてもらえないであろうことは充分に覚悟している。そこには構造的な問題が横たわっていそうだからである。そこで、第一章の〝2.「賢治神話」検証七点〟等の真偽についてどう決着がつくかはまだまだ時間を要するだろうから歴史の判断を俟つしかないと思っている。しかし、巷間流布している〈高瀬露悪女伝説〉がもし捏造されたものであったとするならば、この件だけはそうはいかない。それは人権に関わる重大な問題であり、同〝2.〟の㈠~㈥等とは根本的に違うからである。そして懸念していたとおりで、この伝説は捏造されたものであることを私は実証してしまった。本章ではそのことをこれから報告することによって、本当の高瀬露を明らかにしてゆきたい。

 1.あやかし〈悪女・高瀬露〉
 巷間、〈高瀬露悪女伝説〉なるものが流布している。しかし、この伝説はある程度調べてみれば信憑性の危ういことが容易に判る。それはまず、賢治の主治医だったとも言われているという佐藤隆房が、
 櫻の地人協會の、會員といふ程ではないが準會員といふ所位に、内田康子(〈註二十〉)さんといふ、たゞ一人の女性がありました。
 内田さんは、村の小學校の先生でしたが、その小學校へ賢治さんが講演に行つたのが緣となつて、だんだん出入りするやうになつたのです。
 來れば、どこの女性でもするやうに、その邊を掃除したり汚れ物を片付けたりしてくれるので、賢治さんも、これは便利と有難がつて、
「この頃は美しい會員が來て、いろいろ片付けてくれるのでとても助かるよ。」
 と、集つてくる男の人達にいひました。  〈『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)175p~〉
と『宮澤賢治』で述べているからだ。さらに、宮澤賢治の弟清六も、
 白系ロシア人のパン屋が、花巻にきたことがあります。…(筆者略)…兄の所へいっしょにゆきました。兄はそのとき、二階にいました。…(筆者略)…二階には先客がひとりおりました。その先客は、Tさんという婦人の客でした。そこで四人で、レコードを聞きました。…(筆者略)…。レコードが終ると、Tさんがオルガンをひいて、ロシア人はハミングで讃美歌を歌いました。メロデーとオルガンがよく合うその不思議な調べを兄と私は、じっと聞いていました。    〈『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)236p〉
と追想している。そして、下根子桜の宮澤家別宅に出入りしていてオルガンで讃美歌が弾けるイニシャルTの女性といえば高瀬露がいるし、露以外に当て嵌まる女性はいないから、「Tさん」とは露であることが判る。したがって、賢治はある時、下根子桜の宮澤家の別宅に露を招き入れて二人きりで二階にいた、と清六は実質的に証言していたということになるからだ。あるいはまた、
 宮沢清六の話では、この歌は賢治から教わったもの、賢治は高瀬露から教えられたとのこと。
〈『新校本宮澤賢治全集第六巻詩Ⅴ校異篇』(筑摩書房)225p〉
というわけで、賢治は露から歌(讃美歌)を教わっていたということも弟が証言していたことになるからだ。
 つまりこれらの証言から、露はしばしば下根子桜の宮澤家別宅を訪れており、賢治は露にいろいろと助けてもらっていたこと、露とはオープンで親密なよい関係にあったということが少なくとも導かれる。
 一方で露本人は、
   君逝きて七度迎ふるこの冬は早池の峯に思ひこそ積め
師の君をしのび來りてこの一日心ゆくまで歌ふ語りぬ
というような、崇敬の念を抱きながら亡き賢治を偲ぶ歌を折に触れて詠んでいたことを『イーハトーヴォ第四號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會、昭和15年)等によって知ることができる。そしてもう一つ大事なことがあり、露は19歳の時に洗礼を受け、遠野に嫁ぐまでの11年間は花巻バプテスト教会に通い、結婚相手は神職であったのだが、夫が亡くなって後の昭和26年に遠野カトリック教会で洗礼を受け直し、50年の長きにわたって信仰生涯を歩み通した(雑賀信行著『宮沢賢治とクリスチャン花巻編』(雑賀編集工房)143p~)クリスチャンであったという。
 したがってこれらのことから常識的に判断すれば、巷間流布している〈悪女・高瀬露〉はあやかしである蓋然性がかなり高い。まして、第一章で明らかにしたように、「賢治年譜」や「定説」等で常識的におかしいものを検証してみるとやはり皆ほぼおかしかったからなおさらにだ。
 ところがあにはからんや、山下聖美氏は、
 感情をむき出しにし、おせっかいと言えるほど積極的に賢治を求めた高瀬露について、賢治研究者や伝記作者たちは手きびしい言及を多く残している。失恋後は賢治の悪口を言って回ったひどい女、ひとり相撲の恋愛を認識できなかったバカ女、感情をあらわにし過ぎた異常者、勘違いおせっかい女……。
とか、あるいは澤村修治氏は、
 無邪気なまでに熱情が解放されていた。露は賢治がまだ床の中にいる早朝にもやってきた。夜分にも来た。一日に何度も来ることがあった。露の行動は今風にいえば、ややストーカー性を帯びてきたといってもよい。
と、それぞれの著書『賢治文学「呪い」の構造』(平成19年、59p)、『宮澤賢治と幻の恋人』(平成22年、145p)の中で、何の躊躇いもなさそうに、露をとんでもない〈悪女〉にしているという現実が昨今でもある。
 はてさて、先の清六の証言内容等とは正反対とも言える、露の人格を貶め、尊厳を傷つけているとしか思えないようなこれらの記述の典拠は一体何であったのであろうか。

 2.風聞や虚構の可能性
