簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

花の風あいさつロード (下津井電鉄廃線跡を歩く)

2018-11-30 | Weblog



 昼食を済ませしばらく県道を歩き、その先の稗田南の交差点手前を右に入る。
その角に「花の風 あいさつロード」と書かれた看板が立っていて、ここら辺り
から先は、再び自転車・歩行者専用道路となっていた。



 ここから児島の大正橋までの4Kmほどの間は児島小学校の通学路になっていて、
子供たちを中心に挨拶運動が行われ、合わせて沿線の整備にも力を入れているら
しい。

 

 しばらく行くと「稗田駅跡」が見えてきた。
一段と高いホームの上はきれいに舗装され、背後の安全柵も、中央付近に建つ駅名
標も近年新しく整備されたものらしく、下津井電鉄の由来書きも掲示されている。
つい先ほど見てきた「旧藤戸駅」の廃れようとは比べようもない。



 駅舎の有った辺りは「稗田さくら公園」として整備されていて、トイレも併
設されている。
ここから先の道の両側は桜並木になっていて、咲けばさぞかし美しい桜のトン
ネルになるだろうと思わす道が続いている。
沿道の脇に植えられた樹木には、それぞれユニークなネーミングがされていて、
それに似せて刈り込まれた姿が道行く人々を和ませている。



 周辺も住宅地になってきたせいか、自転車や歩いて行きかう人も結構多い。
そんな道中の草むらの中に、ポッント一つ鉄塔を支えた基礎が残されていた。
茶屋町からここまで10キロ程を歩き、その間沿線を注意深く見てきたが、これ
までにそれらしい遺構は殆ど見つけられなかっただけに、これは残されたと言
うよりは、撤去時に一つだけ忘れてしまった・・・忘れ物のような気がしてな
らない。(続)



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福林湖越え(下津井電鉄廃線跡を歩く)

2018-11-28 | Weblog

 松楠山(235m)とそれに連なる正面山(236m)の山裾を巻くように上り、
福林湖あたりでサミットを迎える線路跡の道は途中殆ど人と行き会うことがない。
茶屋児島自転車道1号線もこの辺りは自転車・歩行者の専用道と言うわけでもなく、
地元の生活道路の一部となっているが、まれに車が通るだけの寂しい道である。
そんななか、自転車に乗った男女二人連れとすれ違い、あいさつを交わしたのが、
なぜか懐かしく、ほっとした出来事である。





 「前山遺跡」「瓶焼谷窯跡群」と書かれた白い案内柱を見ながら進み、高速
道路を潜り少し下った先に「福林湖」が見えてきた。
左手は白いガードレールで隔てられている県道21号で、周辺は信号機や民家も
少ないせいかどの車も制限速度以上の速さで、ビュンビュンと駆け抜けている。





 ここには県道を行くドライバー用の休憩所が道路脇に設けられている。
この廃線道の児島までのルートなら、五分の三程が過ぎたと言った辺りである。
ここまで左程厳しい上りもなく疲れを感じていると言うわけでもないが、ここ
まで休めるような場所も無かっただけに休憩には丁度良い。





 稗田駅跡を過ぎた辺りから先は人家や行きかう人もなく、不安になるような
寂しいばかりの「福林湖」越えを終える。
ここから下り始めると沿道にも人家が戻り、左手に大池を見ながらさらに下る
と稗田の集落である。
ここまで食事処やコンビニ、自動販売機からも見放されていたが、県道276号
を越えた辺りでようやく営業中の喫茶店を見つけ、遅い昼食にありつくことが
出来た。(続)


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沿線の最高所 (下津井電鉄廃線跡を歩く)

2018-11-26 | Weblog

 下津井電鉄の廃線跡であるサイクリング・ウオーキング専用道路は、県道21
号に合流するとしばらくはそれと並走し、瀬戸中央自動車道の水島ICを巻くよ
うに左に曲がり、ここからは高速道路に沿って南下する。



 相引池南の交差点辺りが「福田駅跡」とされているが、それを示す痕跡はど
こにもない。僅かに道路が左側に広がり少し高くなっているので、それがホー
ムの跡かと推察する程度である。



 この辺りの標高は30mほどで、道は県道に合流したころから少しずつ高度を
上げている。この先の福林湖辺りで標高60mのサミットを迎えるが、これは沿
線では終着駅間近かの鷲羽山よりも高く最高所である。



 当時の鉄道にとっては厳しい上りのようで、それが証拠に線路は今まで左程
大きなカーブは見られなかったのにここでは、山を避けるように大きくS字カー
ブを描きながら上っている。



