簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

家康ゆかりの地  (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-04-29 | Weblog


 藤枝宿は、徳川家康の重臣・酒井家が治めた田中城の城下町である。
江戸時代には、旧街道からは少し外れた東南の田中という地に田中藩
があったのでその藩庁として城が築かれている。
その為藤枝城では無く、田中城と呼ばれていたようだ。



 徳川家康には、こんな逸話も残されている。
鷹狩りの折立ち寄って、茶屋四郎次郎に供され食べた鯛の天ぷらが、
家康死亡の遠因では無いかと疑惑が持ち上がった曰わくの伝わるお
城である。



 家康は重体のまま駿府に帰城し、その4ヶ月余り後に死亡した。
しかしその死は鷹狩りからは余りにも時間が空きすぎていることから、
実際の死因は、その様子を伝える文書などから胃がんでは無いかと推
察できるそうで、今ではこれが有力な説となっているそうだ。



 そんな藤枝の旧街道の通りに「徳川家康ゆかりの町 藤枝白子町誕
生物語」と書かれた幟旗が立っていた。
その横に「白子由来碑」と書かれた立て看板があったが、肝心な「碑」
はと言うと、うっかりしていると見過ごしてしまいそうなぐらい目立た
ない眼科の入り口の脇に小さく、ひっそりと据えられていた。



 説明はこう書かれていた。
本能寺の変の折、難を逃れて伊賀越えを決行した家康は、伊勢の白子で
再び危機に会い、その難を救ったのが自宅に匿った小川孫三であった。



 家康は彼の機転で救われ、三河に帰り着くが、匿った罪を責められる
孫三は当地には住めなくなってしまった。
そのことを知った家康が、藤枝に呼びこの地に住まわせ新白子町とした。
諸役免除の免税地として与えた朱印状は、今でも小川家に大切に残され
ているそうだ。(続)

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藤枝宿  (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-04-27 | Weblog
 宿場の西見附辺りには見事な松並木が残されていた。
その先も、所々に残る松並木の道を辿り、岡部から藤枝宿に入ってきた。
この宿場町は、江戸方の木戸から京方の木戸まで半里(およそ2キロ)
の間で宿場を形成していたと言うからかなり大規模であったようだ。
家数1,061軒、人口4,425人、2軒の本陣を構え旅籠は37軒有ったと言う。





 先ほど通り抜けてきた岡部宿と比べると、旅籠の数も多く、宿内の人
家の数や人口はほぼ倍と賑やかであった。
岡部に夜具を貸し出す余裕もなるほどと感じられる。
そんな宿場には、昔を彷彿させる建物等の遺構は何も残されてはいない。
今日ではさわやか通り、長楽寺商店街、ちとせ通り、白子名店街、上伝
馬商店街と続く様々なお店が軒を連ねる商店街に変貌している。





 オフィスやマンション、様々な商店に混じって、中には「かざりや」
「表具師」等と看板を掲げた店や、江戸時代から180年以上も続く藤枝
だるまの店なども有るらしく、この町の歴史を感じさせている。

 宿内の旧街道を歩くと、意外に社寺が多く立地している事に気付く。
そんな通りの奥の寺の境内に、見事な枝を広げるクロ松が見えてくる。
大慶寺の「久遠の松」と呼ばれる銘木で、今から700年程前、日蓮上人
が比叡山で勉学を終えた帰りにこの地に立ち寄り記念に植えたものだそ
うだ。





 またこの地には、須賀神社のご神木のクスノキや、正定寺には城主が
出世した事を記念して植えた傘形の「本願の松」などがある。
なぜか銘木が揃う宿場町で有る。(続)

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岡部宿  (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-04-24 | Weblog


 岡部川に架かる岡部橋を渡り、岡部宿に入って来た。
ここは本陣と脇本陣がそれぞれ2軒、旅籠が27軒、人工2,300人余りの
小さな宿場である。ここでは、大名が泊まると夜具が不足して隣の宿場
から借りていたと言うが、峠を越えた宇津ノ谷の間の宿とは考えられな
いので、西の藤枝の宿で有ろうが、それでも1里26丁、凡そ7㎞もあり、
当時の大変さが思いやられる。



 この宿を代表する規模を誇り大旅籠と言われたのが、柏屋(かしばや)
である。延べ床面積が約100坪と言い、今目にする建物は江戸後期に建て
られたもので、国の登録文化財に指定されている。内部は歴史資料館とし
て公開されている。



 県道沿いにある大旅籠のその隣には、内野本陣史跡広場がある。
広大な敷地内に当時の建物は何も残ってはいないが、当時の建物の平面
を、埋め込んだ石などで表示しているので、当時の規模を窺い知ること
が出来る。