 そこで私は、関連する論考等を早速探し廻ったのだが、〈悪女・高瀬露〉に関して真正面から学究的に取り組んでいる賢治研究家の論考等はほぼ皆無なようで、やっと見つかったのが当時七尾短大教授だった上田哲の論文「「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露―」(『七尾論叢11号』所収)である。そこでは上田は、
 露の〈悪女〉ぶりについては、戦前から多くの人々に興味的に受けとめられ確かな事実の如く流布し語り継がれてきた。…(筆者略)…この話はかなり歪められて伝わっており、不思議なことに、多くの人は、これらの話を何らの検証もせず、高瀬側の言い分は聞かず一方的な情報のみを受け容れ、いわば欠席裁判的に彼女を悪女と断罪しているのである。 〈『七尾論叢11号』(七尾短期大学、平成8年)89p〉
とその経緯と実情を紹介し、
 高瀬露と賢治のかかわりについて再検証の拙論を書くに当ってまず森荘已池『宮沢賢治と三人の女性』(一九四九年(昭和24)一月二五日 人文書房刊)を資料として使うことにする。…(筆者略)…一九四九年以降の高瀬露と賢治について述べた文篇はほとんどこの森の本を下敷にしており…… 〈同89p〉
と断定していた。やはりそうかとは思ったものの、ここは自分で確認する必要がある。
 そこでその「文篇」を渉猟してみたところ、「一方的な情報」とは上田の指摘どおり確かに『宮澤賢治と三人の女性』であった。その後はこれを「下敷」として、儀府成一が『宮沢賢治その愛と性』(芸術生活社、昭47)を著し、読むに堪えないような表現をも弄しながらその拡大再生産をしていたし、前頁等で引用したようなかなり辛辣な表現を用いた著作が何度か再生産されていた。しかも、やはり誰一人として確と検証等をしたとは考えられぬものばかりがだ。こうなったら乗りかかった船、私もこの〈悪女・高瀬露〉を検証せねばならないだろう。というのは、上田の同論文は実は未完だったからだ。
 ついては、上田が「下敷」と称しているところの森荘已池著『宮澤賢治と三人の女性』をまず精読してみたところ、常識的に考えておかしいと感ずるところが幾つか見つかった。
 それは例えば、
 彼女は彼女の勤めている学校のある村に、もはや家もかりてあり、世帶道具もととのえてその家に迎え、いますぐにも結婚生活をはじめられるように、たのしく生活を設計していた。
〈『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)89p〉
という記述だ。あのように崇敬の念を抱きながら亡き賢治を偲ぶ歌を詠むような女性が、このような厚かましいことをしたのだろうかという素朴な疑問が湧いたからだ。
 早速私は、露は当時鍋倉の寶閑小学校に勤めていたというから、鍋倉に向かった。幸い、露の当時の教え子鎌田豊佐氏に会うことができて、露は「西野中の高橋重太郎」方(「鍋倉ふれあい交流センター」の近く)に当時下宿していたということを教わった。さらに、その下宿の隣家の高橋カヨ氏からは、
 寶閑小学校は街から遠いので、先生方は皆「西野中の高橋さん」のお家に下宿していました。ただしその下宿では賄いがつかなかったから縁側にコンロを出して皆さん自炊しておりましたよ。
ということも教わった。
 となれば、その下宿は賄いがつかなかったから寝具のみならず炊事用具一式も必要だったであろう。そこでそれを知った口さがない人たちが露のこのような下宿の仕方を、「もはや家もかりてあり、世帶道具もととのえてその家に迎え、云々」というような噂話に仕立てて面白おかしく吹聴したという蓋然性が高い。当時、賢治と露とのことはある程度世間に噂されていたというからだ。
 そして森は、裏付けを取ることなどもせずに、そのような噂話を元にして活字にしてしまった可能性があると考えられる。このように、露が下宿していたことや下宿の仕方等がその頃から90年近くも経ってしまった今でさえも分かるのだから、森が当時そうしようとすればこれらのことはもっと容易に分かったはずだ。ところが森はそのことについて同書で何ら触れていない。よって、先に引用した森の記述内容は風聞か虚構の可能性が生じてきたということである。
 こうなると同様に不安になってくるのが、やはり前掲書の中の、
 彼女の思慕と恋情とは焰のように燃えつのつて、そのため彼女はつい朝早く賢治がまだ起床しない時間に訪ねてきたり、一日に二回も三回も遠いところをやつてきたりするようになつた。     〈同73p〉
という森の記述であり、当時の交通事情に鑑みればそれはほぼ無理だと思われるからだ。
 そこで、精確を期すために露の生家がどこにあったかをまずは確かめようとした。それが「向小路」であったことだけは知られていたのだが、賢治関連のどの著作にもそこが具体的にどこであったのかは明らかにされていなかったからだ。
 だが分かったことは唯一、上田の前掲論文等に載っていた生家の住所名、
    岩手県稗貫郡花巻町向小路二十七番地
だけだった。しかも、向小路一帯をあちこちいくら探し廻っても、高瀬という姓の家がないだけでなく、その番地がどこかを特定できる人にさえも出会えなかった。当時とは家並みも一帯の番地名も変わってしまったからだろうか。私は途方に暮れてしまった。
 そんな折、地元出身で東京在住の伊藤博美氏から私が頂いた『花巻市文化財調査報告書第一集』(花巻市教育委員会)に「大正期の同心屋敷地割」という地図が載っていた。そしてその地図から、「向小路二十七番地」とは、あの賢治の詩〔同心町の夜あけがた〕に詠まれている「向こふの坂の下り口」(向小路の北端)だったということを幸い知ることができた。