 実はここら辺りは、サイクリングやウオーキングする人々にとっても注意が
必要だ。元々この沿線にトイレは少なく、旧天城駅手前の公園のそれを逃せば
10キロ程の間トイレは無い。
また途中に食事のできるところやコンビニは殆ど無い。



 県道21号線には幹線道路だけに所々で飲食店は見られるが、それを逃せば稗
田西の交差点辺りの喫茶店か、その先の県道21号を渡る歩道橋下のコンビニぐ
らいで、その間に自動販売機を見ることも少ない。



 最も道は倉敷市内を抜けているので、ルートを離れて探せばいくらか見当て
ることも出来るであろうが、水島ICを過ぎた辺りから「柳田駅跡」あたりまで
の間は並走する県道21号にもコンビニや飲食店は無いので注意が必要だ。(続)


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五流尊龍院 (下津井電鉄廃線跡を歩く)

2018-11-23 | Weblog


 奈良時代(8世紀ころ)この地は「熊野神社」と修験道の寺院が一体となった
神仏習合の形態をとる新熊野権現と言う宗教施設で広く信仰されていたが、それ
も平安時代以降は衰退したと言う。
そして、明治の神仏分離令で十二社権現は「熊野神社」となり、修験道が禁止さ
れ分離された「五流尊龍院」は天台宗の寺院となったが、第二次大戦後に天台宗
から独立し、再興されて日本修験道の本庁となった。



 そんな歴史を物語るのが境内の東にひっそりと建つ「五流尊龍院の塔」と
呼ばれる風格のある三重塔(県指定重要文化財)で、その「五流尊龍院」は、
そこから300メートルほど東に行ったところに在る。



 修験道の総本山とは言え「五流尊龍院」は、こじんまりとした庵のような風
情を持つ、そんな感じの寺院である。
周辺は樹木が鬱蒼と茂った森で、白壁の参道に沿って入り口を入ると、左が茅
葺屋根の御庵室(庫裏)で、その前には良く手入れされた庭園が広がっている。
丁度今頃は境内の紅葉も見頃を迎えているはずだ。



 石段を上るとそこは護摩壇で、正面には不動明王が、左手に護摩堂があり、
その横に「役行者尊像」が建っている。更に進むとその奥には本堂を構えて
いて、修験道の総本山らしくここには信徒の宿泊所などもある。
またこの地には、明治の元勲・大久保利通が暗殺された折使っていた馬車が
供養のため奉納されている。遺族から託されたものらしい。



 そこから更に進むと「五流稲荷大明神」や「庚申さま」などがあり裏門に至り、
「熊野神社」に通じているが、この道は古い昔にタイムスリップしたような風景
が出迎えてくれる。
参拝者も余り多くはないので、境内と合わせ散策の雰囲気は悪くない。(続)



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熊野神社 (下津井電鉄廃線跡を歩く)

2018-11-21 | Weblog



 その先に「中国自然歩道 熊野神社 0.5Km」と書かれた道標が立っていた。
下津井電鉄の廃線跡であるサイクリング・ウオーキング専用道路から離れ、車
の激しく行きかう県道を横切り、住宅地の旧道らしい小路を暫く進むと立派な
石の鳥居が見えてくる。
石柱には、「日本第一 熊野神社 十二社権現」と書かれている。



 鳥居をくぐり、数段の石段を上り真っ直ぐ伸びる参道を百メートルほど進む
と、正面に市街地には珍しいほどの俗化を免れた自然林が現れ、その左手の緑
の静寂の中に「熊野神社」の社殿などが見えてくる。



 「熊野神社」と言うのは修験道の始祖・役小角とその弟子達がこの地(倉敷
市林)に開いた神社である。
紀州熊野の十二社権現のご祭神の勧請を受けた神社で、熊野三山の熊野本宮大
社から日本一の認証を受けている。



 巨大な備前焼の狛犬を見て玉垣の中に入ると、その正面に檜皮葺の屋根を横
一列に並べて建つ社殿が現れる。濃緑の山を背に、古色の社殿が建ち、屋根に
乗る青銅色の千木が映える様は何とも言われぬ厳かな気がして不思議な空間だ。
近頃では、隠れたパーワースポットと言われているらしいが、何となくわかる
ような気がする。



 説明書きによると、左から第三殿・第一殿・第二殿・第四殿・第五殿・第六殿
と並び、そのうちの第二殿は、最も古く明応元(1492)年の造営で国の重要文化
財に指定されている。
また他の五殿は、正保4(1647)年、岡山池田藩により再建されたもので、県指定
の重要文化財だ。その脇に建つ小社・神八尾羅宮は、日本で唯一の「いじめ除け」
の神様だそうだ。(続)



