簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

トンネルの意匠(JR乗り潰しの旅・信越本線)

2019-10-30 | Weblog
 そこからしばらく下ると最初のトンネル、第10トンネル(102.7m)の入口が
見えてくる。建築学的には煉瓦造りパラペット、笠石、帯石有り構造と言うら
しいが、素人には何のことか解らない。トンネルの入口は、アーチ状に煉瓦で
坑門を構え、周りも煉瓦で固めた幾何学的な美しいフォルムを見せている。





 その先で第9トンネル(120.3m)を抜け、それに接した第6橋梁(51.8m)
を渡る。この辺りでもまだ標高が高いのか、周りは豊かな自然に恵まれている。
ようやく紅葉が始まった様子で、風が揺らす葉音と、時折行き違うハイカーの
足音だけの静謐な空間が続いている。





 更に道を下ってその先で第8(91.5m)、第7(75.4m)と短いトンネルを
抜け、第6トンネルに向かう。やがて見えてくるのは、煉瓦造りのアーチを切
石が支える、外国の城門のような姿をした切石造り坑門である。今まで見てき
た総煉瓦造りとは違って、どっしりとした重みと風格が感じられる。

 中に入ると坑道は今までと同じ煉瓦造りだが、全体が緩やかなS字型のカーブ
を描いていて、長さも同線では最長の550mも有り、出口の明かりは見ることが出
来ない。途中には横坑が設けられている。
今では明かり取りの役目を果たしているが、これは当時工期の短縮のため中央部か
らも掘り進めた名残だという。





 上から蔓草が垂れ下がり、時の流れが感じられるトンネルは重要文化財に
指定されている。中に入ると幾分気温が下がるのか、少しひんやりとした空
気を感じるのが解る。このようにトンネルと一口に言ってもその姿は様々で、
そんな意匠の違いを見るのもこの道を歩く楽しさの一つである。(続)



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殉難の歴史(JR乗り潰しの旅・信越本線)

2019-10-28 | Weblog
 熊ノ平停車場跡からは横川駅前の入口に向けて、標高差300mを下る約6キロ
の「アプトの道」は、10カ所のトンネルくぐり抜ける道である。

 構内に「碓日嶺(うすいみね)鉄道碑(アプト式開通の碑)」が建っている。
元々軽井沢駅前にあったものだが、関東大震災で倒壊し放置されていたものを
この地に移したものだとか。
幾つかに割れたものをつなぎ合わせたように見えるのはその性のようだ。
大きな石に開通に伴う経緯や関わった人々のことが書かれているようだが、漢
字ばかりで、素人には中々読み下せない。





 変電所を右に見て、旧線の踏切を渡るとその先には、「殉難の碑」が有る。
昭和25(1950)年6月8日の早朝に大規模な山崩れが起きた。
その復旧作業中に土砂崩れが発生し、この二次崩壊により職員とその官舎に住
む家族数十名が一瞬にして埋め去られた。





 これは死亡50名、重軽傷者23名にも上る大惨事となった。
押しつぶされた官舎からは、乳飲み子を抱き抱えた若い母親の遺体が発見され、
救助隊員の涙を誘ったと言う。それを悼んで建てられたのが霊堂と母子像である。





 厳しい峠の上り下りをする旧碓氷線には、僅かな区間ながら26カ所のトンネ
ルと18の橋梁が造られた。当時の蒸気機関車にとっては、このトンネルの連続
は常に煤煙との戦いを強いられていた。暖まった煤煙は、煙突効果となったト
ンネルを下から上へと流れ、その中を時速8キロで走る機関車の機関室には煤煙
と蒸気が充満し、機関士や乗務員の中には窒息や失神する者が続出したという。
機関士達は生死をかけて運転していたようだ。(続)




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熊ノ平停車場跡(JR乗り潰しの旅・信越本線)

2019-10-25 | Weblog

 横川駅前から旧国道18号線を行く一日一往復のJRバスに乗る。
「めがねバス」の愛称で知られるバスは、つづら折りの急坂を上る。
その車窓には、時折旧線のレンガ造の構造物を目にすることも出来る。
バスはおよそ20分ほどで熊ノ平駐車場に到着する。





 駐車場を抜け、国道を渡るとそこが「アプトの道」入口で、100段ほどの階段
が山の急な斜面に造られている。良く整備された道で、それを登り詰めると旧信
越本線の熊ノ平駅跡である。ここから「アプトの道」は横川駅まで下っていく。



 ここには当時のものと思われる2面のホームの跡や、赤茶けて錆びた上り下
り2本の線路、架線や、煤で黒く汚れた変電所の白い建物(昭和になって新設
されたものらしい)などが残されている。両線の間に有ったと思われる留置線
は撤去されていて、そこが整地され遊歩道になっている。