 次に当時の寶閑小学校のあった場所だが、これは案外簡単に判った。花巻市立図書館所蔵の『寶閑小学校創立九十一年』(寶閑小学校)により、「山居公民館」の直ぐ近くにあったことを知った。
 よって、「露の下宿→宮澤家別宅」へと最短時間で行くとなれば、当時の『花巻電鉄鉛線 列車時刻表』(花巻温泉電氣鉄道、大正15年8月15日発行)等により、
露の下宿~約15分~寶閑小学校~約45分~二ッ堰駅~鉛線約25分~
                     西公園駅~約20分~露生家~約15分~「下根子桜」
となるから、往復で最低でも約4時間はかかっただろう。当然、「一日に三回もやってきた」ということは勤務日にはほぼあり得ない。もちろん、露が週末に生家に戻っていた際であればそれは可能であっただろうが、それでは「遠いところをやってきた」ということにはならない。露の生家と下根子桜の別宅との間は約1.5㎞、直ぐ近くと言ってよい距離だからだ。したがって、露が「一日に二回も三回も遠いところをやつてきたりするようになつた」という記述もまた、風聞か虚構であった可能性が生じてきた。

 3.「ライスカレー事件」
 では、いわゆる「ライスカレー事件」はどうであったのだろうか。このことに関しては、高橋慶吾の次のような二通りの証言が残っているから、それらを先に見てみる。まず「賢治先生」という追想では、
 或る時、先生が二階で御勉強中訪ねてきてお掃除をしたり、臺所をあちこち探してライスカレーを料理したのです。恰度そこに肥料設計の依賴に數人の百姓たちが來て、料理や家事のことをしてゐるその女の人をみてびつくりしたのでしたが、先生は如何したらよいか困つてしまはれ、そのライスカレーをその百姓たちに御馳走し、御自分は「食べる資格がない」と言つて頑として食べられず、そのまゝ二階に上つてしまはれたのです、その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで亂調子にオルガンをぶか〳〵彈くので先生は益々困つてしまひ、「夜なればよいが、晝はお百姓さん達がみんな外で働いてゐる時ですし、そう言ふ事はしない事にしてゐますから止して下さい。」と言つて仲々やめなかつたのでした。      〈『イーハトーヴォ創刊号』(宮澤賢治の會、昭14)所収〉
と「事件」のことを述べている。また、座談会「宮澤賢治先生を語る會」(『續宮澤賢治素描』所収)では、
K 何時だつたか、西の村の人達が二三人來た時、先生は二階にゐたし、女の人は臺所で何かこそこそ働いてゐた、そしたら間もなくライスカレーをこしらへて二階に運んだ。その時先生は村の人達に具合惡がつて、この人は某村の小學校の先生ですと、紹介してゐた、餘つぽど困つて了つたのだらう。
C あの時のライスカレーは先生は食べなかつたな。
K ところが女の人は先生にぜひ召上がれといふし、先生は、私はたべる資格はありませんから、私にかまはずあなた方がたべて下さい、と決して御自身たべないものだから女の人は隨分失望した樣子だつた。そして女は遂に怒つて下へ降りてオルガンをブーブー鳴らした。そしたら先生はこの邊の人は晝間は働いてゐるのだからオルガンは止めてくれと云つたが、止めなかつた。
〈『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社)209p~〉
と「事件」のことを語り合っている(Kが慶吾である)。
 さて、この二通りの慶吾の証言を比較してみると両者の間には結構違いがある。しかも、これらの証言からはオルガンは一階に置いてあったことになるが、実は慶吾以外は皆(宮澤清六、松田甚次郎、高橋正亮、梅野健造、伊藤与蔵)当時オルガンは二階にあったと言ってるから、こちらの方の蓋然性がかなり高い。そしてそれが二階にあったとなればこの慶吾の一連の証言は根底が崩れる。しかも「こそこそ」という表現も用いているからそこからは彼の悪意も感じられるので、この件に関する慶吾の証言内容の信憑性は薄い。したがって、このような事件があったとしても、これらの証言から「修飾語」を取り去ったものがせいぜい考察の対象となり得る程度のものだろう。
 このことを踏まえた上で慶吾のこれらの証言に基づけば、当日は少なくとも2人の来客があり、しかも賢治の分も用意したということになるから、最低でも3人分のライスカレーを露は作っていたことになる。ところが、下根子桜の別宅にはそれ用の食器等が十分にはなかった(『四次元7号』(宮沢賢治友の会)の15pで、当時寄寓していた千葉恭は、「食器も茶碗二つとはし一ぜんあるだけです」と述べている)はずだから、それらも露は準備せねばなかっただろう。その上、この別宅の炊事場は外にあったので、当時3人分以上のライスカレーを露がそこで作るということは大変なことであり、逆に、露のかいがいしさが窺える。
 ではこれで準備ができたので、『宮澤賢治と三人の女性』において「ライスカレー事件」に関して述べている次の部分を引用する。
 二階で談笑していると、彼女は、彼女の手料理のカレーライスを運びはじめた。
 彼はしんじつ困惑してしまつたのだ。
 彼女を「新しくきた嫁御」と、ひとびとが受取れば受取れるのであつた。彼はたまらなくなつて、
「この方は、××村の小学校の先生です。」と、みんなに紹介した。
 ひとびとはぎこちなく息をのんで、カレーライスに目を落したり、彼と彼女とを見たりした。ひとびとが貪(ママ)べはじめた。――だが彼自身は、それを食べようともしなかつた。彼女が是非おあがり下さいと、たつてすすめた。――すると彼は、
「私には、かまわないで下さい。私には、食べる資格はありません。」
