みちのくの山野草

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もしかすると「不羈奔放?」と思った最初

2016-02-15 08:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 まず前もってお断りしておきたいことがある。私がこのシリーズで述べたいことは、
    どうやら、少なくとも「羅須地人協会時代」の賢治は不羈奔放だった。
ということであり、何も賢治を不羈奔放だったからといって貶めようとしているわけでもなければ、その作品を貶そうとしているわけではないということである。あくまでも「賢治研究」のさらなる発展のためにである。
 というのは、先に触れたように、池澤氏の指摘どおり、
 どうも世間の宮澤賢治ファンの人たちは、ケンジさんという人を徹底して誠実で、禁欲的で、求道的な人格者と見ているようだ。
からである。もう少し説明を付け加えれば、このように世間が賢治を見るのはそれが通説であり、その通説はほぼ新・旧『校本宮澤賢治全集』の「賢治年譜」によって形成されてきたはず。ところが、私がここ約10年ほどかけて「羅須地人協会時代」を検証してきた結果、この「賢治年譜」にはあやかしな点が少なくないことを実証できた。そこで、現「賢治年譜」の特に「羅須地人協会時代」のそれを当局には一度しっかりと検証し直してもらいたいというのが、私がこの頃特に訴えたいことであり、このシリーズの投稿行為はその一環である。なぜならば、
 「賢治年譜」は「賢治像」の基底、いわば地盤だから、もしそこに液状化現象が起こっているとすればそれは真っ直ぐに建たないし、私たちも同じ地平には立てない。
からだ。
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 もしかすると賢治は「不羈奔放?」と思った最初は、今から8年ほど前に、関登久也の次の述懐<*1>を知った時だった。
 賢治の物の考え方や生き方や作品に対しては、反対の人もあろうし、気にくわない人もあろうし、それはどうともしようのないことではあるが、生きている間は誰に対してもいいことばかりしてきたのだから、いまさら悪い人だったとは、どうしても言えないのである。
 もし無理に言うならば、いろんな計画を立てても、二、三日するとすっかり忘れてしまったように、また別な新しい計画をたてたりするので、こちらはポカンとさせられるようなことはあった。
              <『新装版宮沢賢治物語』(関登久也著、学研、平成7年)13p~より>
とはいえ、私がこの本を最初に読んだ頃は、「いろんな計画を立てても、二、三日するとすっかり忘れてしまったように、また別な新しい計画をたてたりする」という「熱しやすく冷めやすい」という性向は天才にはよくありがちなことと認識していた。ただし、関が「もし無理に言うならば」と断り書きをしているということからは逆に、賢治という人は物事にあまり拘ることなく、その時々に自分のやりたいことをやるという性向が際立っていたのかもしれないと私は思った。これが、もしかすると賢治は「不羈奔放?」と思った最初だった。
 そしてその後、井上ひさしが次のように、
 賢治はゴム長靴を愛用していたが、当時の百姓がこんな上等なものをはくわけがない。だれもが自分で編んだ尻切れ藁草履で田を行き野を歩く。…(投稿者略)…
 教え子たちの証言によれば、賢治は靴下を常用していた。踵が抜けていて、そこでこの農民志願者は破れ目を上にしてはくのが常だったのだが、それでも当時の東北地方で靴下をはく農民など一人もいはしいない。真冬でも素足が普通で、足袋をはくのは正月の三ヶ日か、あるいは御祝儀不祝儀のときぐらいのものだった。
 畑でとれた野菜をリヤカーに載せて町場に売りに出かけることもあった。…(投稿者略)…
 なによりもリヤカーを引き歩くというのが言語道断である。当時の花巻ではリヤカーを備えた商家など数えるほどしかなく、リヤカーがあれば大店である。いまにたとえればベンツのようなもの、そんなものを野菜の行商に使ってはいけない。
               <『宮沢賢治の世界展』(朝日新聞社)62pより>
と論じていることを知った。たしかに、私もつい先頃までは「ゴム長靴」や、板谷栄城氏の言を借りれば、「ダルマ靴というのは、貧乏な農民用の最も安い履き物だと思っていた」。これは、板谷氏が『素顔の宮澤賢治』の中で、