 県道を外れ旧道に入るとその途中に、うっかりしていると見過ごして
しまいそうな小さな石橋があった。
説明版には「小野小町の姿見の橋」とある。

 東下りでこの地に泊った折、この橋の上から夕映えの西山の景色に見
とれていたが、ふと足元を見ると、且つての輝きを失い疲れ果てた自分
の姿が映っていてその姿を見て老いを嘆き悲しんだという場所である。
今は顔も映らない、小さな用水路のような水路である。



 その先には高札場跡や問屋場跡、桝形跡などがあり、岡部の町の中
心街を抜けた藤枝バイパスの手前には見事な松並木が残され、その切
れる辺りに「これより東海道岡部宿」と彫り込まれた石碑と常夜灯が
立っている。(続)



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四つのトンネル(東海道歩き旅・駿河の国)

2020-04-22 | Weblog


 東海道の宇津ノ谷峠は、昔から交通の難所として知られていて、峠に
は過去から現在に至る歴史の間に、五つのルートが変遷を重ねてきた。
その始まりは、在原業平の伊勢物語で知られる古道「蔦の細道」だ。


 
 その後明治に入ると標高115mの峠近くに203mのトンネルが掘られ、
日本で最初の有料トンネルを抜けるルートが出来た。
更に大正になるとその西側に、大型自動車も通行が可能な新たな大正
のトンネル(227m)が完成した。



 やがて昭和に入ると標高70mほどの地に幅員9mと言う、当時とし
ては最大規模のトンネル(844m)が完成する。
それが現国道1号線上り線のトンネルである。
しかしそんな自慢のトンネルも、その後の通行量の増加で、峠付近は
慢性的な交通渋滞の名所となってしまった。



 その為、大動脈のネックを解消するために、新たに平成のトンネル
(881m、幅員11m)が掘られたのである。完成するとそれが下り専用
線となり、今まであった旧線が上り線用となった。
このように宇津ノ谷峠には明治、大正、昭和、平成の四世代に作られた、
今でも通行可能なトンネルが現存している。

 古代から中世の歩き道みちも残されていて、昔から日本の動脈を支える
全国的にみても特異で貴重な場所である。



 あっけないほどの峠を越えると、岡部宿に向けての下り坂が始まる。
下り道は次第にその幅員が広くなり、所々で舗装された道もあるが、
是はトンネルが出来たことで、その管理道路が通され、旧道が損なわ
れたことによるものらしい。
途中、道中の安全を願った「ひげ題目の碑」や、「蔦の細道」を称え
た蘿径記の碑などを見ながら下れば坂下地蔵堂である。(続)





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宇都ノ谷峠(東海道歩き旅・駿河の国)

2020-04-20 | Weblog

 日本を縦断するフォッサマグナの西縁を走る構造線(糸静線)は、
静岡県内では山がそのまま駿河湾に落ち込むような厳しい地勢を見
せている。ここ宇津ノ谷峠もそんな地にあって、昔から交通の難所
として知られている。





 街道は更に薄暗く曲がりくねった狭い道を上り、途中で俳人・雁三
の墓を見て、その先に進むと延命地蔵堂跡があった。
苔むしつる草などが絡んでいるが、一目で二段構えの人工的な石垣で
あることがわかる。江戸時代中期に組まれたものらしく、その上に峠
の延命地蔵として信仰を集めたお堂が建っていたという。この地こそ
鬼退治伝説に因む十団子の起源とされる地蔵堂があった場所である。





 やがて八丁(凡そ900m)の道を上り詰めるとそこが標高167mの峠
である。峠を示す小さな黄色い札が、大木の幹に巻き付けられている。
難所と言われ、苦しみながら登り至った峠にしては、あっけないほど狭
小の地で、道幅も一間にも満たず、上り終えた頂はそのすぐ先で下りへ
と転じている。





 この今歩いてきた道は、豊臣秀吉が小田原征伐の折り、大勢の兵士
を送り込むために、古代の「蔦の細道」に変わる道として切り開いた
という峠越えの新道で、それを元にして江戸時代の官道とし成立した
のがこの東海道である。

 さすがの秀吉も街道並みの拡幅が出来なかったのか、どうにかやっ
との思いで切り通したというような峠だ。
これでは大軍も一列で無いと通れなかったようで、通すのに大層な苦
労があったのでは、と遠い昔に思いを巡らすのである。(続)



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国史跡の峠越え(東海道歩き旅・駿河の国)

2020-04-17 | Weblog
 静かな佇まいを見せる宇津ノ谷の集落を抜ける道は、やがて急な階
段道に変わる。
両側がスロープで中央に階段が刻まれ片側には手摺も設けられている。
道沿いの民家は苔むした石垣の上に築かれていて、その石垣の三角形
が坂の勾配を教えてくれる。