と答えた。
 悲哀と失望と傷心とが、彼女の口をゆがませ頰をひきつらし、目にまたたきも與えなかつた。彼女は次第にふるえ出し、眞赤な顏が蒼白になると、ふいと階下に降りていつた。
 降りていつたと思う隙もなく、オルガンの音がきこえてきた。…(筆者略)…その樂音は彼女の乱れ碎けた心をのせて、荒れ狂う獸のようにこの家いつぱいに溢れ、野の風とともに四方の田畠に流れつづけた。顏いろをかえ、ぎゆつと鋭い目付をして、彼は階下に降りて行つた。ひとびとは、お互いにさぐるように顏を見合わせた。
「みんなひるまは働いているのですから、オルガンは遠慮して下さい。やめて下さい。」
 彼はオルガンの音に消されないように、声を高くして言つた。――が彼女は、止めようともしなかつた。
〈『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)90p~〉
 さて、著者の森はこの時にそこに居合わせたということを同書のどこにも述べていないから、この記述の元になったのは既に公になっていた先の慶吾の証言しか考えられない。しかしながら、慶吾は「悲哀と失望と傷心とが……眞赤な顏が蒼白になると」というようなことは語っていない。となれば、この引用文の中で露はかなり悪し様に描かれてもいるから、そこには森の虚構や創作が含まれていそうだ。
 そしてそう感ずるのは私独りだけでなく、佐藤通雅氏も、
 このカレー事件の描写は、あたかもその場にいあわせ、二階のみならず階下へまで目をくばっているような臨場感がある。しかしいうまでもなく、両方に臨場することは不可能だ。…(筆者略)…見聞や想像を駆使してつくりあげた創作であることは、すぐにもわかる。
〈『宮澤賢治東北砕石工場技師論』(佐藤通雅著、洋々社)83p〉
と断じている。どうやら、前掲の森の引用文には森自身の手による虚構あるいは創作がありそうだ。
 よって、「下敷」にされたという『宮澤賢治と三人の女性』における露に関する記述には、一方的に露を悪し様に描いてる点や露の扱い方が不公平な点を含む、あやかしが少なくないことがこれで判った。

 4.「一九二八年の秋の日」の「下根子桜訪問」
 それでは、露に関して「あやかしでない」と思われるものとしては何がこの「下敷」に書かれているのだろうか。それは、
 彼女にはじめて逢った時の様子を『宮沢賢治と三人の女性』に森は高瀬露についていろいろと書いているが、直接の見聞に基いて書いたものは、この個所だけであるから参考までに引用しておく。       〈『七尾論叢11号』(七尾短期大学)77p〉
と上田が同論文中で断り書きをして引用している、唯一「直接の見聞」に基づいたと考えられる次の記述、
一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった。…(筆者略)…
 ふと向うから人のくる氣配だった。私がそれと氣づいたときは、そのひとは、もはや三四間向うにきていた。…(筆者略)…半身にかまえたように斜にかまえたような恰好で通り過ぎた。私はしばらく振り返って見ていたが、彼女は振りかえらなかった。                     〈同77p〉
だ(たしかに、『宮澤賢治と三人の女性』の74p以降にこのように書いてある)。
 ところが肝心のこれが大問題となる。「一九二八年の秋」であれば、賢治は豊沢町の実家で病臥していたのだから「下根子桜」にはもはや居らず、この引用文に書かれているような「下根子桜訪問」は森には不可能であり、「一九二八年の秋」という記述は致命的ミスであることが明らかだからだ。
 そこで、『新校本年譜』はこの「下根子桜訪問」についてどうしたかというと、
「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。    〈『新校本年譜』、359p〉
と註記して、これを「一九二七年の秋の日」と読み変えている。つまり同年譜は、「一九二八年」は森の単純なケアレスミスだったと判断していることになる。しかしながらこのような判断は安直であり、論理的でもない。そもそも、大前提となるそのような「下根子桜訪問」自体が確かにあったという保証は何ら示せていないからだ。
 まして上田の前掲論文中〈同81p〉には、「露の「下根子桜訪問」期間は大正15年秋~昭和2年夏までだった」という意味の露本人の証言も載っているから、もしそうだったとすれば、「一九二七年(昭和2年)の秋」に森が「下根子桜」を訪ねたとしても道の途中で露とはすれ違えないので、尚更その保証が必要となる。
 しかもよくよく調べてみたならば、賢治が亡くなった翌年の昭和9年発行の『宮澤賢治追悼』でも、『宮澤賢治研究』(昭14)でも、そして『宮沢賢治の肖像』(昭49)でも皆、その「下根子桜訪問」の時期を森は「一九二八年の秋」としていて、決して「一九二七年の秋」とはしていなかった。こういうことであれば、「一九二七年の秋」に森は「下根子桜」を訪問していなかったと、普通は判断したくなる。
 そんな時にふと思い出したのが、『宮澤賢治と三人の女性』では西暦が殆ど使われていなかったはずだということだ。そこでそのことを調べてみたならば案の定、全体で和暦が38ヶ所もあったのに西暦は1ヶ所しかなく、それがまさに「一九二八年の秋の日、私は下根子云々」の個所だけだった。しかも、同じ年を表す和暦の「昭和三年」を他の5ヶ所で使っているというのにも拘らずである。
 となれば、あれはケアレスミスなどでは決してなく、彼にはその訪問の年を「一九二七年」とはどうしても書けない何らかの「理由」が存在していたという蓋然性が高いと言える。しかもそこだけは和暦「昭和三年」を用いずに西暦を用いているということから、ある企みがそこにあったのではなかろうかと疑われても致し方なかろう。
