簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

蒲原宿 (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-02-28 | Weblog
 岩淵から新坂を下ると、蒲原宿東見附跡である。
ここでは日が暮れれば常夜灯に灯がともり、宿場町への入り口を伝え
ていたと言う。
旧道は交通量の多い県道396号よりは北に一本外れているので、車など
の通行は多くはない。
蒲原は江戸から数えて37里(およそ148Km)15番目の宿場町である。
川留めとなると大勢の宿泊客で賑わったらしく、42軒の旅籠が有った。





 この蒲原宿も御多分に漏れず津波の被害を受け、山側に宿ごと移転
した歴史が有る。駿河湾沿いに西進する東海道に開けた宿場町におい
ては、水難は避ける事の出来ない宿命みたいなもので、大自然との対
峙は今も昔も変わらないようだ。

 宿場のほぼ中央に本陣跡(旧平岡家)がある。
かの東海道中膝栗毛では、喜多さんが大名が到着したどさくさに紛れ、
台所に忍び込み盗み食いをしたと言う。





 その向かいの鈴木家はかつての大旅籠「和泉屋」で、安政年間に建て
られた遺構を引き継いでいる。街道筋には、蔀戸の有る家として国の登
録文化財になっている味噌醤油の醸造元・志田家や、格子戸の美しい家
として知られる増田家住宅や、土蔵やなまこ壁など昔の姿を留める民家
なども多く、低い屋並みが落ち着いた風情のある町並みを見せている。





 そんな中で一際異彩を放っているのが、旧五十嵐歯科医院の建物だ。
外構は薄緑色に塗りこめられた洋館で、大正時代に町家を洋風に増改築
したものだそうだ。
ガラス窓を多く用いた外観は洋風そのものであるが、屋内は和風のまま
と言い、国の登録文化財の指定を受けている。(続)




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間(あい)の宿・岩淵(東海道歩き旅・駿河の国)

2020-02-26 | Weblog


 間の宿と言うのは、主要な街道において、定められた宿場間の距離が
長い場合や、山越えや川越など地勢的に難儀を強いられる場所などに、
発達した休憩施設のことである。
当時の幕府は宿場以外での旅人の宿泊を禁じていたので、これらは宿と
いえども泊まることは禁じられていたが、特別な場合に限っては黙認さ
れていたようだ。



 東海道では、これまでにも戸塚と藤沢の間(7.8Km)の原宿や鉄砲宿、
大磯と小田原の間(15.6Km)の二宮宿、小田原と箱根の間(16.5Km)の
畑宿を見てきた。



 国内では水量豊富で有数な急流である富士川だが、当時の幕府はここ
に橋を架けることをしなかった。
江戸防備のための戦略で有ったことは窺い知れるが、そのため東岸の岩
本村と西岸の岩淵村に渡船業務を許していた。
結果川留めなどに備え両岸には間の宿が発達した。
東の本市場、西の岩淵がそれである。



 富士川の鉄橋を渡り終えると、一つの疑問が浮かんでくる。
川渡しで賑わった間の宿なら、その町並みは当然川岸に近い街道筋に広
がっている筈である。
ところが今日に伝えられている間の宿・岩淵は、川岸からは少し離れた
西に立ちふさがる標高500m余りの大丸山などの山裾と言うか、富士川
の河岸段丘と言うのかよく知らないが、そんな高台に開けている。



 これは暴れ川と言う富士川の度重なる氾濫で度々被害を受けたことや、
大地震や富士山の噴火の被害を受けたこともあって、宿ごと高台に移転
したのだそうだ。街道には秋葉神社の常夜灯も多く、村はずれにはエノ
キの大木の立つ一里塚(江戸から37番目)も残されている。(続)





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富士川鉄橋(東海道歩き旅・駿河の国)

2020-02-24 | Weblog
 明治期、静岡県内でも有数の大地主であったと言う旧松永邸の跡地に
立つビジネスホテルに泊まった翌日、午後から天気が崩れるとの予報を
受け、7時前には宿を出た。
高札場跡、間の宿跡を過ぎ県道に合流、JR身延線の柚木駅を左に見て
線路を越える。途中旧道に外れ、再び県道に戻ると道は少しの上り坂と
なり富士川に架かる鉄橋を目指す。





 橋の手前に松岡水神社があり、富士川の渡船場跡の案内板が立っている。
急流で知られる富士川での水難を防ぐために建てられたものらしい。
川の両岸にはそれぞれ三つの渡船場が設けられていて、流れの状況で使い
分けていたと言う。





