みちのくの山野草

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828 庚申塔について(考察7)

2009-02-21 08:17:51 | 庚申信仰
 ところで、なぜ今回このような五庚申塔を探し始めたのかというと、賢治は「雨ニモマケズ手帳」の最後のページにどうして”七庚申は1つなのに五庚申を2つも書いている”のかと云うことが切っ掛けであった。
 
 そこでも、もう一度原点に戻るためにそのページを見てみよう。
    【Fig.28 復元版「雨ニモマケズ手帳」165~166p】(校本宮澤賢治全集 資料第五 筑摩書房)

羽黒山などの供養塔のスケッチが描かれているが、青や赤そして紫の色鉛筆で丁寧に彩りされた”五庚申と七庚申”も描かれている。

 このことに関して、小倉 豊文氏は『解説 復元版「雨ニモマケズ手帳」』(小倉 豊文著、筑摩書房)において、
 「庚申」は1年に六度めぐってくるのが普通であるが、年によっては五度しかないことがありそのときは米は凶作、七度のこともありそのときは豊作になるという民間信仰であると云う。そこで、それぞれその年には凶作回避、豊作御礼の「庚申天」のお祭りが行われるのだそうだ。
と論じている。
 ところが、賢治の「文語詩 一百篇」の『庚申』には
   歳に七度はた五つ、    庚の申を重ぬれば、
   稔らぬ秋を恐みて、    家長ら塚を理めにき。

   汗に蝕むまなこゆゑ、   昴の鎖の火の数を、
   七つと五つあるはたゞ、  一つの雲と仰ぎ見き。

    <『校本 宮沢賢治全集 第五巻』(筑摩書房)より>
とある。
 つまり、賢治は『七庚申』のときも『稔らぬ秋』と詠っているから、花巻あたりでは「五庚申」の年も「七庚申」の年もともに凶作になると思われていたのであろう(あるいは、賢治がそう思っていたのかも知れないが)。そこで、「五庚申」と「七庚申」の年には凶作回避のために恐(かしこ)んで農民は庚申塔を建てたのだと賢治は思っていたであろうことが推測できる。
 したがって、この詩と先程の小倉氏の書いてあることとは矛盾するからであろうか、小倉氏は『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉 豊文著、東京創元社)では次のように述べている。
 ところで庚申のある日の月を「庚申月」と呼んだが、庚申の日は六十日目に廻ってくるので一年に六回あるのが普通である。ところが時に一年に五回の年と七回の年とがある。この前者が「五庚申」で後者が「七庚申」であるが、この年廻りは凶年であるといわれ、特に供養塔を建てたり、庚申祭を盛大にする風習があり、岩手県下では昔から盛んであった。
と。
 そして、小倉氏は同著で
 因みに、この手帳の書かれた一九三一年(昭和六年)は、十二月三十一日が庚申で、その前の庚申が十一月一日であって、七庚申の年であった。とすると、この二頁を記したのは少なくとも七庚申のこの年の、最後の二庚申の間であったことは確かであろう。しかし、この手帳の記入は必ずしも順次に頁を追ったものとは考えられないから、この手帳の最後である一六五・一六六頁の記入が最後の記入とは断じられない。
 ただ、この年が伝統的な俗信仰で「七庚申」という「厄年」であり、しかも、その最後が一年の最後の大晦日に当たっていたことは、淳朴な農民に相当深刻に受け取られ、農村での「庚申待」は、第六回の十一月一日の行事も真剣に盛大に各地で行われて、その情報が病床の賢治にも伝えられたのではあるまいか。彼が病床についてから―換言すれば、この手帳をかきはじめてから―「庚申」の日は十一月一日が最初であったわけである。彼もはじめは「七庚申」の年を意識していなかったが、農村の情報をきいて初めてそれと知り、それがこの手帳の最後(記入の最後という意味ではない)の二頁の記入となったのではなかろうか。

とも論じている。

 さてそこで気になるのが、
 この手帳の書かれた一九三一年(昭和六年)は、十二月三十一日が庚申で、その前の庚申が十一月一日であって、七庚申の年であった。
の部分である。
 以前”五庚申塔を探して(花巻太田等)”でも述べたように
 昭和6年は『七庚申』であったと云われれているようだが、それは新暦で考えた場合であり、具体的には次のような日にちがその場合の庚申日である。
新暦昭和6年(1931年)の庚申日=1/5 、3/6、5/5、7/4、9/2、11/1、12/31
である。

 しかし、賢治は同一ページに「五庚申」も書いている。「五庚申」は旧暦でしかあり得ないものだからこのページの”庚申”については旧暦で考えていたはずである。実際、
   旧暦昭和6年の庚申日=1/18,3/18,5/19,7/20,9/22,11/23(庚申日6回)
だから、賢治はこの年をはたして『七庚申』と捉えていたのだろうか、と云う疑問が私には生じて来る。言い換えれば、「七庚申」の年だからこのように書いたのではなく、狙いは別なところにあったのではなかろうかと云う想いに至ってしまう。

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