 もはやこうなってしまうと、件の「下根子桜訪問」の年を森は決して「一九二七年」と書くわけにはいかなかったということがほぼ明らかだ。おのずから、同年の秋の日に森はそのような訪問そのものをしていなかったということも否定できなくなったので、今までの大前提が崩れ去り、この「直接の見聞」は実は単なる創作だったということがいよいよ現実味を帯びてきた。
 一方で、次のような疑問が湧く。森は『宮沢賢治 ふれあいの人々』(熊谷印刷出版部)の17pで、
 この女の人が、ずっと後年結婚して、何人もの子持ちになってから会って、いろいろの話を聞き、本に書いた。
と述べていながら、上田に対しては、
〈一九二八年の秋の日〉〈下根子を訪ねた〉その時、彼女と一度あったのが初めの最後であった。その後一度もあっていない。                   〈『七尾論叢11号』(七尾短期大学)77p〉
と答えたという。もちろんどちらの女性も露のことであり、森は露と会ったのは一度きりと述べたり、別の機会にも会ったと述べたりしていることになるから、件の「下根子桜訪問」に関して森は嘘を言っていた蓋然性が高い。ならばいっそのこと逆に、是非はさておき、その訪問時期は「一九二七年の秋の日」だったと森は始めから嘯くという選択肢だってあったはずだがなぜそうはしなかったのだろうか、という疑問が湧くのだった。

 5.捏造だった森の「下根子桜訪問」
 そんな時に偶々私が目にしたのが、平成26年2月16日付『岩手日報』の連載「文學の國いわて57」(道又力氏著)であり、そこには、
 東京外国語学校へ入学した森荘已池は、トルストイも愛用した民族衣装ルバシカにおかっぱ頭という最先端のスタイルで、東京の街を闊歩していた。…(筆者略)…ところが気ままなボヘミアン暮らしがたったのか、心臓脚気と結核性肋膜炎を患ってしまう。仕方なく学校を中退して、盛岡で長い療養生活に入る。
ということが述べられていた。
 これによって、当時森は病を得て帰郷、その後盛岡病院に入院等をしていたということを私は初めて知って、そういうことだったのかと頷き、これこそが先の「理由」だと覚った。心臓脚気と結核性肋膜炎で長期療養中だった当時の森が「一九二七年」の秋に「下根子桜」を訪問することは土台無理だったから、「一九二七年」とは書けなかったのだ、と。
 念のため、『森荘已池年譜』(浦田敬三編、熊谷印刷出版部)も参照してみると、
・大正15年11月25日頃、心臓脚気と結核性肋膜炎を患って帰郷し、長い療養生活。
・昭和2年3月 盛岡病院に入院。
・昭和3年6月 病気快癒、岩手日報入社。
と要約できる。やはり、昭和2年(一九二七年)当時の森は確かに重病で盛岡で長期療養中だった。したがって、そのような重病の森が、盛岡から花巻駅までわざわざやって来てなおかつ歩いて「下根子桜」へ訪ねて行き、しかもそこに泊まれたということは常識的にはあり得ない。畢竟、森の「一九二七年」の「下根子桜訪問」は実際上も困難だったのだ。
 次に当時の『岩手日報』を調べてみたところ、昭和2年6月5日付同紙には「四重苦の放浪歌人」とも言われた下山清の「『牧草』讀後感」が載っていて、その中に、
 森さんが病氣のため歸省したこと脚氣衝心を起こしてあやふく死に瀕し、盛岡病院に入院したことは私もよく知つてゐる。
という記述があった。確かに『広辞苑』によれば、「脚氣衝心」とは「呼吸促迫を来し、多くは苦悶して死に至る」重病だというではないか。また他にも、石川鶺鴒等の同様な記述が幾つか『岩手日報』紙上に見つかった。
 これで、今まで謎だった「頑なに「一九二七年」としなかった」その「理由」が私には完全に納得できた。「一九二七年」当時の森は重篤であることがこうして新聞で広く伝えられていたので、森が「一九二七年」の秋に「下根子桜」を訪問したと書いたならば、世間からそれは嘘だろうと直ぐ見破られるであろうことを森はわきまえていたからだ、と。そして同時に、先に湧いた疑問、森が「一九二七年」と嘯けなかった理由もこれだったのだと私は納得した。とうとうこれで「詰み」だろう。
 最後に、「仮説検証型研究」に翻訳して万全を期す。まずはここまでの考察によって、
〈仮説8〉森荘已池が一九二七年の秋に「下根子桜」を訪問したということも、その時に露とすれ違ったということも事実とは言えず、いずれも虚構だ。
が定立できる。そして、これを裏付ける証言や資料は幾つもあったが、その反例は現時点では何一つ見つかっていないのでこの仮説の検証ができたことになる。よって、この〈仮説8〉は今後その反例が突きつけられない限りという限定付きの「真実」だ。
 さて、ここまでの「仮説検証型研究」を用いた検証作業等によって、とうとう恐れていたことが現実のものとなり、大前提だった件の「下根子桜訪問」が崩れてしまった。その結果、唯一の「直接の見聞」と思われた「露とのすれ違い」も単なる虚構だったということになってしまった。まさにあやかしの極み、しかもそこには悪意があるからこれらは捏造と言える。となれば、先に考察した「ライスカレー事件」等も同様で、虚構や風聞程度のものだったと判断せざるを得ない。
 したがって、『宮澤賢治と三人の女性』における露に関する記述には捏造の「下根子桜訪問」を始めとして、悪意のある虚構や風聞程度のものも少なからずあることが判ったから、そこで語られている露は捏造された〈悪女・高瀬露〉であり、同書は露に関しては伝記などではなくて、悪意に満ちたゴシップ記事に過ぎなかったと結論するしかない。おのずから、そのような『宮澤賢治と三人の女性』を元にして露は〈悪女〉であったなどとはもう言えないという事は明らか。またそれは、この章の冒頭(113p)で述べたように、
