
「庚申さん」は、賢治の創作劇『種山ヶ原の夜』の幕切れの”草刈二”の台詞にも出て来ている。
草刈二、「さあすっかり霽れだ。起ぎでぢゃい。」
伊藤(起きて空を見る)「あゝ霽れだ 霽れだ。天の川まるっきり廻ってしまったな。」
草刈二、「あれ、庚申さん、あそごさお出やってら。」
見廻人「あの大きな青い星ぁ明の明星だべすか。」
伊藤「はあ、あゝあ、いゝ夢見だ。馬だったすか。」
見廻人「いゝえ、おら谷まで行って水呑んで来たもす。」
草刈一、「もうは 明るぐなりががたな。草見で来たも、あゝいゝな、北上の野原、雲下りでまるで沼みだぃだ。」
伊藤「あゝ あの電燈ぁ水沢だべが。町の人づぁまだまだねってらな。あゝ寒ぃ。」
草刈二、「さあ、座って寒がってるよりはじめるすか。」
伊藤「はあ。」(草刈一鎌を取り出す
鳥なく。)
<『校本 宮沢賢治全集 第十一巻』(筑摩書房)より>
もちろん、ここでも「庚申さん」とは「昴」のことであろう。
では、今回は『庚申塔』を建てる意味を探ってみたい。
まずは、今までに出会った建立月日が判読できた50基の『庚申塔』に対して、建立月別に『庚申塔』の数をカウントしてみた。次のようになる。
《表5 建立月別庚申塔数》
旧暦1月 0基
2月 0基
3月 4基
4月 2基
5月 1基
6月 4基
7月 7基
8月 11基
9月 3基
10月 9基
11月 3基(この月に2つの五庚申塔建立)
12月 6基
<注:・昭和63年の七庚申塔は除いた(新暦によっていたので)。
・詳細は末尾の《表9》参照>
さて、『東北地方では五庚申の年は凶作、七庚申は豊作』ということであったとすれば、庚申供養塔を建てる理由は当然
五庚申塔の場合⇒凶作回避祈願
七庚申塔の場合⇒豊作御礼
の供養のために建てるという図式になるはずである。
ところが、50基中に2基ある『五庚申塔』の建立月はいずれも11月である。旧暦では『刈り上は東北地方では「三九日」(みくにち)』と云われていたというから、花巻でも旧9月29日までには稲刈を終えていたはずである。とすれば、この2基の建立月が11月であることから、この2つの『五庚申塔』が建てられた時期は稲刈りが終わってからということになってしまう。それでは”五庚申塔は凶作回避祈願の為に建てる”という論理には当てはまらないことになる。もうそのときには既に稲の作柄は確定してしまっているからである。
また、『七庚申塔』についてもその建立理由は豊作御礼のためだけとは云い切れないと思う。8月以前にはまだ稲作の作柄は確定していないはずだが、これら48基の『七庚申塔』の中の29基が8月以前に建てられているからである。『七庚申は豊作』と言い伝えられていても、先きの《表1 庚申塔建立年表(庚申と気象災害)》で判るように、『七庚申』でさえも不作のときがある。豊作かどうか判らない8月以前に『豊作御礼の為に建てられる七庚申塔』を建ててしまって、あとで不作になってしまったならば神様に対して申し訳が立たないであろう。
したがって、庚申塔の建立は
五庚申塔の場合⇒凶作回避祈願
七庚申塔の場合⇒豊作御礼
供養のためと云う図式は、花巻周辺においては必ずしも成り立つとは言えないようだ。
つまり、見て廻った花巻周辺に建てられている庚申塔から導かれる結論は、
賢治が生きていた頃の花巻周辺では、
五庚申塔は凶作回避祈願の、七庚申塔は豊作御礼の為に建てられた供養塔であるとは言い切れない。
と云うことではなかろうか。
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《表6 庚申塔(建立月日順)リスト》
◎(七)庚申塔(下似内稲荷近く、 明治36年3月4日)
◎庚申供養(椚ノ門熊野神社、 寛政7年3月9日)
△庚申(三嶽神社、 文政12年3月26日)
△庚申供養併刻(花巻大橋近くの八坂神社、文政2年3月28日)
◎庚申(花巻養護学校前、 文化11年4月5日)
◎七庚申(椚ノ門熊野神社、 昭和11年4月 )
◎庚申(成田一理塚近く、 天保6年5月初2日)
◎庚申(岩谷不動、 弘化4年6月13日)
◎庚申塔(湯口赤沼の路傍、 文化8年6月14日)
◎七庚申(鞍掛白山神社、 昭和11年6月19日)
◎奉供養庚申(成田一理塚近く、 宝暦9年6月?日)
◎庚申供養(太田新淵の路傍、 寛政9年7月12日)
◎七庚申(円万寺の公民館前、 明治36年7月12日)