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旧藤戸駅 (下津井電鉄廃線跡を歩く)

2018-11-19 | Weblog

 ここまでゆっくり歩いて凡そ40分、距離にする2.4Kmほどである。
注意深くここまで来たが、廃線跡を彷彿させる遺構は何も目にすることが無
かったが、ようやくそれらしいものが目に入ってきた。
道路の左側隅が一段と高く舗装されている。
石積で嵩上げされ、長さは結構あるが、幅は1.5mほどの高台はどうやらホー
ムの跡の様だ。



 ホームは当時のままらしい。後ろに立つ枕木製の安全策も当時のものであろ
うか、残されてはいるが無残な姿をさらしている。
木は半ば朽ちかけて所々で歯抜け状態になり、倒れかかった柵は辛うじてお互
いが持たれあっているようでなんとも痛々しい。



 中央辺りに残された駅名標も同様で、駅名である文字は読むことすら出来な
い有様だ。茶屋町から二つ目の「旧藤戸駅跡」の状況である。





 その先の切通のような場所で、道路脇にコンクリート製の橋脚のような円柱
形の建造物が有ったが、おそらく跨線橋の橋脚遺構だと思うが、定かではない。
更に進み県道165号を横切るとその先に、ロードマップで「趣のある家」として
写真で紹介されている民家が道路わきに建っていた。
家の敷地内の錆びて朽ちかけたバスがそのまま組み込まれている。



 郷内川にかかる串田西橋を渡ると、ここまで凡そ4Kmほどだ。
その先右側に小さな犬淵公園があり、そのあたりがどうやら三つ目の駅「旧林
駅跡」らしいが、その面影は何も残されてはいない。



 折角の遺産だけに出来る限り、残して欲しいとは思うが、「旧藤戸駅」の無
残な姿を目にした後だけに、いっそこの方がいいのかもと考えてみたりもする。(続)

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備前・備中の国境 (下津井電鉄廃線跡を歩く)

2018-11-16 | Weblog

 歩き始めて10分ほど、用水路を越える小さな橋の手前に「備前・備中 国境
の境界石」と書かれた白い木柱が建てられている。
しかし付近を見てもそれらしい石標は見当たらず、回りを探すと二三メートル
ほど先の田の畦道に、30Cmほどの三角形をした切り石がその表面だけを僅かに
出して埋められていた。
説明書きによれば国境を示す標石を補うために置かれたものらしい。





 その先右手に鶴崎公園の緑地が見えてくると、桜並木も途切れて来る。
丁度この辺りまでが標高で言えば1m余りしかない土地柄で、その先で六間川に
架かる橋を渡ると標高が少しずつ高くなる。
とは言え大した坂でもなく、そのサミット付近右手に廣田神社の赤い幟旗が見え
てきて、天城の集落に入り込む。





 マップによればその先辺りに「旧天城駅」が有ったように書かれているが、
それを示す痕跡はどこにもなく、僅かに道幅が大きく膨らんで広がっている辺
りではないかと推測する。
お店屋さんらしい赤いテントの民家が、かつての駅前ではないかと想像できる。



 大きく左にカーブしながら坂を下り、その先で倉敷川に架かる塩干橋を渡ると
標高も1m程度になるので、これも立派な「天城越え」であるなどと洒落てみた
りする。



 この川を上流方向に遡ると、白壁土蔵と柳並木の美しい倉敷の美観地区である。
この倉敷川は源流のない川で、その源が有るのがこの地である。
元々瀬戸内海に面した児島湾から、紡績の物資を運ぶなどの目的を持った運河の
ような川で有ったが、児島湾に締め切り堤防が築かれた今日では海に繋がらない
川となっている。(続)


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下電メルヘン街道 (下津井電鉄廃線跡を歩く)

2018-11-14 | Weblog

 「下津井軽便鉄道」の会社はその後「下津井電鉄」と名称を変えるが、茶屋
町と下津井間の鉄道の廃止後は電鉄事業がなくなりバス会社となった。
がその名称はそのまま社名に残されてきたこともあり、地元では「シモデン」と
の愛称で呼び親しまれている。



 そんなこともあって下津井電鉄廃線跡に整備されたサイクリング・ウォーキン
グロードも、正式名称は「茶屋児島自転車道1号線」であるが、通称「下電メルヘ
ン街道」と呼ばれている。



 JR宇野線の茶屋町駅西口を出て、「茶屋町の鬼」の像の建つ広場を通り抜け、
左手に進むと蒲鉾屋根をした縦長の建物、駅に併設された駐輪場が見えてくる。
丁度この前あたりから南に延びる細い道が廃線跡である。



