簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

火防の策(東海道歩き旅・遠江の国)

2020-12-30 | Weblog


 かつては潮見坂の下に有った白須賀の宿場が、地震による大津波で壊
滅的な被害に遭い、高師山と呼ばれる丘陵の上に移転した。
この新しい宿替えにより津波の心配は無くなったものの、遮るものも無
い台地上を吹く冬の西風は強く今度は度々の大火に悩まされる事となる。
当時は藁葺きの家屋が多く、延焼により火災を大きくしていたようだ。



 その為宿内では屋根を瓦で葺き、屋根の両側に延焼防止の卯建を上げ
る事を推奨した。
また、宿内には何カ所かの「火除地」と呼ばれる広場を設け、この地に
は火に強い槙の木を植えていたそうだ。
槙の木は関東南部より西の各地に自生する常緑針葉樹で、病害虫が比較
的少なく、潮風にも強い為、古くから風よけの垣根や庭木として利用さ
れている。



 「白須賀の宿の名にも似ず、人家の壁の色あかく見ゆるは、手もて赤
土を塗れるなり」と古文に見られるように、この丘陵の特徴である赤土
が民家の壁に塗り込まれていたようだ。
今ではそのような民家を目にすることもないが、是も防火の一策なのか、
火防は秋葉の神頼みだけではなく具体的な策も色々取られていたようだ。



 江戸時代には火防の一種としてこうして火除地(火除明地)を設け、
更に火除けの土手を築き、幅の広い通りを至る所に設置した。
そんな通りは「広小路」などと呼ばれ、その名は今日まで地名として
各地に多く残っている。

 そう言えば鹿児島知覧の武家屋敷群の、屋敷の生け垣の多くは槙の木
が使われている。
これは下部の石垣と組合わせ、攻めるに難く守るに安いデザインと評価
されているようだが、この時代の事である、当然火防の対策でもあろう。
(続)(写真下二枚は鹿児島知覧の武家屋敷群)




 
「東海道歩き旅 遠江の国」編は、次回で完結します。
引き続いて「JR乗り潰し 飯田線195.7㎞ 鈍行列車の旅」が始まります。

ホームページ共々引き続き、宜しくお願いいたします。

     


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曲尺手(東海道歩き旅・遠江の国)

2020-12-28 | Weblog


 宿内に、「曲尺手(かねんて)」が残されている。
宿場の中程にあって、直角に二回曲げられた道のことで、敵の容易な侵
入を阻む軍事的な目的と、それ以外にも重要な役割があり、その目的か
らも多くの宿場内に設けられていた。



 武家諸法度により参勤交代が制度化されると、全国に250余とされる
大名は、2年ごとに江戸に参府し、1年経ったら国元に帰る事が義務付
けられた。
その年やその月により出発や帰参する予定は、細かに決められていたが、
それでも沢山の大名が江戸表に向け、或は国元に向けて行列を組み動く
訳であるからこれは中々に大変な事である。



 当然宿場では他の行列とかち合わないか、事前の調査・調整は欠かせ
ず、綿密なスケジュールが組まれていたようだ。
しかし、周到な準備で調整し出かけてみても、ままならないのが天候や
自然の異変である。

 当然予定は狂い、時には行列同士が街道や宿場でかち合う事もある。
こうした場合、格下の大名は道を譲り、殿様でも駕籠から降りて挨拶を
するのが仕来りとされていた。



 主君を駕籠から下ろす事は、行列を支配する供頭には大失態である。
そこで斥候を出して先を下見させ、もしもの場合は近隣の寺院や土豪の
屋敷に休憩と称して緊急に立ち寄っていたらしい。
その為に「曲尺手」で、敢えて先の見通しを悪くしていたのだ。



 幕府の定める武家諸法度による大名の参勤交代は、各藩に課せられた
軍役としての参府である。
これにより藩の懐から巨費が費やされ、強いては藩財政を圧迫し雄藩で
さえ体力を削がれた言われている。

 その反面大名が活発に動く事で、情報も伝達され、日本社会の均質化、
地方文化の向上に役立った。
何よりも街道の整備が格段に進んだのは最大の恩恵でもあった。(続)





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白須賀宿 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-12-25 | Weblog


 東海道32番目の宿場・白須賀は古くは「白菅」とも書かれていたが、
真砂が集まるところから「州賀」の字が当てられていた。
遠州灘に面した海岸にあり、白い灘が広がっている地として「白須賀」
と呼ばれるようになった。



 宝永4(1707)年の大地震による津波の被害を受け、潮見坂下の地
からこの坂上の台地に移され開かれ、やがて人口2,704人、家数613軒、
本陣と脇本陣は各1軒、旅籠は27軒を有する中規模の宿場町となった。
元の宿場は「元白須賀」と呼ばれる立場(旅人や人夫などの休憩場所)
として残されている。



