みちのくの山野草

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3530 楽団を止めた真の理由

2013-09-28 08:00:00 | 涙ヲ流サナカッタヒデリノトキ
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
即刻止めたのは楽団
 一般には、この2月1日付『岩手日報』の報道を境にして賢治はそれまで羅須地人協会で行っていた活動から次第に手を引いていったと言われているようだ。
 具体的には、伊藤克己が「その當時思想問題はやかましかつたのである。先生はその晩新聞を見せて重い口調で誤解を招いては濟まない」と証言しているような理由で「オーケストラを一時解散」したということが先ずあったであろう。しかし、羅須地人協会としての集会や講義も同時に行われなくなったというわけではない。少なくともそれらは昭和2年の3月までは行われたいたことは周知の通りである。
 ところが冷静になって考えてみれば、もし「思想問題」がもとで協会員に迷惑をかけることになったということであれば、先ず止めるべきは集会や講義の方であろう。なぜならば、「青年三十餘名と共に羅須地人協會を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになつた地人協會の趣旨は現代の悪弊と見るべき都會文化のに對抗し農民の一大復興運動を起こすのは主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り」という内容はまさしく社会主義の実践そのものと捉えられても致し方ないからである。
 ところが実際には、即刻止めたのは集会や講義の方ではなくて〝オーケストラ(楽団)〟だったのである。そこで、一つの可能性が浮かび上がって来る。賢治が〝楽団〟を解散した理由は「思想問題」ではなかったという。
止めた真の理由
 さて、2月1日付の新聞報道を聞き知って周りの人々は一体どう思っただろうか。当時の社会情勢と彼等の楽器演奏技能の実状に鑑みれば、多くの人々から
 稗貫の旱害被害も軽くないが、隣の紫波郡内の赤石村や志和村、不動村、古館村等の農民はそれどころかもっと悲惨で「凶歉」状態にあるというのに、賢治は一回り年下の若者達を集めて一体何を暢気なことをしているのか、今はそんなことをしている時勢にはなかろう。多くの若者たちがこの惨状を何とかしようとしてボランティア活動のために駆かけずり回っているというのに、夜な夜な下根子桜の宮澤家の別荘に「いい若者たち」が集ってギコギコと下手な音を立てながら音楽活動をやっているとは情けない。そんなことをしている金と暇があるならばならば少しは隣村のために何らかの義捐活動でもしろ。
というように誹られ、不満や不信を抱かれたと言わざるを得ない。そしてそのような風評は賢治にも伝わっていった、とも。
 つまり、
 この新聞報道を切っ掛けとして賢治たちの活動内容が公となったがためにこのような誹りを受けているということを察知した賢治は、楽団活動を即刻止めてしまった。真の理由は「思想問題」のせいではなくて、周囲から厳しい批判や誹謗を受けたせいであった。
という可能性が高かったのではなかろうか。
 一方、賢治が集会や講義をほぼ止めてしまったは昭和2年の3月頃前後のようだから、「思想問題」がそれこそ問題となったのはその頃であり、花巻警察署長伊藤儀一郎から賢治が事情聴取を受けたのはまさしくその時であったいうことも同時に導かれそうだ。

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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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