簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

なごやの味噌文化 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-11-30 | Weblog
 名古屋と言えば味噌文化が知られている。
先の総選挙でも、幾つかが上位にランクインした。
「味噌」抜きで名古屋の食は語れない、と言われる程、名古屋と「味噌」
は切っても切れないものだ。





 ぐつぐつと煮立った土鍋で食べる「味噌煮込みうどん」は、多くは八
丁味噌をベースとしたつゆで、少しかみ応えのある固麺を煮込んだ鍋焼
きうどんである。

 熱々を土鍋の蓋で冷ましながら食べるうどんは、つゆが良く絡み濃厚
なコクのある味わいだ。かしわやネギ、シイタケ、餅などのトッピング
とも相性が良く、後味もさっぱりとしている。
冬に限らず夏場でも冷房の効いた店で、汗をかきながら啜るのが通と言う。



 とんかつに赤味噌仕立ての独特の「味噌だれ」を合せた「味噌カツ」
も「なごやめし」の代表格の一つである。
元々は「どて煮」のつゆに、串カツを付けて食べた屋台料理が始まりだ。

 「味噌煮込みうどん」以上に、「味噌だれのとんかつ」はバリエーシ
ョンが豊富である。味醂や胡麻など色々な調味料と調合して作り、今で
は洋食風にマヨネーズや辛子と合わせたものもあるらしい。
それをかつの上にかけるが、タレに浸すのもあるしタレを別皿で提供し、
或は丼で食べるなど、各店舗が独自の味付やスタイルを競っている。





 名古屋の味噌文化で絶対に外せないのが「どて煮」である。
大きな鉄鍋の内周りに、八帖味噌を盛り、その溶け出したタレの中で、
とろとろになるまで、豚や牛の内臓を長時間煮込んだもつ煮のことで、
「どて焼」とも「どて」とも言った。
味噌おでんの一種と言われ、串刺しにしたり、そのまま器に盛って提供
される。(続)





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なごやめし総選挙 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-11-28 | Weblog


 名古屋には「なごやめし」と言われる食文化が、脈々と息づいている。
今年の1月~3月、「一億人のなごやめし総選挙2022」が行われた。
今回は28種類がエントリーされ、一人一回八品まで、これぞ「なごやめ
し」を選んで投票し、15.5万人程が、総数62.9万票を投じた。
結果見事1位に輝いたのが、「ひつまぶし」である。



 鰻の蒲焼きを短冊状に細く切り、おひつに入れた熱々のご飯にもった
「ひつまぶし」は、贅沢なごやめしの王道と言われている。
 最初はそのまま茶碗によそって、二杯目はネギや刻み海苔わさび等の
薬味を添えて、最後はそれに出汁かお茶をかけて頂く。
一杯で三度の異なった味が楽しめるのがウリだ。



 昔からの定番「きしめんは」9位、「えびフライ」が10位と健闘した。
「きしめん」のルーツはキジ肉入の麺で、尾張藩祖以来の伝統料理だ。
時代と共に庶民の間に広まったが、流石にキジ肉は贅沢で、当初は代わり
に油揚げが使われた。

 たまり醤油をベースに魚介で出汁を取り、独特の平たい麺に油揚げや花
鰹、ネギ、かまぼこ等が乗る。
今では名古屋駅のホームでも手軽に頂く事が出来る。



 近頃人気の「手羽先」が3位、「天むす」が5位、「小倉トースト」が
6位、「名古屋コーチン」は8位だ。
 面白いのは「モーニング」の7位で、これは料理の種類では無く、主に
喫茶店に於ける食事の提供形態である。
多くの食に混じり上位に入るのは、喫茶店文化が根付いた名古屋らしい。



 「味噌カツ」が2位「味噌煮込みうどん」は4位、「どて煮」は13位
と、味噌文化を代表する味が根強い支持を得ている。
お土産では「ういろう」が15位、「えびせんべい」が22位、「守口漬」
は28位である。