 「おんやど白須賀」を後に、街道を行くと、石碑が何本も立てられた
公園があり、その先に「潮見坂公園」の石碑が立っている。
しかしそれらしい公園は無く、いまその敷地には小学校や中学校が建て
られているが、かつて旧東海道はこの敷地の中を通り抜けていたと言う。
この辺りは、明治天皇行幸の折の休憩地で、木立越しで望む遠州灘は、
「潮見晴嵐」という遠江八景の一つとなっている。



 ここから暫く進むと宿場の中心的な場所となる。
通りを行く車は少なく、人の姿を見ることもまれで閑散としているが、
それらしい落ち着いた雰囲気の平入りの低い家並みが続く道筋には、連
子格子の嵌った古い民家も幾らか残されている。
その内の一つ川原氏宅は、昔の旅籠屋の跡で、建物は湖西市の文化財に
指定されている。



 民家には昔の屋号が書かれた札が掛けられているが、本陣跡、脇本陣
跡や高札場跡などには、当時の遺構は何も残されてはいず、僅かに案内
板で知るのみである。(続)





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おんやど白須賀 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-12-23 | Weblog


 「いやぁ~、キツかったです。疲れました~ぁ」
やっとの思いで潮見坂を登り切り、汗を拭きながら、街道の道路脇に
建つ施設の玄関に立った。

 「距離は600mほどしかないのですがね。キツいですね、私は六年間
毎日朝晩上り下りして通学しましたよ」と、坂を登り切った左側にある
「おんやど白須賀」で、受付に座る男性が答えながら迎え入れてくれた。



 白須賀宿の入口にある無料休憩所「おんやど白須賀」は、東海道宿駅
開設400年を記念して開館した、宿場の資料館兼案内所兼休憩所(白須
賀宿歴史拠点施設)だ。



 内部では宿場の概要や、津波の被害、移転した経緯などがジオラマや
パネルで分かりやすく解説されている。
中でも津波の痕跡の残る地層は、災害は繰り返すことを警告していて、
興味深い資料である。

 お茶を飲める休憩スペースもあり、坂を登り切り、ほっと一息入れる
には丁度良いところで、何より無料で利用できるのがありがたい。



 館への入り際、建物の周りにピンクのかわいい花を付けた作物が植え
てあるのが目に付いた。
件の男性に問うと、「ジャガイモの花」だと教えてくれた。
浜松の三方原台地では、ジャガイモの生産が盛んで、粘土質の赤土が美
味しい芋を育てるらしい。

 今では三方原馬鈴薯(男爵いも)というブランドで人気だという。
この地も土質が同じで、美味しい芋が出来るので、同じ名前で出荷してい
るのだそうだ。
改めて周囲を眺め回してみると、赤土の台地が広がっている。



 「人家の壁の色赤く見ゆるは、手もて赤土を塗れるなり」
古のガイドブックでは、此の宿をこう紹介している。
昔はこの土を壁に練り込んでいたのである。(続)





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潮見坂 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-12-21 | Weblog


 旧白須賀の宿場を抜けると旧街道は、右手に蔵法寺を見てその先で右
に直角に曲がり潮見坂の上りに取りかかる。
登り口の辺りには、雰囲気の良い古民家風の建物も二三残されていて、
旧宿場町の面影を良く伝えている。



 この辺り一帯は高師山の急峻な海食崖 目の前に広がる大海原、遙か
に富士山をも見通す東海道でも屈指の景勝の地として有名であった。
その急崖を上り下りする坂が潮見坂で既に中世の頃より知られていた。
街道の登り口の標高は10m余で、ここから600m程の間に標高76mまで
上る坂は厳しい。
遠江路は比較的平坦地が多かっただけに、久々に味わう急坂である。



 「遠州七十五里の大灘」と言われた遠州灘を望み、西国から江戸へ向
かう旅人が、ここで初めて太平洋の大海原を眼にし、この壮大な眺めに
度肝を抜かれたと言う。
江戸(東京)に下る明治天皇もここでは休憩をされ、初めて太平洋を眺
めたのだそうだ。



 昔、オランダ商館付きの医師として江戸参府に同行したケンペルも、
「ここまで来て、世界中で非常に高く美しい山、富士山が初めて見えた」
と日記に残している。
富士の山を遠望でき、「浜辺の千鳥の声 微かに聞こえ来る」処として、
数々の紀行文などでも紹介される有名な景勝の地であった。



 喘ぎながら坂を上り、所々で歩を止めて振り返ると、遠州灘の絶景が
の筈であるが、道に覆い被さる木立は深くバイパス道路のコンクリート
壁等に隠された視界は悪く、残念ながら富士の姿どころか、白波押し寄
せる遠州灘などまるで見えない。(続)