 富士川の鉄橋上は、東海道を行く新幹線も、東海道本線も、高速道路
からもここは東海道中では富士山が最も大きく見える絶景のビューポイ
ントである。
天気が良ければ長く裾を引くコニーデが余すところもなく眺められる。
生憎この日は雲が多く、その姿を見ることは出来ない。
昨日だったらよかったのにと思わずにはいられない。





 それでも写真にだけはおさめておきたいと、カメラを向けシャッターを
切ろうとするが写せない。
液晶を見ると「メモリーが一杯です」の表示が出ている。
ここまで何かにの別もなく撮りまくって来たが、700枚ほど記憶できるメモ
リーが一杯になったようだ。

 旅程はまだ半分ほどしか来ていない。予備のメモリーも持っていないので、
残念ながら似たような構図の写真は削除するより仕方がない。
西岸に渡り道路脇に屈みこんで取りあえず何枚かを削除はしたが、これでは
またすぐに撮れなくなるのは目に見えている。(続)



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旧道ぽい道 (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-02-21 | Weblog


 休憩したお菓子屋さんのご主人に教えられた道からは、完全に逸れて
しまった。富士見大通りに出て南進しているので、どこかで右折しなけ
ればと思い蓼原の交差点で曲がったがこれも確証が有っての事ではない。
訝りながら不安を抱え、数百mほど進むと、左に曲がる角が有った。
道路の向こう側を見ると、この道に接するように合流してくる少し狭い
道が見える。



 不思議なもので、こうして旧街道を歩いていると何となく雰囲気で
「旧道らしさ」「旧道ぽくも感じられ、これが意外と間違っていない
事に気付く。まさにここがそうであった。
実は蓼原の一つ手前の交差点・塔の木で右折していればそのまま旧道
に戻ることが出来、ここに出られたのである。



 ここまで来れば今晩の予約をしている宿までは30分足らずの距離だ。
散々迷っては来たが、距離的に大きなロスをしたわけでもなく、予定通
り到着出来そうだ。その宿は、旧街道筋にあり、かつて駿河の大地主と
言われた「松永家」の邸宅跡に建てられていると言う。



 この松永家は、東海道の吉原宿と蒲原宿の中間に位置する平垣村に住み、
その財力を背景に領主から領土の取締役を命じられ、屋敷内に陣屋を構え、
領主に成り代わって年貢の取り立て業務を代々担ってきたという。



 武家風様式の豪壮な邸宅と庭園は、明治の頃には静岡県の名所案内でも
紹介される程のもので有ったという言い、母屋だけでもその建坪が150坪
にも及んでいた。その建物の一部が富士市の「ふるさと村」に移築保存さ
れ、市の指定文化財の指定を受けている。(続)






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迷子 (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-02-19 | Weblog
 休憩がてら地元吉原で、嘉永年間の創業以来160年続くと言う、老舗の
菓子屋「南岳堂」に飛びこんだ。
ここは昔からの「栗まんじゅう」や「カステラ」が評判らしく、最近では
富士山の容を模した「どら焼き」、焼きプリン等の洋菓子も人気だと言う。





 「東海道を歩いている」伝えると、奥さんはお茶を入れてくれ、ご主人
は地図を持ち出して親切に道を教えてくれる。
「再開発されたところは、旧道が途切れていて解りにくいからくれぐれも
気を付けて」と何度も注意をし、念を押してくれる。
名物のお菓子を食べながら30分程休ませて頂いて、再び街道を歩き始めた。





 町並をキョロキョロと眺めながら、お菓子屋さんのご主人に教えられ
た道順を頭の中で反復し、吉原本町通りを歩き中央駅で左折、暫く言っ
て右折し道なりに進み、国道139号に合流した。
この先で青葉通りに出たまでは良かったのだが、そこを過ぎてすぐに左
折すべきところを間違えて、そのままこの通りを直進してしまった。

 当然道路には旧街道を説明するサインも何もない。
サインの無いことで、道を間違えたことに気付いたものの、ここまで来て、
元の道に戻るのも癪だから、このまま見当を付けて進むより仕方が無い。





 本来はもっと南の道を西進するのではと感覚的には思えるのだが、周囲
の道路状況が全くつかめず、途中何度も道を尋ねてみるも、旧道を知らな
い人が多く一向に埒が明かない。
中央公園のロゼシアターのところで、思い切って左折してみる。
確証が有るわけでもなく全くの勘であるが、後で調べればこれは間違った
選択では無かったようだ。(続)