 個人的には尾張・三河地方全般に昔から伝わる「菜飯田楽」推しだ。
菜飯は細かく刻んだ大根葉を混ぜて炊いたご飯、田楽は豆腐などを串に
刺し独特のタレを付けて焼いた物だ。
今回は、ノミネートさえされなかったのが残念だ。(続)





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三英傑 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-11-25 | Weblog
 堀川に架かる五條橋の西詰から始まる「円頓寺商店街」は、300m程
続き市道63号線(江川線)と交差する。
ここで名古屋高速の高架を潜るとその先には「円頓寺本町」「西円頓寺」
へと凡そ700m程の商店街が続いている。
抜ければ名古屋の駅まで迄は700m、歩いて10分ほどの距離だ。



 商店街と市道江川線の交差点に、4体の像が据えられている。
東側には織田信長と豊臣秀吉、西側には徳川家康と水戸黄門で、平成25
(2013)年7月に町のシンボルとして設置されたそうだ。



 元気の無い商店街を活気付けようと、地元の不動産会社の経営者が、
日本美術専門学校に製作を依頼した物だ。
学生達が三ヶ月かけて作成した四体は、像の高さは1.0~1.5m、何れも
強化プラスチック製だと言う。



 信長、秀吉、家康は共に愛知所縁の人物で、地元では、「郷土の三英
傑」として馴染まれている。
毎年10月に市内で開催される「名古屋まつり」では、地元の名士達がこ
の三英傑に扮したパレードが最大の見せ場となるほどに市民には親しま
れている。「そんな三英傑が並び立つ場所が市内には無いのが寂しい」
との理由から思い立ったと言う。



 元々は加賀藩祖・前田利家、徳川八代将軍・吉宗、名奉行・大岡越前
を加えた7体を考えていたらしいが、学校側から、「製作が間に合わな
い」との断りが有り、泣く泣く「単純にすきだから」と言う理由で三英
傑以外は水戸黄門に絞り込んだと言う。



 今はただ、交差点の四隅にぽつねんと置かれている感が強い。
周囲を小公園風に整備して、多少の休憩スペースなどを設け、商店街を
散策する人たちが休憩や、テイクアウトを味わえる場所にでも成れば新
たな観光スポットになるのでは・・・、と思ってみたりもする。

 しかし、残念なことに、それらの像へのいたずらなのか、最近破損が
後を絶たないとの話しも伝え聞いた。残念なことである。(続)





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開慶座 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-11-23 | Weblog
 通りでは、記憶に残る屋号の店も二三見かけ、古い店構えに出会うと、
当時の光景が何とは無く蘇ってくる。
 歓楽街でもあった、この名古屋で最大の盛り場には映画文化の最盛期、
「あしべ館」「トヨトミ館」「双葉館」「円頓寺劇場」などの映画館が
あり、さらに寄席や芝居小屋もあったそうだ。





 しかしこれらの映画館がいつ開館し、いつまで営業を続けていたのか、
どこに有ったのか、残念ながら殆ど覚えも無く記憶にも残っていない。
そんな中、通りの中程にあった劇場、「開慶座(カイケイザ)」の事だ
けは強烈に覚えている。

 元々は明治の中頃に、名古屋では数少ない浪曲小屋として開館した由
緒ある劇場である。
当時は地方客や、堀川舟便の船頭などの娯楽施設として賑わったという。




 
 戦後浪曲人気が低迷すると、寄席や漫才、女剣劇の股旅物などを打ち、
一時人気を博したものの次第に赤字に転じてしまった。
窮余の策で、昭和30年代の初頭にはストリップ劇場に転換した。

 その劇場も商店街の衰退と共に昭和61(1991)年に閉館となっている。
今は、その建物も撤去され、広い更地は駐車場に変わってしまった。





 商店街の通りから少し奥まった敷地の壁際に、写真が貼られたショー
の案内板が有り、それが通りからは見えそうでなかなか見えなかった。
当時この前を通る度に、何とか見えないものかと、中を窺ったりもした。
子供から大人になりかけた狭間で、心を大いに惑わされたものだ。