高瀬露は、しばしば下根子桜の宮澤家別宅を訪れて賢治を助け、しかも賢治とは少なくともある一定期間オープンで親密なよい関係にあり、賢治歿後は師と仰ぎながら偲ぶ歌を折に触れて詠んでいることが公になっていて、しかも長きにわたって信仰の生涯を歩み通したクリスチャンであった。
のだから、当然の帰結であろう。
 そして、そもそも賢治と露の間の関係で露のことを「悪女」だと仮に謗るのであれば、父政次郎から賢治は「女に白い歯をみせるからだ」(『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉豊文著、筑摩書房)48p)とか、「おまえの不注意から起きたことだ」(『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)89p)とこの件で強く叱責されたということだから、少なくとも賢治も「悪男」だと謗らねばならない。しかし実態は、賢治はそうでなくて露独りだけが悪女にされてきたからあまりにもアンフェアであり、逆に、このようなアンフェアな実態もまた、〈悪女・高瀬露〉は何らかの悪意によって捏造・流布されたものであるということを教えてくれる。
 というわけで、本当の高瀬露は巷間言われているような〈悪女〉では決してなかった、ということを読者の皆様方には了解していただけたものと私は確信している。

 6.「新発見」と嘯いたことの責め
 これに対して、それは分かったが例の詩〔聖女のさまして近づけるもの〕があるじゃないかと指摘する人がいるかもしれない。実際、この詩の誤解によって露は〈悪女〉されたとも言える。しかし既に論じた(91p~)ように、この詩を元にして露を〈悪女〉に決めつけることができないということは実証済みである。
 いやいや、例の「新発見」の書簡もあるではないかと指摘する人もまたあるかもしれない。あの『校本全集第十四巻』で明らかになった新発見の昭和4年の露宛賢治書簡によって、露は〈悪女〉だとされても仕方がないじゃないか、と。だがそこには信じられないほどの重大な問題点・瑕疵があるのである。
 たしかに、昭和52年になって同巻は「補遺」において、従前「不5」となっていた書簡及び下書について、
 新発見の書簡25(〈註二十一〉)2c(その下書群をも含む)とかなり関連があるとみられるので、高瀬あてと推定し、新たに「252a」の番号を与える。            〈『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)28p〉
と述べて、「新発見」の賢治書簡下書252c等を公にした。そして、
   本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としている            〈同34p〉
と断定し、この「断定」を基にして、従前からその存在が知られていた「不5」を含む宛名不明の下書「不2」「不4」等の一連の書簡下書群約23通を〝昭和四年〔日付不明 高瀬露あて〕下書〟として一括りにした。なお、なぜ年次が「昭和四年」なのかというと、同巻は、
 252cが四年十二月のものとみられるので、252a~252cはすべて四年末頃のものと推定し  〈同29p〉
たと述べていた。
 ところが、これら一連の書簡下書群の最もベースとなる肝心の書簡下書252cについて、同巻は「本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としている」と断定してはいるものの、その根拠が何ら明示されていない。また、その裏付けがあるということも、検証した結果だということも付言していない。したがって「判然としているが」といくら述べられても、読者にとっては、「客観的に見て判然としていない」ことだけがせいぜい判然としているだけだ。そしてそのような書簡下書252cを基にして、さらに推定を重ねた(推定を重ねれば重ねるほど当然確かさはどんどん減る)りしたものが一連の書簡下書群約23通である。確たるものは殆どない。あくまでも「昭和4年の露宛と推定される」賢治書簡下書群でしかない。
 にもかかわらず同巻はさらに推定を重ね、
…推定は困難であるが、この頃の高瀬との書簡の往復をたどると、次のようにでもなろうか。
⑴、高瀬より来信(高瀬が法華を信仰していること、賢治に会いたいこと、を伝える)…(筆者略)…
⑶、高瀬より来信(…(筆者略)…暗に賢治に対する想いが断ちきれないこと、望まぬ相手と結婚するよりは独身でいたいことをも告げる)…(筆者略)…
⑸、賢治より発信(下書も現存せず。いろいろの理由をあげて、賢治自身が「やくざな者」で高瀬と結婚するには不適格であるとして、求愛を拒む)              (傍点筆者)〈同28p~〉
と、続けて⑹、⑺の「推定」も書き連ねている(はしなくも「次のようにでもなろうか」というレベルのものを、『校本宮澤賢治全集』において活字にして公にしたことは如何なものか)。そしてこの「推定」⑴~⑺は、高瀬露がそれまでの信仰を変えて法華信者になってまでして賢治に想いを寄せ、一方賢治はそれを拒むという内容になっている。それ故、この「推定」を読んだ人達は、そこまでもして賢治に取り入ろうとしていた露に対して、きわめて好ましくない女性であるという印象を当然持ってしまったであろう。