◎七庚申(円万寺の公民館前、 大正14年7月12日)
◎庚申(花巻大橋近くの八坂神社、嘉永6年7月17日)
◎庚申(椚ノ門熊野神社、 文化14年7月18日)
◎七庚申(三嶽神社、 明治33年7月21日)
◎庚申(塔鼬幣稲荷神社、 文政5年7月24日)
◎庚申塔(円万寺観音山、 ?年8月4日)
◎庚申塔(狼沢稲荷、 寛政12年申8月10日)
△七庚申(湯口中村、 明治36年8月9日)
◎(七)庚申(清水観音、 明治33年8月12日)
◎七庚申(胡四王山千手観音堂、 大正3年8月12日)
◎七庚申(三嶽神社、 大正14年8月12日)
◎庚申塔(円万寺の公民館前、 安政4年8月13日)
◎庚申(下似内路傍、 嘉永元年8月19日)
◎七庚申(円万寺の公民館前、 昭和11年旧8月20日)
◎七庚申(下小路路傍、 昭和11年旧8月20日)
◎(七)庚申(狼沢路傍、 明治12年8月)
◎庚申供養(花巻神社、 年号不明9月25日)
◎庚申塔(観音寺観音堂、 天保14年9月吉日)
◎七庚申塔(地蔵堂、 昭和22年9月吉日)
◎七庚申(椚ノ門熊野神社、 大正3年10月1日)
◎庚申塔(湯口赤沼の路傍、 安政5年10月15日)
◎七庚申(矢沢八幡宮、 明治33年10月21日)
◎七庚申(観音寺観音堂、 昭和11年10月21日)
◎七庚申(一本杉愛宕神社、 明治33年10月22日)
◎庚申供養塔(下似内稲荷神社、 寛政9年10月25日)
◎庚申塔(円通寺そばの薬師神社、嘉永7年10月25日)
◎庚申供養塔(下小路、 享和3年10月吉日)
◎(七)庚申塔(清水観音、 明治12年10月吉日)
△五庚申(湯口中村、 明治35年11月4日)
◎庚申(一本杉バス停、 文化14年11月12日)
◎(五)庚申(湯口中村、 大正元年11月2日)
◎七庚申(三嶽神社、 明治22年12月19日)
◎七庚申(鼬幣稲荷神社、 大正14年旧12月18日)
◎庚申塔(椚ノ門熊野神社、 明治33年旧12月19日)
◎七庚申(狼沢稲荷、 明治12年12?月19日)
◎七庚申(岩谷不動、 明治33年12月23日)
◎七庚申(狼沢路傍、 明治33年旧12月23日)
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草刈二、「さあすっかり霽れだ。起ぎでぢゃい。」
伊藤(起きて空を見る)「あゝ霽れだ 霽れだ。天の川まるっきり廻ってしまったな。」
草刈二、「あれ、庚申さん、あそごさお出やってら。」
見廻人「あの大きな青い星ぁ明の明星だべすか。」
伊藤「はあ、あゝあ、いゝ夢見だ。馬だったすか。」
見廻人「いゝえ、おら谷まで行って水呑んで来たもす。」
草刈一、「もうは 明るぐなりががたな。草見で来たも、あゝいゝな、北上の野原、雲下りでまるで沼みだぃだ。」
伊藤「あゝ あの電燈ぁ水沢だべが。町の人づぁまだまだねってらな。あゝ寒ぃ。」
草刈二、「さあ、座って寒がってるよりはじめるすか。」
伊藤「はあ。」(草刈一鎌を取り出す
鳥なく。)
<『校本 宮沢賢治全集 第十一巻』(筑摩書房)より>
もちろん、ここでも「庚申さん」とは「昴」のことであろう。
では、今回は『庚申塔』を建てる意味を探ってみたい。
まずは、今までに出会った建立月日が判読できた50基の『庚申塔』に対して、建立月別に『庚申塔』の数をカウントしてみた。次のようになる。
《表5 建立月別庚申塔数》
旧暦1月 0基
2月 0基
3月 4基
4月 2基
5月 1基
6月 4基
7月 7基
8月 11基
9月 3基
10月 9基
11月 3基(この月に2つの五庚申塔建立)
12月 6基
<注:・昭和63年の七庚申塔は除いた(新暦によっていたので)。
・詳細は末尾の《表9》参照>
さて、『東北地方では五庚申の年は凶作、七庚申は豊作』ということであったとすれば、庚申供養塔を建てる理由は当然
五庚申塔の場合⇒凶作回避祈願
七庚申塔の場合⇒豊作御礼
の供養のために建てるという図式になるはずである。
ところが、50基中に2基ある『五庚申塔』の建立月はいずれも11月である。旧暦では『刈り上は東北地方では「三九日」(みくにち)』と云われていたというから、花巻でも旧9月29日までには稲刈を終えていたはずである。とすれば、この2基の建立月が11月であることから、この2つの『五庚申塔』が建てられた時期は稲刈りが終わってからということになってしまう。それでは”五庚申塔は凶作回避祈願の為に建てる”という論理には当てはまらないことになる。もうそのときには既に稲の作柄は確定してしまっているからである。