 ところで賢治の教え子照井謹二郎からいろいろ話を聞いたおり、「ダルマ靴というのはなかなか高価なもので、普通の農民には手のとどかないものでしたな」と独り言のように言うのを聞いて、頭をハンマーでたたかれたほどびっくりし、そして心の中で赤面しました。恥ずかしい話ですが、それまではダルマ靴というのは、貧乏な農民用の最も安い履き物だと思っていたのです。賢治と同じ盛岡高等農林学校に学び、大戦中に岩手の農村で農民のまねごとをしたことのある私でさえそうですから、頭の中だけでで農業に憧れいわゆる進歩的思想の文学青年たちが、ダルマ靴のことを農聖の清貧の象徴と思ったのも無理ありません。
                  <『素顔の宮澤賢治』(板谷栄城著、平凡社)51pより>
と語っている中にあるのだが、たしかに「頭をハンマーでたたかれたほど」ショックだった。私は本当のことは何もわかっていなかったのだ。
 当然、「ダルマ靴というのはなかなか高価なもので、普通の農民には手のとどかないもの」であれば、周りの農民たちから見ればそれはその頃の賢治にとっては不釣り合いなものということになり、それと同じ論理で、まして野菜を売って歩くために「リヤカーを引き歩くというのが言語道断である」ということになろう。たしかに井上の断定も頷ける。そこで私は次第に、賢治って周りの目など気にしないで、自分のやりたいように生きていたのかもしれないなと思うようになっていった。つまり、賢治には「不羈奔放」の傾向があると。
 そして最近、萬田務氏が『孤高の詩人 宮沢賢治』の中で、
 農民たちからすれば、農民たちと同じように考え、行動してくれれば何もいうことはないのだろうが、賢治のとった行動はむしろ彼らの神経を逆撫でするようなものであった。そのひとつが雪菜やヒヤシンスの栽培である。賢治からすればそれらを無料で農民たちに配り、そのことによって彼らの暮らしが少しでも明るく、潤いに満ちたものにでもなればと思ってやったであろうことは想像に難くない。ただ、農民たちからすれば賢治の行為は施し以外の何ものでもなかった。その上、リヤカーとなれば、彼らの反応はいっそう冷ややかになろう。当時、リヤカーを買える農民たちはごく少数であり、まだまだ贅沢品であったのである。さらには、日頃の行動もそれらに拍車をかけさせたと思われる。
              <『孤高の詩人 宮沢賢治』(萬田務著、新典社)、241p~より>
と論じていることを知った。賢治自身はそんなことは意識しなかったのあろうが、賢治の行動は端から見ればたしかに「神経を逆撫でするようなものであった」のかもしれない。(それを私は「鈍感だった」とは言いたくないからなのかもしれないが)賢治は周りの目など気にせずに、自由奔放に振る舞っていたと言えそうだから、少なくとも「羅須地人協会時代」の賢治は不羈奔放だったと言ってもよさそうだ、というように私の認識は変化していった。
 そしてその駄目押しは、私の知人で盛岡一高出身、盛岡中学と盛岡一高の校史を知悉したK氏からある時、
    今の盛一の校訓は忠実自彊だが、盛中では不羈奔放だったこともある。
ということを教わったことだった。賢治はそういう気風がまだ残っていた盛岡中学で多感な五年間を送っていたんだ……。

<*1:投稿者注> この初出は、『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年)の「前書き」のようであり、昭和32年に既に関登久也はこのことを公にしていた。

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《鈴木 守著作案内》

 『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』         『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』       『羅須地人協会の終焉-その真実-』

 『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)               『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』

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