 石段を登り切ると道は、いよいよ峠に向けその勾配がきつくなる。
ここらあたりの標高は丁度100mほどだ。
宇津ノ谷集落の入口が72m程であったので、集落を抜ける間に30m近
く登ったことになる。ここからが本番で、東海道の中では、箱根や鈴
鹿に次ぐ難所と言われる宇都ノ谷峠越道の始まりだ。



 かなりの勾配で登るヘアピンカーブを過ぎる
と、きれいなレンガタイルの道は尽き、草の生える地道に一変する。
ここで左に折れれば、明治に掘られたトンネル(登録有形文化財)
道に向かうが、旧東海道は右に進む。



「国指定史跡 東海道宇津ノ谷峠超え」の大きな立て看板を見る先は、
濃い緑の中に黒い口をぽっかり開けた旧道の登り口である。
ここから先は、最初は緩やかな階段道で少しずつ高度を稼いで行く。 



 現在の大動脈国道1号線は、どの辺りを貫いているのか定かには解
らないが、トンネルで抜けているせいか、車の行き交う音は全く聞こ
えてこない。 

 深い森の中に入り込む街道は、静寂そのもので、時折聞こえる鳥の
囀り以外聞こえるのは自分の足音だけである。
やがて階段道も尽きるとでこぼこ道となり、所々に往時のものなのか
人工的ではと思われる石の埋まった道となる。



 そんな登り道を10分ほど歩くと木立の隙間から先ほど通り抜けてき
た間の宿・宇津ノ谷の家並みが箱庭のように見えてくるが、その眺め
は今も昔も変らないと言う。



 やっとの思いで峠を下ってきた旅人は、ようやく見えた町並にホッ
と一息着いたことであろう。
そして皆一様に、名物の十団子で早く身体を休めたいものだと思った
に違いない。そんな姿が目に浮かぶようだ。(続)
 



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宇津ノ谷集落(東海道歩き旅・駿河の国)

2020-04-15 | Weblog


 江戸時代には参勤交代の大名も行き来したという、その近世東海道は
標高60m辺りから、トンネルの手前、道の駅の横から国道と分かれる車
道に出て陸橋を渡る。
激しく車の行き交う国道トンネルの出入口を下に見て、勾配のきつい車
道をカーブしながら上っていくことになる。



 しばらく道なりに歩き、右に県道がそれる二叉路を、左の細い道に
入り小さな橋を渡るとそこが宇津ノ谷集落だ。
丸子と岡部の間にあって、宇都ノ谷峠を控えた間の宿である。



 街道はレンガタイルが敷き詰められ道で、峠に向けて緩く登りながら
伸びている。その登り坂の両側に、昔の屋号を書いた看板を掲げる木造
平入の低い家並みが立ち並ぶ様が、往時の雰囲気を良く伝えている。
 
 商売を生業とする家も少ないので、通りは静かで落ち着いた佇まいだ。
電柱が地中化されているのかと思ったが、控えめに片側に寄せられてい
るのも景観を引き立てているように見える。



 坂の途中に「御羽織屋」と言う家があった。
説明によると秀吉による小田原攻めの折、勲功により拝領した羽織を
所蔵していると言い、後にこれ見た家康からは記念の茶碗を与えられ、
それらを所蔵しているという石川家だ。



 生憎とこの日は拝観中止の札が張られ、雨戸が閉じられていたが、
是も五月の連休後の代休の性かもしれない。
また羽織劣化を考慮しての措置かも知れないが、真意の程は計り知る
ことは出来なかった。



 両側の雰囲気の良い民家には、伊勢屋、丸子屋、松屋などと屋号の
書かれた看板が下げられていて、そんな150mほどの坂道の集落を抜け
て行く。(続)



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蔦の細道(東海道歩き旅・駿河の国)

2020-04-13 | Weblog


 五月の連休明けと言うこの時期がどうやら悪かったようで、多くの
店が書き入れ時に営業したせいで今この頃に代休を取っているようだ。
安部川の石部屋も、とろろ汁の丁子屋も生憎の臨時休業で、休憩がて
ら昼食をと楽しみに歩いて来たのに残念である。



 丁子屋を背にして丸子橋を渡ると、右手に京方の見附跡があり、高
札が再現されている。
この先で旧道は人家も疎らになり、宇津ノ谷峠を目指す緩やかな登り
道へと転じていく。国道1号線のトンネルの手前左側に道の駅があり、
ここで遅い昼食を調達する。