 駅の先では単線に絞られたレールが軽井沢方面に向かって残されているが、
その先のトンネルの入口は封鎖されていて、その先を見通すことは出来ない。
軽井沢側では、遊歩道の整備はされていないと言う。



 当時は旧碓氷線が単線であったため、上り下りの列車の行き違いと、蒸気
機関車への給水や石炭の積み込みが主の目的で造られた駅である。
駅とは言えアプト式鉄道の廃止後は信号所扱いとなっているので、乗客の扱
いはほぼなかったのであろう。この駅の前後は山肌と崖に挟まれた平地の乏
しい所で、周辺には民家らしい建物も、その跡地らしいものも見当たらない。



 碓氷峠のトンネルと言えば少し前、「第17隧道」の内壁2カ所に、塗料で
された落書きが見つかったとの新聞報道があった。本来は立ち入りが禁止さ
れた貴重な文化財に対する行為に、関係者からは憤りの声が上がったと言う。
また過去には、レールが切断され盗まれるという被害もあったらしい。
折角の文化財である。大切に守り続けたいもので有る。(続)



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アプトの道(JR乗り潰しの旅・信越本線)

2019-10-23 | Weblog

 日本の近代化に向けて、大きな貢献をした信越本線碓氷峠のアプト式鉄道
(旧碓氷線)は、昭和38(1963)年9月碓氷新線の開通により、その70年余
の歴史に幕を閉じた。更に平成9(1997)年には、北陸新幹線の開業により、
横川と軽井沢間の鉄道そのものも廃止されてしまった。





 数々の難工事の末に生まれたその鉄道施設・線路跡は、上信国境に近い標高
400~950mの間に位置している。周囲は自然が豊かな地であることから、当時
の建設省の「ウォーキング・トレイル事業」(平成8年から始めた事業)により
旧上り線は「アプトの道」として生まれ変わった。
そのルートはほぼ旧道(国道18号)に沿っている。





 「碓氷峠鉄道文化むら」のすぐ右側にある入口を起点として、途中変電所跡、
峠の湯、碓氷湖、めがね橋などを経て熊ノ平停車場跡に至る約6キロが遊歩道
として整備されている。途中には少しコースを外れるが、旧中山道・坂本宿や
碓氷関所跡なども有る。





 多くのハイカーは、JR横川駅で電車を降りると、そのままコースに向かう
ようだ。これは鉄道が苦しんだ66.7パーミルの上り勾配を体験しながらのハイ
キングとなる。終点の熊ノ平停車場跡で折り返せば、上り2時間、下り1.5時間
と言ったところが標準的なコースタイムらしい。

 コースを峠から下る場合は、駅前から出る軽井沢行きのJRバスで熊ノ平駐車
場バス停まで行き、そこから歩く事になる。
上りを歩き、下りはバスでと言う場合、熊ノ平駐車場からバスとなるが、何れも
旧道を通るバス便は一日一往復しかないので事前の調査は欠かせない。
又食事や自動販売機やトイレなどは、殆ど無い状態なので注意が必要だ。(続)




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大井川鐵道井川線(JR乗り潰しの旅・信越本線)

2019-10-21 | Weblog

 因みに現在では、このアプト式鉄道は静岡県の大井川鐵道井川線(千頭駅~
井川駅)のアプトいちしろ駅から長島ダム駅間で実際に営業運転が行われている。
「南アルプスあぷとライン」と呼ばれるこの路線は、昭和29年に中部電力がダム
建設のために開通させた専用軌道がその前身である。







 赤色に塗られ白いラインの入った可愛らしいミニ列車(トロッコ列車)は、
ここから南アルプスの懐深く入り込むが、出発点の千頭駅の標高は300mで、
終点の井川駅が700mだから、25㎞余りの間に400mほど登ることになる。

 沿線途中の長島ダムの建設で、井川線の線路の一部が水没するため、その
内の4.8㎞が付け替えられた。
その折アプトいちしろ駅から、次の長島ダム駅の間1.5㎞が1000mにつき90
mも上がる日本一の急勾配区間と成った。この勾配を上り下りするために、
レールの間にラックレールを敷き、機関車の車輪の間にあるピニオンと呼ば
れる歯車をかみ合わせて進む「アプト式鉄道」が採用された。





 この駅では、そんな特殊な機構を持つED90形機関車が最後尾に連結される。
列車は歯車の噛み合わせを確かめるように、ゆっくりと、ゆっくりと車輪を軋ま
せながら急坂を上る。その勾配は、車窓から見ても十分に認識出来る程の傾きだ。
やがて右手に高さ109m幅308mの巨大なダムが見えてくるとアプト区間は終わる。
ここで最後尾の機関車を切り離しこの路線のハイライト、奥大井湖上駅に向かう。