また、『七庚申塔』についてもその建立理由は豊作御礼のためだけとは云い切れないと思う。8月以前にはまだ稲作の作柄は確定していないはずだが、これら48基の『七庚申塔』の中の29基が8月以前に建てられているからである。『七庚申は豊作』と言い伝えられていても、先きの《表1 庚申塔建立年表(庚申と気象災害)》で判るように、『七庚申』でさえも不作のときがある。豊作かどうか判らない8月以前に『豊作御礼の為に建てられる七庚申塔』を建ててしまって、あとで不作になってしまったならば神様に対して申し訳が立たないであろう。
したがって、庚申塔の建立は
五庚申塔の場合⇒凶作回避祈願
七庚申塔の場合⇒豊作御礼
供養のためと云う図式は、花巻周辺においては必ずしも成り立つとは言えないようだ。
つまり、見て廻った花巻周辺に建てられている庚申塔から導かれる結論は、
賢治が生きていた頃の花巻周辺では、
五庚申塔は凶作回避祈願の、七庚申塔は豊作御礼の為に建てられた供養塔であるとは言い切れない。
と云うことではなかろうか。
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《表6 庚申塔(建立月日順)リスト》
◎(七)庚申塔(下似内稲荷近く、 明治36年3月4日)
◎庚申供養(椚ノ門熊野神社、 寛政7年3月9日)
△庚申(三嶽神社、 文政12年3月26日)
△庚申供養併刻(花巻大橋近くの八坂神社、文政2年3月28日)
◎庚申(花巻養護学校前、 文化11年4月5日)
◎七庚申(椚ノ門熊野神社、 昭和11年4月 )
◎庚申(成田一理塚近く、 天保6年5月初2日)
◎庚申(岩谷不動、 弘化4年6月13日)
◎庚申塔(湯口赤沼の路傍、 文化8年6月14日)
◎七庚申(鞍掛白山神社、 昭和11年6月19日)
◎奉供養庚申(成田一理塚近く、 宝暦9年6月?日)
◎庚申供養(太田新淵の路傍、 寛政9年7月12日)
◎七庚申(円万寺の公民館前、 明治36年7月12日)
◎七庚申(円万寺の公民館前、 大正14年7月12日)
◎庚申(花巻大橋近くの八坂神社、嘉永6年7月17日)
◎庚申(椚ノ門熊野神社、 文化14年7月18日)
◎七庚申(三嶽神社、 明治33年7月21日)
◎庚申(塔鼬幣稲荷神社、 文政5年7月24日)
◎庚申塔(円万寺観音山、 ?年8月4日)
◎庚申塔(狼沢稲荷、 寛政12年申8月10日)
△七庚申(湯口中村、 明治36年8月9日)
◎(七)庚申(清水観音、 明治33年8月12日)
◎七庚申(胡四王山千手観音堂、 大正3年8月12日)
◎七庚申(三嶽神社、 大正14年8月12日)
◎庚申塔(円万寺の公民館前、 安政4年8月13日)
◎庚申(下似内路傍、 嘉永元年8月19日)
◎七庚申(円万寺の公民館前、 昭和11年旧8月20日)
◎七庚申(下小路路傍、 昭和11年旧8月20日)
◎(七)庚申(狼沢路傍、 明治12年8月)
◎庚申供養(花巻神社、 年号不明9月25日)
◎庚申塔(観音寺観音堂、 天保14年9月吉日)
◎七庚申塔(地蔵堂、 昭和22年9月吉日)
◎七庚申(椚ノ門熊野神社、 大正3年10月1日)
◎庚申塔(湯口赤沼の路傍、 安政5年10月15日)
◎七庚申(矢沢八幡宮、 明治33年10月21日)
◎七庚申(観音寺観音堂、 昭和11年10月21日)
◎七庚申(一本杉愛宕神社、 明治33年10月22日)
◎庚申供養塔(下似内稲荷神社、 寛政9年10月25日)
◎庚申塔(円通寺そばの薬師神社、嘉永7年10月25日)
◎庚申供養塔(下小路、 享和3年10月吉日)
◎(七)庚申塔(清水観音、 明治12年10月吉日)
△五庚申(湯口中村、 明治35年11月4日)
◎庚申(一本杉バス停、 文化14年11月12日)
◎(五)庚申(湯口中村、 大正元年11月2日)
◎七庚申(三嶽神社、 明治22年12月19日)
◎七庚申(鼬幣稲荷神社、 大正14年旧12月18日)
◎庚申塔(椚ノ門熊野神社、 明治33年旧12月19日)
◎七庚申(狼沢稲荷、 明治12年12?月19日)
◎七庚申(岩谷不動、 明治33年12月23日)
◎七庚申(狼沢路傍、 明治33年旧12月23日)
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