みちのくの山野草

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保阪嘉内に対する折伏

2018-02-12 10:00:00 | 法華経と賢治
《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》

 理崎氏によれば、例えば、
 嘉内が退学した時、賢治は、「今は摂受を行ずるときではなく折伏する時ださうです」と大正7年3月の書簡<*1>で述べている。
            〈64p〉
という。そしてその後もかなり強い調子で嘉内を折伏し続けていることが当時の書簡から読み取れると。
 さらに、例えば、
 「今度私は国柱会信行部に入会いたしました。即ち最早私の身命は日蓮聖人の御物です。従って今や私は田中智学先生の御命令の中に丈あるのです 謹んで此事を御知らせ致し 恭しくあなたの御帰正を祈り奉ります」<*2>
 大正9年12月2日、賢治は入会を嘉内に報告した。
            〈70p〉
という。
 ちなみに、『新校本宮澤賢治全集第十五巻 書簡 本文篇』によれば、これらの書簡49~177の間に賢治が保阪に宛てた書簡は次の通り。
【大正7年(20通)】
50 〔三月二十日前後〕
51 〔三月二十九日〕
56  四月二十日
58 〔四月二十六日〕 
59  四月三十日
63  五月十九日
74 〔六月二十日前後〕
75  六月二十六日
76  六月二十七日
78 〔七月十七日〕
82  七月二十四日
83  七月二十五日
83a 〔八月〕
88  九月二十七日
89 〔十二月一日〕
93 〔十二月初め〕
94 〔十二月十日前後〕
95  十二月十六日
102 十二月三十一日
102a 〔日付不明〕
【大正8年(9通)】
144 〔四月〕
145  五月二日
146 〔五月〕
152a 〔七月〕
153  〔八月上旬〕
154  〔八月二十日前後〕
155  八月三十日
156  九月二十一日
158 〔十二月二十三日〕
【大正9年(12通)】
159 〔二月頃〕
161 〔三月頃〕
162 〔四月〕
163 〔五月二日〕
164 〔五月〕
165 〔六月~七月〕
166 七月二十二日
167 〔七月末~八月初め〕
168 八月十四日
169 〔八月十七日〕
171 九月四日
172 九月二十三日
《合計41通》
である。改めてその回数の多さに驚く。そしてその書面の影像を『花園農園の理想をかかげて』(アザリア記念会)において見てみると、賢治が如何に熱心に保阪を折伏せんとしているかということがたしかに読み取れる。

 ところで「国柱会信行部に入会」についてだが、大橋冨士子氏によれば、
 国柱会信行員は本化妙宗「宗綱・信条」を遵奉する正規メンバーで、在家仏教の教会同盟を護持する誓いの同志ですから、まず研究員に入って、日蓮主義を研究し信仰修行が確立したら、信行員に訂盟する規定になっています。
          〈『宮澤賢治 まことの愛』(大橋冨士子著、金剛出版)68p〉
という。ところが、賢治は「一躍信行員の入会が承認任されました。ほかにも数は少ないのですが、そういう人もあります」というこで、彼はそれまでにかなり「領解が進んでいた」ということになるのだろう。

 そしてこの、「日蓮聖人に従うのと同じように田中智学に服従します」に関して理崎氏は、
 智学は…(投稿者略)…、自分はいろいろ言われる凡夫だが、ここは絶対に服従してほしい、と話している。近代は批判しながら学ぶのが普通で、服従はおかしいと思うだろうが、そうしなければ仏教の本質を把握できないのだ。批判なら学び尽くしてからすべきだ、とも述べている
             〈71p〉
と説明していた。なるほど、賢治は田中智学先生に「絶対に服従して」いたに違いないと私も理解した。それゆえにこそ、賢治はひるむことなく保阪を折伏し続けたのだろう、と。そして、それは保阪のことを思ってということもあったのだろうが、先に理崎氏が
 この時の賢治は単に仏教研究がしたかったのではない、これからの生き方を真剣に模索して、法華経の信仰とは何を実践するものなのか、を追究していたのである
述べていたことを紹介したが、それに続いて、
 法華経の実践とは「受持」、日蓮と同じ心で法華経を受持すること、と智学は指摘している。「同じ心」とは命を懸けて折伏することなのだという。
             〈62p〉
と述べていたことを思い出して、私は解釈した。それは賢治自身の「法華経の実践」だったのだと。

<*1:投稿者註> 〔大正7年3月14日前後〕保阪嘉内あて書簡49(抜粋)
誠に私共は逃れて静に自巳(ママ)内界の摩訶不思議な作用、又同じく内界の月や林や星や水やを楽しむ事ができたらこんな好い事はありません。これはけれども唯今は行ふべき道ではありません。今は摂受を行ずるときではなく拆伏を行ずるときだそうです。けれども慈悲心のない拆伏は単に功利心に過ぎません。功利よきさまはどこまでも私をも私の愛する保坂君をもふみにぢりふみにぢり追ひかけてくるのか。私は功利の形を明瞭にやがて見る。功利は魔です。あゝ私は今年は正月から泣いてばかりいます。父や母やあなたや。
             <『新校本宮澤賢治全集第十五巻 書簡 本文篇』(筑摩書房)>
<*2:投稿者註> 1920年12月2日 保阪嘉内あて書簡177(抜粋)
満一ヶ年芽出度く兵役をお勤めなされ最早御帰郷の次第とも存じますがいかゞでございますか。御動静承りたう存じます。
 今度私は
  国柱会信行部に入会致しました。即ち最早私の身命は
  日蓮聖人の御物です。従って今や私は
  田中智学先生の御命令の中に丈あるのです。 謹んで此事を御知らせ致し 恭しくあなたの御帰正を祈り奉ります。
あまり突然で一寸びっくりなさったでせう。私は 田中先生の御演説はあなたの何分の一も聞いてゐません。唯二十五分丈昨年聞きました。お訪ねした事も手紙を差し上げた事もありません。今度も本部事務所へ願ひ出て直ぐ許された迄であなたにはあまりあっけなく見えるかも知れません。然し
  日蓮聖人は妙法蓮華経の法体であらせられ
  田中先生は少なくとも四十年来日蓮聖人と 心の上でお離れになった事がないのです。
これは決して間違ひありません。即ち
  田中先生に 妙法が実にはっきり働いてゐるのを私は感じ私は信じ私は仰ぎ私は嘆じ 今や日蓮聖人に従ひ奉る様に田中先生に絶対に服従致します。御命令さへあれば私はシベリアの凍原にも支那の内地にも参ります。乃至東京で国柱会館の下足番をも致します。それで一生をも終ります。
             <同>

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。


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