 数々の難工事の末に生まれた貴重な存在であった信越本線碓氷峠のアプト式
鉄道(旧碓氷線)は、昭和38(1963)年9月碓氷新線の開通により日本の近代
化に向けた大きな貢献の足跡を残し、その70年余の歴史に幕を閉じている。
(続)(写真:大井川鐵道・南アルプスあぷとライン)



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碓氷新線(JR乗り潰しの旅・信越本線)

2019-10-18 | Weblog



 1万数千人の人力と最新の技術を駆使した碓氷新線の工事で使用された資材は、
れんが1800万個、セメント1万7500タル、松丸太や杉丸太等が六万本、他にも切石
や砂などが東京や群馬、長野、新潟など広い範囲からから運ばれたと言い、こんな
難工事ながら1年6ヶ月で完成させている。



 こうして運用の始まった碓氷峠のアプト式鉄道ではあったが、昭和も半ばに
なると時代の趨勢には合わず、このボトルネック的な特殊区間の改善策の検討
は急務であった。様々な案が検討された結果、補助機関車を使用した通常の運
転方式で複線化と決められ、昭和36(1961)年に工事に着工し、その2年後に
アプト式線路の北側に新線が開通した。これにより信越本線のアプト式鉄道は
完全に撤退となり、70年余の歴史は幕を閉じることになった。



 これに合わせ機関車も新たに開発され、EF62形機関車を本務運転に、EF63形
機関車を補助運転とした牽引で、その牽引量は飛躍的に増え、列車の運行回数も
倍増させている。
何よりも特筆すべきはその所要時間を、なんと17分まで短縮していることだ。



 「碓氷峠鉄道文化むら」には、嘗て峠を上り下りしたその、EF63形機関車が
動態保存されていて指導員の添乗の元、運転の体験が出来るメニューが用意さ
れていて、それは国内ではここでしか体験できないコースだという。



 学科講習を受け、その翌日に片道400mの線路を往復する30分の体験乗車が
出来る。運転実技はその走行回数により、見習いから始まり補助機関士、本務
機関士の資格認定があり、各ステップの腕章が与えられるという。
(勿論有料で予約が必要)(続)






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アプト式鉄道(JR乗り潰しの旅・信越本線)

2019-10-16 | Weblog

 「碓氷峠鉄道文化むら」の主なテーマは、碓氷峠を越える鉄道の建設と運行
時間短縮との戦いの歴史である。昔から碓氷峠は交通の要衝であると同時に、
鉄道の敷設にとっては、66.7パーミルもある急勾配が最大の難関で、それをど
う克服するのかが命題となっていた。普通の機関車ではとても上れない峠とさ
れていて、様々な検討がされた結果、当時ドイツで採用されていた急傾斜でも
運行が可能なアプト式鉄道が採用される事になった。







 アプト式鉄道とは、線路の間に一本歯のレール(ラックレール)を取り付け、
機関車の下に付けた歯車(ピニオン)の動輪とかみ合わせて走る方式の鉄道のこ
とで、「むら」を入るとすぐの右側にはそのラックレールが敷設展示されていて
その横には勾配を示す鉄道標識もあり、実感することが出来る。

  明治25(1892)年にドイツからC型アプト式機関車3900型が輸入された。
僅か11.2㎞の間に26カ所のトンネル、18の橋梁が作られた横川と軽井沢間がその
翌年に開業し、いよいよデビューとなった機関車ではあるが、当初の峠越えはの
ろのろ運転で75分を要したと言われている。







 その後明治40年代には電化され、ドイツから電気機関車が輸入され、それに
より所要時間は50分を切るようになる。更に昭和に入り国産の電気機関車が開
発されると牽引量は倍増するものの、所要時間は短縮されたとは言え、それで
も47分を要していた。

 昭和に入るとこの特殊区間では、輸送量不足が懸念され、車両や施設の老朽
化が顕在化しアプト式を廃止した新たな方式、勾配の緩和、複線化新線などの
計画や様々な案が検討されることになる。(続)




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碓氷峠鉄道文化むら(JR乗り潰しの旅・信越本線)

2019-10-14 | Weblog
 
 横川の駅を出て、軽井沢行きのJRバスの停留所を通り、先に進むと
「碓氷鉄道文化むら」の煉瓦造りのゲートが見えてくる。
そこに至る道路には、嘗て使われた線路がそのまま埋め込まれていて、
ここが広大な鉄道の施設であったことが解る。



 ここは平成11(1999)年にオープンした施設で、元々は横川駅横川
運転区があった地に、その施設を生かしながら建てられたものだ。
鉄道の歴史や、仕組みを伝える博物館と言う要素を含み、どちらかと
言えば見て、触れて、体験できる、子供向けの学習・遊戯施設のよう
だが、勿論大人も楽しめる。