 「円頓寺商店街」では、昭和31(1956)年から毎年7月に行われて
いる「七夕まつり」が、途切れることもなく開催されている。
子供の頃毎年楽しみにしていた祭は、今も続いているらしい。(続)




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円頓寺商店街 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-11-21 | Weblog
 盛り場として賑わった円頓寺商店街も、堀川の川湊が無くなり、瀬戸
電が栄町に乗り入れ「堀川駅」が廃止になり、1970年代には市電も廃止
されると、徐々に賑わいは薄れていく。
 近年追い打ちをかけるように商店自体も高齢化や後継者難に見舞われ、
気が付けばいつしかシャッター通りと化してしまった。





 一旦は廃れかけた商店街ではあるが、最近では再び注目が集まり甦り
つつあるようだ。界隈は名古屋城も近く、堀川の歴史有る五条橋や中橋、
旧街道の美濃路、四間道や数多くの社寺も鎮座している。

 そんな中に戦禍を逃れた町屋や蔵が幾らか残り、町並が江戸の面影を
色濃く残すとして、レトロ感溢れるアーケードの商店街と合わせて知名
度が次第に高まりつつあると言う。





 それに呼応するかのように商店街でも再開発が進み、有志による町お
こしも行われている。近年になって、「四間道エリア」の人気も有り、
共にこの界隈の開発の機運が高まってきた。

 若手商店主など「那古野下町衆(那古衆:なごしゅう)」を中心とし
た活動が始まったのは、平成19(2007)年だそうだ。





 ホームページを開設し、情報を発信する傍ら、空き店舗対策や新たな
イベントなどの取り組みが行われて来た。
無料のタウン誌「ポウ(Paw)(縁側妄想会議編)」も発行されている。

 数年前には商店街のアーケードの大改修、路面の改修なども行われた。
今では昭和31(1956)年から毎年7月に行われる「七夕まつり」と合わせ、
平成25(2013)年の秋に初めて開催される「円頓寺・パリ祭」なるイベン
トも人気を博しているという。(続)




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長久山円頓寺 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-11-18 | Weblog
 堀川に架かる「五條橋」を渡るとその先に、西に向けて伸びる「円頓
寺商店街」の、年季の入った古びた看板が見えてくる。
丁度名古屋駅と名古屋城を結ぶ中間地点にあり、今なお昭和レトロを感
じさせる懐かしい姿を留める商店街だ。

 元々は、清須から移った商人が住み着いた町と言われている。
老舗も多く、明治に入ると更に多くの店舗が創業した。
古くは「えんどんじ」と呼ばれていたが、今では「えんどうじ」が通り
名となっている。





 通りは円頓寺筋と呼ばれる門前町である。
東西に伸びる道は、その西方の円頓寺本町商店街、西円頓寺商店街へと
続き、昔ながらのアーケードを構え、どこか懐かしい、ほっとする優し
い顔を見せている。

 市内に有る「大須商店街」「瑞穂商店街」と並び、三大商店街の一つ
に数えられ、名古屋では最も古い商店街といわれている。





 そんな商店街の中程に、「長久山円頓寺」と言う日蓮宗の寺がある。
商店街の名の謂れとなる寺である。
名古屋開府後の承応3(1654)年の開基で、当初普敬院と称していた。
名古屋城天守閣の建造の折り、余材を拝領し、鬼子母神像を刻み本堂
に安置したとされている。神像は毎月18日に公開されている。





 商店街は、瀬戸電の堀川駅や、堀川の川湊からも近く、名鉄の江川線
(後の市電の路線)が開通しその電停や市バスのバス停も近かった。
 界隈には、女性の神様「浅間神社」や、名古屋弁のおみくじで有名な
「金刀比羅神社」、「多賀の宮」、「真言宗高田派愛知別院」等がある。