 道の駅の直ぐ脇に「蔦の細道 山越旧東海道 明治トンネル 伝説
十団子 延命地蔵尊御羽織屋」と書かれた道標が立っていて、その横
から草むした石段が延びている。
この道が江戸時代以前の古代東海道だ。



 千百年以上も前に開かれた道で、かの在原業平の伊勢物語で知られる
古道である。豊臣秀吉が小田原の北条攻めの折、大軍を通すために新た
な道を開くまでは東国への重要な道路であった。



 新道が開通し「今は樵行通ふ。今も蔦楓生しげれり」と言われた旧
道は、今でもハイキングコースとして歩けなくは無いらしく、途中に
は伊勢物語の歌碑もある。昔はその登り口付近に、鬼退治伝説のお守
り、十団子を売る茶店があったようだ。



 この道は、峠を越えて下った西の出口辺りで、江戸時代に整備され
た正式な東海道と合流するようだ。
丁度その両道の中間辺りを、現在の東海道の大動脈・国道1号線が、
長大なトンネルでり貫いている事になる。(続)




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丸子のとろゝ汁 (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-04-10 | Weblog


 丸子では、近年になって国道が旧道から外れた場所に通されたので、
ここは国道の裏通りと言った感じでそのまま残される事になった。
その為往時を彷彿させるゆるく曲がる道が当時の面影を伝え、良い雰
囲気を漂わせている事が真新しい町並の中にあって僅かな救いである。



 そんな丸子の宿通りを抜け、街道の難所、宇津ノ谷峠に向かうと、そ
の道中丸子橋の手前に、緑豊かな小公園がある。
家康の駿府城築城の折、近在より切り出された石垣用の石がそのまま埋
もれ、近年電話線工事により掘り出されたという「辰石」や、岡本かの
子の文学碑がある。



 『午前の陽は流石に眩しく美しかった。老婢が「とろゝ汁ができまし
た」と運んできた。(中略)炊きたての麦飯の香ばしい湯気に神仙の土
のやうな匂ひのする自然薯は落ち着いた美味しさがあった。』
(「東海道五十三次」 岡本かの子)


 
 丸子宿の茶店では近在の山から掘り起こした山芋が「とろゝ汁」と
して名物になっていた。昔からこの地では自然薯が取れるところで、
それを擂りおろしたものに家伝の白味噌で味付けし、麦飯にかけて食
べるのだそうだ。



 ここには広重が描く江戸時代の浮世絵にタイムスリップしたような
茅葺屋根の建物が立っている。
「西立場 とろゝ汁名物 風味よし」と言われた丁子屋の建物である。



 街道の評判を試してみたいと思いながら、ここまで昼食を取らず空腹
を我慢しながらやってきたのに、あいにくこの日は臨時休業で表戸が固
く閉じられていた。これでは夫婦喧嘩のとばっちりを受け食いそびれた、
膝栗毛の弥二さん喜多さんと同じである。(続)

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丸子の宿 (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-04-08 | Weblog
 丸子交番の辺りで大きく右にカーブするとやがて日本橋から46里の
一里塚跡がある。
左手に丸子川が近づいてくるとその先が江戸方の見附跡だ。この辺り
から道幅が急に狭くなるのは、当時の姿を今に伝えるもののようだ。





 丸子の宿に入ってきた。
ここは江戸から数え20番目の宿場で、当時は鞠子とも書かれていたが、
今日とは違ってこちらを使われるケースの方が多かった様だ。
広重の描く「東海道五十三次」の画も、初刷りでは「丸子名物茶店」で
あったが、直ぐに変更された「鞠子名物茶店」の後刷りが出されている。





 町並みは東西350間(凡そ630m)、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠24
軒の内大規模なものが2軒、他に中16軒、小6軒で、家数は211軒、
人口は700人余りと言うから左程大きな宿場ではなさそうだ。

 しかし宿場としての規模は小さいが、ここは文治年間(1189年)に、
源頼朝に願い出て、許しを得て奉行が置かれ駅舎となったと伝えられ
ている地だ。これは東海道の成立より400年以上も前の事で、それだけ
の歴史有る宿駅と言う事になる。
恐らく宇都ノ谷峠の難所を控えていたことが関連していると思われる。





 今日旧街道は宿通りと呼ばれていて、街道沿いの所々には、江戸文字
で書かれた案内板も充実して立てられている。
道沿いの家屋は、間口が狭く奥行きの長い当時を思い起こす造りらしく、
その玄関先には、旧屋号を書いた看板も掲げられている。
しかし残念ながらこの宿場でも、街道筋には古い建物はほとんど残され
てはいなくて、真新しい住宅のみが建ち並んでいて、町並で往時を偲ぶ
ことは出来ない。(続)

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