みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

「気温の低下に稲作悲観」

2015-10-09 08:30:00 | 涙ヲ流サナカッタヒデリノトキ
 後々、「平成27年9月19日は一度議会制民主主義が死んだ日だった」と歴史から裁きを受けるでしょう。
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 大正15年8月17日付『岩手日報』に次のような記事が載っていた。
 気溫の低下に稻作悲觀 此儘なれば大減収 竹蓋農事試驗塲長談
 本年の稻作は出穂期にはいつて俄に氣溫が低下し出穂がおくれたため早くも前途を悲觀するの聲が起こつたが竹蓋縣農事試驗塲長は語る
 七月二十三日迄の状況では平年作より稍不良との見込みであつたが其後の氣溫の低下は警戒を要すると同時に悲觀すべき色が見える試驗塲の早稻は例年八月一二日までに出穂(三割)するのであるに今年は十五日で半月ほどおくれて居る、早稻は大なる打撃はないであらうが中おくれのものは今月一杯氣溫がズーッと高騰し残暑が長ければよいがソウでなければ大減収は免れないであらう、昨今の樣な氣溫が若し今月一杯續いたとしたら大切な出穂期であるから大變な事になりはせぬかと案じて居るがドノ位減収するかといふ事は今後の氣溫如かんに依るものであるからなんとも云ひない
 つまり、大正15年8月17日時点で大正15年の岩手の
    稻作悲觀 此儘なれば大減収
という報道がなされていたのである。

 もちろん賢治はこの8月17日付『岩手日報』に目を通していなかったはずはなく、この記事も見ていただろう。あるいは、百歩譲ったとしても、「羅須地人協会時代」の賢治、「旧暦のお盆」の中日(8/23)に「羅須地人協会」を創立しようとしていた賢治ならばこの情報を知らなかったはずはなかろう。また、大正15年〔8月〕付森佐一宛書簡(219)に、
二十二日の旧盆からかけて例の肥料の講演や何かであちこちの村へ歩かなければなりません<*1>からお約束のお出でをしばらくお待ちねがひます。九月に入ってからなら大丈夫です。まづは  
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)314pより>
ということだからなおさらにであろう。
 さすれば、賢治が「稻作悲觀 此儘なれば大減収」という事に対する危惧を抱かなかったはずがない。またそれ以前に、この年の紫波郡などの旱魃被害を知らなかったはずもない。つまり、賢治の知識と経験があれば大正15年の稗貫も含めて紫波郡内の旱害を恐れていたはずだ。
 がしかし、その後の賢治の言動からは、この年の未曾有の紫波郡の旱害に対してその対策のために徹宵東奔西走したということも、救援活動をしたということも私は共に確認できずにいる。なぜ賢治はこの年の稗貫を含む紫波の大旱害被害に関し何一つ対応をしなかったのだろうか、この新聞記事を見てますます疑問が増してしまった。
 
<*1:註> ただし、この記述「二十二日の旧盆からかけて例の肥料の講演や何かであちこちの村へ歩かなければなりません」は検証を要するであろう。それは、それこそ旧暦のお盆」の中日(8/23)に「羅須地人協会」を創立しようとしていたという賢治ならば、このような講演等を計画していたということは矛盾しているからである。したがって、少なくともこのどちらかは事実でないということになるし、この書簡の中のこの記述は方便であったということもあながち否定できないということになる。

 続きへ
前へ 

 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
                        【『宮澤賢治と高瀬露』出版のご案内】

 その概要を知りたい方ははここをクリックして下さい。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« イギリス海岸(10/6) | トップ | 下根子桜(10/7) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

涙ヲ流サナカッタヒデリノトキ」カテゴリの最新記事