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吉原宿 (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-02-17 | Weblog
 新吉原宿に入る少し手前の和田川を越える橋を「平家越え橋」と言う。
そこには街道の道標とともに、「平家越えの碑」が建っていた。
源平合戦の折このあたりの沼地に陣を敷いた平家軍は、飛び立った水鳥
の羽音に驚き、慌てふためいて総退却したと言う話がこの地に伝えられて
いるそうだ。





 吉原宿で富士山が左手に見えるのは、宿場の位置が度々変更されたこと
による。宿場制度が出来た当初の吉原宿は、東から西に向かう街道に沿っ
たJR吉原駅の東側辺りまでで、元吉原と呼ばれている。
しかし宿場は「海水あふれ、民屋ことごとく崩れる」津波の災害にあい、
十町程北に移されたのが中吉原宿で今日の左富士神社の有る辺りらしい。





 しかしそんな宿場は、ここでも高潮の被害を受け、落ち着くこともなく
更に北西の新吉原宿へと追いやられ移転されている。
それが製紙の町富士市の中心街である吉原本町の辺りで、商店などが建ち
並ぶ、アーケードのある繁華街となっている。
当時本陣が2軒、脇本陣が3軒、旅篭は60軒、家数653軒有ったと言うから、
結構賑わった宿場町らしく、宿内の人口も3,000人近くいたらしい。





 この度重なる宿場の移転により街道も付け替えられ、これまで東から
西に向け真っ直ぐ延びていたものが、急に北方に回り込み、一時的に北
東に向かう場所ができ、そのことが富士を左に望む形となったのだ。
広重の吉原を描く画にも、松並木の続く街道の左手に富士の姿が描かれ
ている。
迂回路は西木戸を過ぎた富安橋辺りで元に戻り、二里半十二丁(約11㎞)
の蒲原宿までの道のりが待っている。(続)




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左富士(東海道歩き旅・駿河の国)

2020-02-14 | Weblog


 駿河湾から離れ街道は北西方向に進路を変えると、その先で東海道本
線を越える。左がJRの吉原駅である。
正面には、かなり前から見えていた赤と白に塗り分けられた、モクモク
と白い煙を吐き続ける煙突が目の前に迫る。吉原は製紙の町でもある。
心なし町の匂いが変わったと思うのは、気のせいで有ろうか。



 河合橋を渡り、製紙工場の前から国道1号線を越え旧道に入る。
この辺り工場地帯のせいか、大型のトラックの行き来が多く、歩道のない
道もあり富士山にばかりに気を取られてもいられない。
しかし、どこから見ても美しい富士の姿を無視はできず、カメラにおさめ
ようとするが、町中では家屋や大きな工場の建物などが裾野を遮っている。



 ここまでの街道歩きではずっと右手に見えていた富士山が、東海道本線
を越えるあたりから前方やや右手に見えてくる。
更に街道を進むとその姿は、少しずつ左に動き、位置を変えている。



 やがて街道左手に左富士神社があり、そこを過ぎたその先の交差点まで
出ると、ここには「左富士」の立て札が有り、ここから見る富士の姿は完全
に左手まで動いている。広重もここでは「左富士の吉原宿」を描いていて、
街道中でも珍しい景観が望める場所となっている。



 「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と言われ
る通り街道から見る富士の雄姿はどこから眺めても本当に素晴らしい。
民家が途切れ、周囲に山も何も遮るものもない所では、左右に延びる長い
稜線までもがはっきりと見え、その優美な姿に感動する。(続)





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スイホシと千本松原 (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-02-12 | Weblog


 原宿を後に街道を西に向けて進む。
この辺りの海岸線では、想定される大地震への備えか、巨大な防潮堤が
聳え立っていて、駿河湾を見通すことは出来ない。
右手にJR東田子の浦駅を見て進むと、田子の浦の松並木が見えてくる。



 そんな道中で、昭和放水路を越えるとその岸に増田平四郎の像が建て
られていた。江戸時代、平四郎は大飢饉や度重なる水害から村民を救済
するため、浮島沼の大干拓を計画し、身延山久遠寺から多額の資金援助
を受け、幅7m全長505mの水路をこの位置に完成させた。
地元の人々が「スイホシ」と呼ぶ大排水路である。



 その完成は計画の発案から27年目の明治2(1869)年春の事であった。
しかしあろうことか、その年の夏、高波を受けて苦心の水路は跡形も無く
壊されてしまい、彼の大計画は途中で頓挫してしまった。
この水路は彼の願いを受け継ご、昭和になって完成させたものだ。