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元白須賀 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-12-18 | Weblog


 浜名旧街道には、豊かな感性で当時のこの辺りの情景を詠んだ、歌が
幾つか残されている。

 藤原為家は、
「風渡る 浜名の橋の夕しほに さされてのぼる あまの釣船」
阿佛尼は、
「わがためや 浪もたかしの浜ならん 袖の湊の浪はやすまで」である。



 「立場立場と 水飲め水飲めと 鮒や金魚じゃあるまいに」

 その先の立場跡には殿様が、休憩する度に水を飲まされウンザリだと、
このように詠んだ戯れ歌が残されていると言う。
立場毎に休憩を取り、その都度水分補給を強いられる事に些か苛立ちを
覚えていたのであろうか。



 さらに「明治天皇御野立所址」などを見て進む。
江戸幕府が崩壊し、時は明治に移り、新政府の成立に向け、明治天皇は
岩倉具視らを従え、京を旅立ち、東海道を江戸(東京)に向かった。
旧東海道の街道筋には、至る所にこのような明治天皇が休憩された場所
も残されている。こちらも事情は同じようなものであったらしい。



 右手に「火鎮神社」を見る辺りが、白須賀の新町で、更に元町(本宿)
へと続く。嘗て「元白須賀」と呼ばれた200戸ほどの村で、「白須賀宿」
があった場所である。

 宿場は、宝永4(1707)年の地震による大津波で、「あらいの浜より
しらすがの宿おし流す」大被害に遭い壊滅してしまい、その後潮見坂の
上の高台に移された。



 嘗ての宿場は新居からは1里にも満たない距離に置かれていた。
街道筋には、一里塚跡や高札場跡なども残されている。
人も車も滅多に見ることの無い静かな通りの家並みは、落ち着いていて、
中には当時の面影らしき姿を残す住宅も幾らかあり、旧道の雰囲気を良
く伝えている。(続)





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浜名旧街道 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-12-16 | Weblog


 旧東海道が国道42号線に出る辺りの地名は浜名と言うが、昔は橋本と
呼ばれたところだ。
ここがかつての「津波で消えた幻の宿場・橋本」かと思ったが、格段の
説明も書かれてはいないので、真意のほどはわからない。



 当時、浜名湖から流れ出る浜名川には、浜名大橋が架かっていたが、
その位置も定かにはわかっていないようだ。
現在でもこの近くには浜名川も流れているし、流れそのものも変わり旧
浜名川と言われるものもあるらしく、そうした場所からは橋柱と思われ
る跡が何か所か発見されているらしいので、度々架け替えられたのでは、
とも言われている。



 旧東海道は、橋本西の教恩寺の前で国道42号線と別れ、浜名旧街道に
入り西に向かう。
国道から離れ500mほど行った途中には、室町時代に将軍・足利義教が
紅葉狩りをしたことから「紅葉寺」と呼ばれるようになった寺がある。



 寺も今は「苔むした石段の上のそれは跡形もなく廃寺になっていた」
(「東海道中膝栗毛を旅しょう」田辺聖子 2016年 KADOKAWA)の
有様で、街道からは山に向かってのぼる石段を見通すだけである。



 所々に松並木を残す、緩やかなアップダウンを繰り返す道で、通行す
る車も少なく、多くは歩道が整備されていて歩くには快適だ。
右手は急傾斜な山の斜面が迫り出し、その裾の窮屈そうな場所に民家が
建て込んでいる。



 左手には国道42号とその向こうに国道1号潮見バイパスが併走する。
その奥は砂丘が延びる遠州灘の筈だが、松の防風林であろうか、濃い緑
の帯が見えるだけで、残念ながら海は見えない。(続)




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棒鼻と加宿(東海道歩き旅・遠江の国)

2020-12-14 | Weblog


 新居の関所を出て、宿内を西に進むと疋田弥五郎本陣跡が有り、旅篭・
紀伊國屋がある。
紀伊國屋は、元禄年間創業の当地では最大級の旅籠である。
何年か前に訪れた時は内部が公開されていて、入館した記憶があったが、
この日は表戸が閉じられ、「休館中」の札が掛かりひっそりとしていた。



 旧街道はその先の交差点で直角に左に折れると、この辺りが宿場の中
心地らしく、落ち着いた町並が延びている。
その角に建つのが建坪百九十六坪を誇る「飯田武兵衛本陣跡」で、更に
「疋田八郎兵衛本陣跡」がある。
「馬寄跡」は、助郷制度で寄せ集められた人馬の溜り場だと言い、先に
秋葉の常夜灯、一里塚跡等の遺構が続く。