 参拝ついでに商店街に立寄る人々も多かったと言う。
名古屋城下の下町として、商店街は人々で溢れ、盛り場としても大いに
盛り上がった時期があった。(続)




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四間道 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-11-16 | Weblog


 「五条橋」は太鼓橋で、中央部分がかなり盛り上がり、上り下りの勾
配がきつかったように記憶していた。西から橋を渡ると熱田台地への上
り際に橋がある事になるが、今見ると意外に車道も歩道も平坦である。

 幼い頃の目線との違いかも知れないが、昭和60(1985)年に大改修が
行われているので、その折に均されたのかとも思うが、真相は解らない。



 五條橋を渡ると、その西詰に川に沿って南北に通るのが、東海道・宮
宿と中山道・垂井宿を結ぶ「美濃路」である。
城下を抜ける、主要な街道の一つとされている。

 当時堀川と街道に挟まれた地には商家の表蔵が並び、この通りの西側
には清須越しで清須から移り住んだ清須商人の店舗が建ち並んで、城下
の物流を一手に担い大層賑わっていた。



 元禄13(1700)年この辺りで大火が発生し町屋18,983戸が焼失し、五条
橋、中橋、伝馬橋も焼け落ちた。
その後再建される折に、美濃路の西側裏道を4間幅(約7.2m)に拡幅、
東側の石垣上に土蔵群を、西側に町屋を並べる独特な景観が形成された。
火災からは、40年ほどを経ての事である。



 名古屋市町並保存地区に指定された「四間道」の町並で、中橋と五条
橋の間に続いている。
今では、古い土蔵や古民家を改装したフレンチやイタリアンの洒落た店、
カフェ、和食処、喫茶店や雑貨店から飲み屋等が続々とオープンしている。



 名古屋駅からは凡そ1㎞程の徒歩圏内(15分位)である。
急激に近代的な町並に変貌を続ける地域に有って、古民家の庇の上には屋
根神様も見られ、下町情緒も色濃く残されている。
お城への通り道として、最近俄に注目を集めるエリアとなっている。(続)






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五条橋 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-11-14 | Weblog


 堀川に架かる「景雲橋」の一つ下流に「五條橋」が架かっている。
名古屋市の都市景観重要建築物の指定を受ける風情のある橋だ。
かつてこの橋は、清洲城下を流れる五条川に架けられていた。



 慶長15(1610)年に行われた町ぐるみの「清洲越し」の折にここに
移されたものである。
元の橋の、欄干の擬宝珠には「慶長七年壬刀六月吉日」との銘があり、
「清洲越し」の8年前に架けられたことが知られている。



 名古屋城下の整備に先立ち、家康の命により堀川が開削された。
その当初に架けられた七つの橋の内の一つで、川には上流から五条橋、
中橋、伝馬橋、納屋橋、日置橋、古渡橋、尾頭橋が架けられていた。



 橋は是まで幾度も改築を繰り返してきたが、明治34(1901)年にも
架け替えられている。現在の橋は昭和13(1938)年に、木造の橋に似
せて造られた鉄筋コンクリート造りである。

 橋の親柱や高欄は御影石で造られ、道路面にはサイコロ状の石が埋め
込まれている。橋の西北詰の擬宝珠には、レプリカが嵌め込まれている。
本物の擬宝珠は、今名古屋城に保管されているそうだ。
付近には案内板が建ち、水際に降りると、そこは小公園になっている。



 それにしても、久しぶりに見る堀川は、随分と水質が改善されていた。
メタンガスのプクプクも、岸辺に盛り上がっていたあのどす黒いヘドロが
無いから悪臭もしない。
中心市街地を流れる川が、有るべき姿に戻ったようだ。


 
 川沿いの町々では下水道の整備が進み下水が流れ込まなくなった。
他の河川からの放流も行われ、ヘドロの浚渫など、長期にわたる地道な
対応で堀川が生き返っている。
まだ清流とは言いがたいが、深緑色をした水が川らしく流れている。(続)



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景雲橋(東海道歩き旅・尾張の国)