 途中で街道を外れ、千本松原に入ってみた。
木陰が作る空間は、気温も多少下がったようで、緑の匂いも感じられ気
持ちがいい。かつては武田勝頼が、合戦に備え伐採してしまい、その後
植林された松林らしい。
近年になって再び伐採計画が持ち上がった折り、保存活動の先頭に立っ
たのが歌人・若山牧水であったそうだ。毎日散歩するこの地を何として
も残したいとペンを持ち、熱弁で訴えたと伝えられている。



 この地では、ふる里をこよなく愛す先人達の熱い思いが有り、結果豊か
な実りをもたらす田畑と、美しい松原が連綿と引き継がれている。
松林越に望む富士山は、そんな人々の営みを変わらぬ姿で見下ろしている。(続)





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富士山と原宿 (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-02-10 | Weblog
 旧街道はさほど交通量も多くなく、快適な道が続いている。
右手には時々民家の切れ目から、雄大な富士の姿も見え隠れしている。
多少雲はあるものの、良く晴れた空に山頂付近に雪の残る富士の姿がくっ
きりと浮き上がり、思わず足を止めて見入ってしまう程その姿は神々しい。



 原の町並に入ってきた。
右手に浅間神社、左手にJR原駅が近づいて来ると原の宿場町であるが、
旧町を彷彿させる古い建物等は何も残されてはいない。
どこにもありふれた、ごく普通の町並が両側に続いているだけだ。



 昔はこの辺りが中心地で、浅間神社近くに高札場が有った。
この宿場は本陣1、脇本陣1、旅篭25軒、家数398軒、人口2,000人にも
満たない、「此宿も女郎無し」と言われた小さな規模の宿場である。



 本陣を務める渡邉家は、昔からのこの土地の名士・大地主で、山林や
田畑を合わせると6,600坪を所有していたという。
その本陣は間口が15~17間で、建坪は235坪もあったと伝えられている。
明治維新には、東幸の明治天皇が休憩された場所だ。



 東海道と富士山は切り離しては語れない縁がある。
江戸を出る折、遙か遙か先に霞んでいた山が、この辺りまで来るとどん
どん大きくなり、雄大な裾野まで見通すことが出来るようになる。



 広重の描く「東海道五十三次」の、「原 朝之富士」は、朝日を受け、
淡い紅色に染まる富士の姿をどこよりも大きく身近に捉えて描いている。
そこには仰ぎ見る旅人の姿も描かれ、当時の人々が富士の姿に勇気づけら
れていた様子を窺い知ることが出来る。(続)





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従是東沼津領 (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-02-07 | Weblog


 街道は浅間神社の辺りで北西に向かい折れると、西見附である。
この辺りの地名は昔から「出口町」と言うらしく、沼津宿の出口にある
ことから名付けられたようだ。



 途中に「六代松」と書かれた立派の石碑が建っていた。
平家没落後、源頼朝に捉えられた平維盛の子・六大御前は、文覚上人の
命乞いで一旦は助けられたが、その後北条時政により再び捉えられ殺さ
れた悲劇を悼む所縁の松らしいが、その詳しい謂われは良くは知らない。



 新中川橋を渡ると西間門の交差点だ。
その昔、この地の浜で閻魔大王像の首が網に掛かり、見れば首の後ろに
「天竺摩伽陀国」と彫られていた。
マガダ国と言うのは古代インドの仏教の発祥地とも言われる国のことで、
そこから流れ着いたものなのか?
驚いた村人がお堂を建て、胴体手足を造り足して像を安置したと伝わる
土地である。



 ここを左に取れば千本松原に沿った千本浜公園で、そこには千本街道
が貫ぬき、左には駿河湾が広がっている。
旧道は交差点を右に行くことになるがそのすぐ右手を東海道本線が走っ
ていて、途中三本松辺りで線路を越えるが、これらの道と線路は田子の
浦辺りまでほぼ真っ直ぐに並走している。



 この辺りが沼津藩の西堺らしく、それを示す立派な榜示杭が立てられ
ている。沼津藩により立てられた石柱であるが、明治末期頃に下半分が
折られ、上部だけが残されているが、そこには、「従是東沼津領」と書
かれていたと推測されている。
ここで沼津の領地を外れ、この先は1里半(約5.9㎞)先の原宿を目指す
ことになる。(続)





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