 しかもこのような「推定」等を大手の出版社が公にすれば世の常で、同巻の出版時点ではあくまでも推定であったはずのこれらの書簡下書群がいつのまにか断定調の「昭和4年露宛賢治書簡下書」に変身したり、はては「下書」の文言がどこかへ吹っ飛んでしまって「昭和4年露宛賢治書簡」となったりして、独り歩きして行くであろう。そして同様に、「推定」⑴~⑺の内容も、延いては、「露は賢治にとってきわめて好ましくない女性であった」ということなどはとりわけ独り歩きしてしまうことを、私は懸念する。
 もちろん、このようなことを懸念しているのは私独りのみならず、例えば、tsumekusa氏が管理するブログ〝「猫の事務所」調査書〟も、平成17年に既に同様な事柄を指摘しているところである。また、米田利昭も、
   ひょっとするとこの手紙の相手は、高瀬としたのは全集の誤りで、別の女性か。
と、『宮沢賢治の手紙』(米田利昭著、大修館書店、平成7年)の223pにおいて疑問を呈している。
 そして実際、少なからぬ賢治研究家の論考等において、自身では裏付けを取ることも検証することもないままに、まさに断定調の「昭和4年露宛賢治書簡下書」を再生産をしているようにしか見えない論考等(〈註二十二〉)を私はしばしば目にする。確実に、「推定」が「断定」に変貌して独り歩きしているのである。

 一方で唖然としてしまったのが、「旧校本年譜」の担当者である堀尾青史が、
 そうなんです。年譜では出しにくい。今回は高瀬露さん宛ての手紙が出ました。ご当人が生きていられた間はご迷惑がかかるかもしれないということもありましたが、もう亡くなられたのでね。
〈『國文學 宮沢賢治2月号』(學燈社、昭和53年)177p〉
と境忠一との対談で語っていたことであり、天沢退二郞氏も、
 おそらく昭和四年末のものとして組み入れられている高瀬露あての252a、252b、252cの三通および252cの下書とみられるもの十五点は、校本全集第十四巻で初めて活字化された。これは、高瀬の存命中その私的事情を慮って公表を憚られていたものである。〈『新修 宮沢賢治全集 第十六巻』(筑摩書房)415p〉
と述べていたことである。
 当然これらのことから、何のことはない、『校本全集第十四巻』が「新発見の」と華々しく銘打った書簡下書252b及び252cではあったのだが、実は露の帰天を待って「新発見の」と嘯いて同巻は公にしたものであって「新発見」でも何でもなかった、という可能性があるということがおのずから導かれるからだ。だから中には、同巻は「死人に口なし」を悪用した、と詰る人だってあるかもしれない。先に私が「信じられないほどの重大な問題点・瑕疵がある」と述べたのはこのようなことを指していたのである。
 そこで私は次のようなことを疑わざるを得ない。その内実は、高瀬露が昭和45年2月23日に帰天したのを見計らったようにして、同巻の担当者が「新発見」の書簡下書があったとにぎにぎしく形容し、露宛かどうかもはっきりしていない書簡下書を充分な裏付けも取らず、まして検証もせずに「本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが」とかたって、それまでは公的には明らかにされていなかった女性の名を突如「露」と安易に決めつけて公表してしまったのではないか、と。
 しかも、タイミング的にはこの「新発見」が切っ掛けとなって〈露悪女伝説〉が全国に拡がってしまった事が否定できない。となれば、「新発見」と嘯いて安易に実名を活字にしてしまったこと、そし「推定」⑴~⑺を載せてしまったことの責めを同巻は負わなくてもよいのですか、と問われることはないのだろうか。

 7.冤罪とも言える〈悪女・高瀬露〉の流布
 まず少しく振り返ってみれば、これまでの「仮説検証型研究」等の結果、『宮澤賢治と三人の女性』における露に関する記述には捏造の「下根子桜訪問」を始めとして、悪意のある虚構や風聞程度のものも少なからずあることが判ったから、そこで語られている露は捏造された〈悪女・高瀬露〉であり、同書は露に関しては伝記などではなくて、悪意に満ちたゴシップ記事に過ぎなかったとするのが妥当だと分かった。
 ところが、森は『宮澤賢治と三人の女性』の巻頭で、
 宮沢賢治については、今までに数冊の傳記的著述はなされているが、やや完全とみられる「傳記」はない。今のところ、なかなか書かれる日も近く來そうもない。…(筆者略)…
 この本は、宮沢賢治を知るためのみちの、一つのともしびである。つまり宮沢賢治と、もつともちかいかんけいにあつた妹とし子、宮沢賢治と結婚したかつた女性、宮沢賢治が結婚したかつた女性との三人について、傳記的にまとめて、考えてみたものである。
 〈『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)3p~〉
と述べているものだから、殆どの人が同書を「伝記」であると捉え、同書の記述内容を歴史的事実と信じ切り、そこで語られている〈悪女〉の存在も事実であったと思い込んだのであろう。しかも上田哲の指摘(115p)どおり、誰一人としてその検証もせず、裏付けも取らぬままにそれを「下敷」として、その拡大再生産等が繰り返され、「宮沢賢治と結婚したかつた女性」は〈悪女〉であったとなり、「宮沢賢治と結婚したかつた〈悪女〉」がいたとなり、次第に〈悪女伝説〉が出来上がっていったというのが実情と言えよう。
 ただしここで注意せねばならぬことは、この「下敷」そのものには、〈露悪女伝説〉を全国に流布させた直接の責任は殆どないということである。そしてまた、「下敷」に基づいたその後の再生産も同様にである。それは、ある時期までは高瀬露という実名を誰一人として一切公には明らかにしていなかったからだ。せいぜい一部の人だけが内々に知っていた限定的〈露悪女伝説〉でしかなかった。巷間言われてきたことは、「宮沢賢治と結婚したかつた女性」がいてその人は〈悪女〉だったいうことに過ぎない。