 しかしこの辺りには鉄道の遺構を示す痕跡はどこにも残されてはいなくて、
それと説明するサインの類も何も無いので一見すればただの自転車・歩行者専
用道路にしか見えない。
しかしよくよく見れば、僅かにその道幅と、その直線区間と、そのゆったりとし
た曲り具合に、鉄道線らしい往時を偲ぶことは出来そうだ。



 沿線はここから先が1キロに余る桜並木になっている。
45年ほど前の廃線後、専用道の整備と共に植えられたものと推察するが、所々
で古木となった桜が見事なトンネルを作っている場所もあり、花見時の美しさ
が目に浮かぶ。



 周辺は干拓された田畑の中に用水路が幾本も走り、そんな中に所々住宅地が
密集している土地だけに、近隣住民の自転車路として、散歩道としての利用も
多いようである。(続)



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茶屋町駅 (下津井電鉄廃線跡を歩く)

2018-11-12 | Weblog



 国鉄宇野線の茶屋町駅は、宇野線が岡山~宇野~高松の間で全線開通した
明治43(1910)年に、時を同じくして開業した。
それから遅れる事3年と数か月後に営業を始めたのがこの下津井軽便鉄道の
茶屋町駅である。
当時茶屋町駅は地上駅で有ったので、その西側に隣接するように建っていた
らしい。



 茶屋町駅は瀬戸大橋線(宇野線)の高架に伴い駅舎が新しくなりその駅前
広場も整備された今では駅の存在を示すものは何も残されてはいないようだ。
駅を出てすぐ左手の「茶屋町の鬼」と書かれた親子鬼の像が建つあたりでは、
と想像を膨らませてみる。



 下津井軽便鉄道は、ここ茶屋町から児島を経て、四国への玄関口で有った下
津井と結ぶナロゲージと言われる軌間762mmの単線ローカル私鉄路線であった。
児島の繊維産業や、下津井の漁業の振興の一翼を担った時期もあったようだが、
モータリゼーションや瀬戸大橋開業などの影響で、鉄道の赤字が嵩み、1990年
の12月末日に77年の歴史を閉じている。



 その全長21Kmに及ぶ廃線跡は、「花の風」「緑の風」「潮の風」をテーマ
にした下電メルヘン街道(茶屋児島自転車道)と言うサイクリング・ウォーキ
ングロードとして整備、残されている。



 茶屋町駅の改札前の売店には、駅周辺の見どころ案内とレンタサイクルの
取り扱いが有る旨の掲示がされ、ロードマップも用意されている。
ここで自転車を借りサイクリングや気軽にウオーキングを楽しむのもいいだろう。
ただ、沿線には何カ所かのトイレはあるものの、自動販売機や食事処は極めて
少ないので、事前の準備が無難である。(続)



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下津井電鉄 (下津井電鉄廃線跡を歩く)

2018-11-09 | Weblog

 下津井の地に鉄道が開通したのは大正3(1914)年3月のことだ。
その前年、味野町(現在の児島)と茶屋町(現在の倉敷)の間14.5Kmで開通
した「下津井軽便鉄道」が、6.5Km延伸されてのことで、これにより後に「下
津井鉄道」と名乗る全国的にも珍しいナロゲージ(軌間762㎜)単線の鉄道が
全線開業した。





 昔から本土と四国を結ぶ連絡は、下津井と丸亀、田ノ口と坂出が主要なルー
トであり、備前・備中地域からこれらの港を経て西讃地方へと四国連絡を担う
ものであった。
大正末期には沿線の児島周辺で発達した繊維産業の物資の輸送や、下津井港に
水揚げされる鮮魚の輸送で一時は繁昌する時期もあったようだ。





 しかし経営を支えるはずであった四国連絡の思惑は、国鉄の宇野線が明治43
(1910)年に岡山と宇野の間で開通していたこともあり思うほどの効果が上が
らなかったようだ。
その最大の理由は国鉄の宇野線が開通と同時に宇高連絡線により高松まで連絡
していたのに対し、このルートでは宇野線からの乗り換える手間がいった。



 この事から一時は山陽本線の倉敷駅に乗り入れる路線の延長や、国鉄線との
相互乗り入れを可能にする軌道敷の改変も計画されたようだが、資金難と沿線
の地勢の厳しさなどで断念した。
結果モータリゼーションなどの影響を受け、昭和47(1972)年に茶屋町と児島
間が、平成2(1990)年には残っていた児島と下津井間も廃線となり鉄道全線の
営業を廃止した。



 そんな鉄道の凡そ21Kmに及ぶ廃線跡は、今では自転車歩行者遊歩道として、
多くの沿線の人々に利用されている。(続)


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