 その先で街道は宿内を、右に左に短く曲がりながら宿の西境「西棒鼻
跡」に至る。
「棒鼻」とは「棒端」とも言い、元々は駕籠かき棒の先端を意味する言
葉で、境界地には「傍示杭」などが立てられていたことからこう呼ばれ
るようになった。
傍示杭の多くは、「是より〇〇宿」などと書かれていた。



 広重の描く東海道五十三次では、「藤川 棒鼻ノ図」として描かれて
いるのが良く知られている。
新居の西の棒鼻は、一度に大勢の人が通行できないように、街道を曲尺
手に曲げ、更に両側から土塁を突き出し枡形にしていたと言う。



 旧街道は国道42号線に出て暫くそこを歩くが、この辺りは浜名と言い、
昔は橋本と呼ばれた地で加宿(かしゅく)とされたところだ。
加宿とは、伝馬制で定められた人馬などがその宿場で調達できない場合、
それを補う役割を担い、宿場に隣接した村が指定されていた。(続)





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新居宿 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-12-11 | Weblog


 今切りの渡しの舟を降り、関所の取り調べをどうにか切り抜けて大御
門を出れば枡形広場が有り、そこには高札が立っている。そこを抜けれ
ばようやく新居の宿である。

 今日なら舞阪宿を出て渡船場から北に向かい、弁天橋、中浜名橋、西
浜名橋を渡り、JRの新居町駅までは凡そ5㎞、そこからおよそ700m
で関所である。



 かつては「荒井」とも「荒堰」とも呼ばれていた。
広重の描く「東海道五十三次之の図」でも、当地を描いた渡舟ノ図には
「荒井」と書かれている。
本陣は3軒、旅籠の数26軒、戸数は797軒あり、人口3,474人と言うか
らさほど大きな宿場町ではない。



 関所近くには、髪結いの店も多く立地していたという。
関所の女改めは、殊の外厳しく、髪をほどいてその中まで調べていたよ
うで、改めを受けた女達の髪を結い直したとも言われている。



 あの弥次さん喜多さんは関所を抜けると「あらいの駅に支度ととのえ、
名物のかばやきに腹ふくらし休みゐたる」と、名物のウナギの蒲焼きを
食べている。
浜名湖では天然のウナギが、充分に水揚げされていたのであろう。
今も昔もウナギが当地の名物であることに変わりが無いようだ。



 一昔前頃はこの辺りでは、鉄道の車窓からもウナギを養殖する大小の
人工池を目にしたものだが、近頃ではめっきり減ってしまい、殆ど目に
することはない。

 とは言え多くの旅人も名物や酒などで、無事越えられたことを祝った
と言うからあやかりたいところだ。
しかし生憎名物のウナギ店や「新居名物あとひき煎餅」(あと引き製菓)、
「銘菓うず巻」(卯月園)等の店はどこも営業時間前である。(続)





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新居の関所 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-12-09 | Weblog
「サァサァお関所前でござる。傘を取ってひざをなおさつしゃりませ」
舟中で蛇使いの蛇が逃げ出し、おまけに腰に差した脇差しが海に落ち、
竹光と知れる大騒動を繰り広げた弥次さん喜多さんたちと乗客に、船頭
がたしなめる。



 舞阪の湊から渡舟で運ばれた旅人も、ようやく安堵の胸を撫で下ろす
のは、行く手に新居の湊の常夜灯が見えて来る頃で、今切の渡し舟は暫
くして関所の柵内に着岸する。旅人は笠を外し、居住いを正し、厳めし
いお役人さんの容赦の無いお調べを受ける事になる。
ここは厳しいお調べで知られる「新居の関所」である。



 新居の関所は慶長5(1600)年に創設されたと伝えられている。
それは箱根に関所が設けられる20年も前のことで、江戸に幕府を開いた
徳川家康が、東海道の中でもここを如何に重要視していたか窺い知れる。



 それだけに、代々この関所は権威を持ち、「入り鉄砲」は勿論のこと、
「出女」のみならず「入女」のお調べも殊の外厳しかったようだ。ここ
ではたとえ武士でも、いちいち輿から降り挨拶をして通らなければなら
なかったと伝えられている。



 海抜2m程の地にある関所は、度々地震による津波や高潮により被害
を受けたと言う。
その度に移転を繰り返し、その数は三度と言われ、現在のJR新居駅の
西側に落ち着いたのは、開所から100年ほども後の宝永5(1708)年に
なっての事だ。



 ここには安政年間に立てられた建物が残されていて、隣接地の新居関
所資料館と共に一般に公開されている。
関所の建物が現存するのは、全国でもここだけで、「特別史跡」の指定
を受けている。(続)





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