 ところが前述したように、『校本全集第十四巻』が「新発見」の書簡下書の宛先は高瀬露であると実名を初めて公表し、さらに「推定」⑴~⑺も活字にしてしまったから、「露は賢治にとってきわめて好ましくない女性であった」と一般読者等に受け止められてしまう公表の仕方になってしまった。そこでこの「公表」が切っ掛けとなって、それまで巷間言われてきた先程の「宮沢賢治と結婚したかつた〈悪女〉」が実はこの高瀬露だったのだと読者から決めつけられて、〈悪女・高瀬露〉が一瀉千里に全国に拡がってしまったという事を否定できない。しかもこの他の切っ掛けはどうも見当たらない。だからこれは問題となる。
 それはまず、一連の書簡下書群が露宛のものであり、しかも、これらの下書に認められている内容が事実であったということを同巻は実証し切れていないからである。そして次が、件の「下敷」が事実であったということを同巻は(検証したと明言はしていないので)実証できたとは言えないからである。そしてもう一つ、このような段階で実名を公表すれば、それまで一部にしか知られていなかった〈露悪女伝説〉が一気に全国に広まってしまう虞があるということを事前に充分に検討していたとは言えないからである。まして〈悪女・高瀬露〉は人権に関わる重大事だから、「新発見」と銘打った上での実名の公表や、「推定」⑴~⑺の公表はことのほか慎重であらねばなかったはずだ。なぜなら、もし「下敷」で語られている〈悪女〉が事実でなかったならば、この「公表」はとんでもない人権侵害になり、冤罪に直結してしまうからだ。
 そして「下敷」で語られている〈悪女〉を実際に検証してみたところ、本節の冒頭等で述べたように、それは事実ではなくて捏造であったということが判った。露は客観的な根拠が全くないのにも拘わらず理不尽なことに〈悪女〉の濡れ衣を着せられてしまった(〈註二十三〉)のだった。よって、現状の〈悪女・高瀬露〉の全国的流布は冤罪であり、「賢治伝記」上の看過できぬ瑕疵である、と私は異議申し立てをしたい。

 さてこれで、私は高瀬露の本当の姿をかなり浮き彫りにできたつもりなので、露は少なくとも巷間流布してるような〈悪女〉では決してなかった、ということを皆さんには了解していただけたものと確信し、正直、片方の肩の荷は下りた。さりながら、人権がとりわけ尊重される今の時代になってさえも、捏造された〈悪女・高瀬露〉の全国的流布を憂えてそのことを公に問題提起する賢治研究家は上田哲以外には現れないのだろうか、と私この現状ずっと憂えてきたのでもう一方の肩の荷はまだまだだ。
 ……と思っていたのだが、実は時代は少しずつ動き始めているし、その動きは加速しそうだ。それはまず、平成16年に佐藤誠輔氏が論考「宮沢賢治と遠野 二(賢治と交流のあった遠野人)」を『遠野物語研究第7号』(遠野物語研究所)上で公にしていたことである。そして同論考において、
 私と妻は晩年小笠原露と同じ学校に勤めていたことがある。既に子供たちを育て終え、養護教諭となっていた彼女は、人の悪口を言わない教師として、同僚から一目置かれていた。
〈『遠野物語研究第7号』(遠野物語研究所)93p〉
と述べているように、著者の佐藤氏は職場の同僚だった露の人柄等も知っているので、巷間流布している〈露悪女伝説〉に疑問を抱き、それに与することなく、真実の露に迫っていたからである。
 次に平成27年には、雑賀信行氏が『宮沢賢治とクリスチャン花巻篇』(雑賀編集工房)を著し、その中の節「4高瀬露と高橋慶吾」において高瀬露について論じており、例えば、
 賢治は生涯、ひとりの女性ともつきあったことがなく、恋愛慣れしていなかったので、女心がまったく分かっていなかったのだ。                               〈同169p〉
と賢治の責任についても指摘したりしながら、従来の〈悪女伝説〉に疑問を投げかけているからである。
 そしてこれらの新しい動きがあるからであろうか、平成29年になると、大伊和雄氏も論考「小笠原露の賢治観」(『賢治学 第四輯』(岩手大学宮澤賢治センター編、法政大学出版部)所収)を著して、
 いわゆる小笠原露問題が近年再検討されて、その吃驚と見なされ、故意に喧伝された言動のみを声高に強調した旧来の論調に修正が加えられつつある。筆者は、賢治を聖人化するあまりにもバイアスのかかった議論にくみすることなく、資料による実証的な考察によって、真実を明快にし、かつて貶められていた小笠原の名誉を回復しようとする動向に賛同するものである。
 …(筆者略)…今般、入手し得た若干の資料等に基づいて、小笠原の正当な名誉回復に資すべく小論を著して、江湖における諸賢のご考察を承る次第である。
〈『賢治学 第四輯』(岩手大学宮澤賢治センター編、法政大学出版部)91p〉
と宣言し、実証的な考察によって従来の言説に疑問を呈し、露に関して冷静に分析・考察しながら、小笠原(高瀬)露の名誉を回復せんとしているからである。
 したがって、その動きは点から次第に面へと拡がりを見せつつあることを、とりわけこの大伊氏の論考を知って私は今実感している。そして一方では、露の濡れ衣を晴らさんとして結成された『白露草協会』も次第に会員数を増やしているから、このような動きは少しずつだが確実に拡がりを見せてゆくだろう。

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