 券売所を抜けると目の前には煉瓦造りのアーチ橋を模したゲートが
見える。その上には園内を一周(800m)する子供向けの蒸気機関車
「あぷとくん」のレールが敷設されている。
広い園内の少し高くなった奥にはミニSLが走るコースも有り、途中
の駅では乗り換えすることも出来る。





 園の右側には、トロッコ列車の「ぶんか村駅」があり、旧信越本線の
下り線を利用して「とうげの湯駅」までの間2.1㎞でトロッコ列車シェル
パ君が運行されている。本格的なトロッコ列車であるが、文化むらに入
村しないと乗れない園内の遊具施設である。



 園の中央にある大きな建物が鉄道展示館である。
ここは車両の検査や修理をする場所を公開した施設で、当時の状況の
まま残されている。屋外には、旧国鉄時代に活躍したSLや電気機関車
など、数々の車両が屋外展示されていて、中には実際に運転席や車内
に乗り込めるものもある。
又、隣接して鉄道資料館も有り、中には碓氷峠のジオラマ模型等や、
碓氷峠の鉄道の歴史をパネルなどで紹介している。(続)



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峠を控えた駅(JR乗り潰しの旅・信越本線)

2019-10-11 | Weblog
 信越本線の最大の難所は66.7パーミルの峠越で、ここではアプト式と
言う方式が採用されていた。
横川駅のホームには使われたレールや、アプト式の模型も飾られている。

 碓氷峠を控えた横川駅の名物は、「峠の釜めし」が知られている。
改札脇のホームの片隅には、その看板を掲げた立ち食いのそば屋が今も
営業を続けている。その「おぎのや」は駅開業と時を同じくして創業し、
おにぎり弁当の販売を始めたのが始まりだ。





 「峠の釜めし」が発売されるのは昭和33(1958)年のことで、益子焼
の一人用釜に入れられた斬新なアイディアが受け、人気を得たという。
駅では碓氷峠越えのため補機の連結や切り離しが行われ、長時間停車す
ることも有り、そんな時間を利用した乗客の多くが購入していたという。






 峠越の鉄道が廃止された今日では、その代役はバスが務めていて鉄道
の客一旦改札を抜け駅前の乗り場から出るジェイアールバス関東のバス
に乗り継ぐことになる。
軽井沢行きは一日八往復程度運行されていて、その所要時間は30分余だ。
殆どが新道の碓氷バイパスを経由し直行するが訪れるハイカーに対応す
る為らしく、旧道を行く便が一便だけ有る。





 横川の駅を出て左に少し歩き、軽井沢行きのバス乗り場を横切り、
その先の道路を越える。その正門前の道路には、そのまま埋め込まれ
た何本もの廃線レールが見られ、ここがかつての鉄道施設であったこ
とを窺わせている。そんな線路跡を踏みながら少し行くと、煉瓦造り
の券売所を構えた「碓氷峠鉄道文化むら」が有る。(続)




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終着駅・横川(JR乗り潰しの旅・信越本線)

2019-10-09 | Weblog

 高崎を出た信越本線は大きくカーブして上越線や新幹線と分かれ、
北高崎に停車後市街地を抜け、少しずつ高度を稼ぎながら次第に山
岳地帯に向かう。右手にはいつの間にか碓氷川が寄り添い、その向
こうには旧国道18号線も流れている筈だが、車窓からは余り見通す
ことは出来ない。



 安中や磯部などは、駅周辺に比較的多くの住宅や大きな工場も見ら
れるが、ここを過ぎる辺りから、人家は少なくなり車窓は緑の雑木林
や田畑に変わる。すると尖った岩峰の、荒々しい山塊が車窓に付き纏
い目を楽しませてくれる。
地図で確かめると祟台山や金鶏山・相馬岳のように思えるが、これら
が上毛三山の一つ、妙義山を構成する山々であろうか。





 高崎からは30分ほど、それらが次第に左間近に迫ってくると終点の
横川に到着である。
官設鉄道が、高崎からこの駅の間に開設された明治18(1885)年開業
した歴史が有る。碓氷峠越を控えた駅として、広大なヤードを構えて
いたらしいが、今その面影をどこにも見ることが出来ない。
平成9(1997)年、北陸新幹線の先行開業に伴い当駅から軽井沢間の
鉄道が廃止され、信越本線の終着駅となった。





 相対した2面のホームに、各1線を有する有人駅で有る。
当時の貨物線か留置線の名残であろうか錆びた線路がその間に残されて
いるが、何れもその先の、コンクリートブロック製の車止めで封鎖され、
鉄路は延びてはいない。



 嘗ては島式ホームで4番線が設けられていたのであろうが、今は線路
も無くフェンスで仕切られた向こうは駐車場になっている。
その3番線に向かう渡り通路が、車止めの向こう側には設けられていて、
ここは紛れもない信越本線の終着駅である。(続)




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