2022-11-11 | Weblog


 何年ぶりかに、堀川に架かる「景雲橋」を訪ねてみた。
故郷を出て半世紀以上、毎年訪れる墓参りでは、時々車で通り過ぎはす
るが、一度も寄る機会がなかった場所だ。
ここは、多感な少年時代を過ごした懐かしい地である。



 お城を中心としたこの辺りは、いまでは整然と区画され、官公庁や企
業の近代的なビルが建ち並び、所々には綺麗に整備された公園もある。

 以前はこの近くには大きな病院が有り、周辺の鬱そうとした森は昆虫
の宝庫で有った。近くの堀川やお堀は格好の釣り場であった。
城の北側の広大な練兵場の跡は、冒険心をくすぐる遊び場でもあった。



 明治44(1911)年、この「景雲橋」の近くに鉄道の駅が開かれた。
「セトデン」と呼び親しまれた瀬戸電気鉄道の「堀川駅」である。

 すでに開通していた瀬戸と大曽根が延伸されたもので、線路は名古屋
城三の丸の空堀の底に敷設され、車窓からは石垣しか見えず「お堀電車」
とも呼ばれていた。



 瀬戸で生産される陶磁器を、ここで舟に積み替え堀川を使って運搬す
るためでもあった。
小学生の頃、陶器の町・瀬戸へ遠足に行った記憶が微かに残っている。
駅は名鉄江川線(後の市電)や、市バスへの乗り換え接続駅でも有った。

 後に瀬戸電は名鉄と合併し「名鉄瀬戸線」と成り、昭和51(1976)年
には念願の栄町への乗り入れが実現し土居下から堀川の間が廃止された。



 東海道を宮宿まで歩いた後、熱田神宮まで行き、名鉄神宮前から名古
屋駅に出て、市バスで移動した。
バスセンターで、若い案内員に「景雲橋に行きたいが・・」と尋ねると、
「そんなバス停は有りません」とつれない返事。

 市電は廃止されたが、市バスも停留所が有ったはずと、路線図で「こ
の辺りだが・」と尋ねると、「あっ!それなら図書館前です」と言う。
半世紀以上も経てば町も変わるものである。(続)





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人口の運河・堀川 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-11-09 | Weblog


 慶長16(1611)年徳川家康は、木曽と木曽川を尾張藩の直轄地とした。
木曽美林から切り出される材木を、筏を組んで木曽川を流し、伊勢湾を
渡り宮から城下に運び、名古屋城の築城や新たに作られる城下町の建設
用材に充てる目論見である。



 その前年福島正則に命じ、台地の西辺に運河を掘削した。
全国20余りの大名にお手伝い普請を下命し、掘削人夫を出させ、人海戦
術により同年の6月に一年足らずで完成させた。それが堀川である。



 熱田から城下まで、約4000間(7.2㎞)、幅12~48間(22~87m)、
水深凡1間(1.8m)の運河か開通した。

 この運河、その当時の技術から推測すると、完全な零からの掘削で
はなかったとの異説も有るようだ。
その時代、城下には運河に転用できるほどの大きな自然の川は無かっ
たが、何らかの川筋か用水をベースにしたとの説である。
 



 これにより当時海に面した熱田(宮)から、お城下まで舟運が開通し、
建築資材を運ぶ運河として利用されることになる。
結果、名古屋は木材の一大集積地となり、お城に近い堀川沿いには材木
商を始め米穀、塩、味噌、酒などを商う商家が軒を連ねることになる。
五條橋近辺には、今もその名残の材木商や土蔵などが残っている。



 江戸時代には魚取りをする姿も見られた歴史有る運河は、何時しか水
質が悪化し、死の川となった時期があった。
高度成長期に入り工場や家庭の排水が大量に流れ込むと、川にはポコポ
コとメタンガスの湧き出るどす黒いヘドロが溜まり、辺りに悪臭をまき
散らすドブ川となった。
甲羅干しをするカメばかりで、魚影を見ることは全く無くなった。(続)






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