簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

安倍川餅(東海道歩き旅・駿河の国)

2020-03-30 | Weblog


 公園の先で県道に合流する辺り、安倍川橋の東詰めに「あべかわ餅」
を製造販売する小さな店が三軒ほど並んでいる。
昔から「かみ子餅」とも、また一つが五文(今なら50円ほどらしい)
ほどで売られていたことから「五文どり」とも言われる名物だ。



 その昔、家康が対岸の金山を巡視し当地で休息をした折、この地の
男が黄な粉をまぶした搗き立ての餅を「金な粉餅」と洒落て献上した
ところ、家康が大層気に入りその機智を誉め、自ら「あべかわ餅」と
名付けたと伝えられている。



 搗き立ての餅に黄な粉をまぶし、その上から白砂糖を振りかけたも
ので、今では漉し餡や粒餡を絡めたものや、餅をわさび醤油に付けて
食べる「からみもち」などが売られている。

 当時白砂糖は大変貴重で、それが盛られていることが評判を呼び有
名になり、「あべかわ餅」として街道の人気名物になったのは江戸中
期の頃と言われている。



 この日創業210年以上になると言う「石部屋」は臨時休業で、その並
びの「かごや」と言う店に入った。
昭和の駄菓子屋の雰囲気そのままの店で、有名人も来店しているらしく、
至る所にサイン色紙が貼られている。

 少し耳が遠そうなおじいさんが注文をするとその場で、餅を手で丸め、
黄な粉と漉し餡をまぶし、お盆に盛り白砂糖をかけて供してくれる。
このままだと白砂糖は絡みにくいので、餅を小さく切ってまぶしながら
食べると良いと、お茶を入れながら教えてくれた。



 餅は思った以上に柔らかく撞き上がっていた。
それでも餅らしい歯ごたえもあり、これなら腹持ちもよさそうだ。
この餡の甘さと黄な粉の香ばしさ、加えて茶処駿府のお茶は歩き疲れた
身には堪らない気休めとなった。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

みろく公園(東海道歩き旅・駿河の国)

2020-03-27 | Weblog


 旧道の行き先正面遠くに、安倍川に架かる鉄橋が見える弥勒の地に
やってきた。右から県道が近づいてきて、旧道と挟まれる三角地に交
番があり、その奥が緑地になっていてそこが「みろく公園」である。
丁度府中宿の西側の見付を出た辺りになる。



 街道が成立すると東海道五十三次の宿駅の旅籠には、飯盛女が現れた。
(京に近い草津・石部・水口・坂の下にはいなかったと言われている)
表向き幕府は、宿場に遊女を置くことは禁止していて、その定めでは旅
籠ごとに「食売女」の人数を定めていたという。

 そんな中で唯一官許の遊郭があったのがこの地である。
「食売女」はいつしか飯盛りと称して泊り客の相手をするようになった。
遊郭のない宿場において女性達は、いわば幕府が黙認した売春婦である。



 交番のある辺りが川会所跡である。
橋のない川にあって往来する人の川越を監視し渡し賃である川札を売り、
川越人夫の差配や賃銭の徴収などを担う川役人が詰めていた場所である。
ここには町奉行所からも警備の目的で何人かの役人が出張っていたという。



 公園内には「由井正雪墓跡」がある。
幕府転覆を企て失敗し、捕吏に追い詰められ自刃したとされる正雪の
首が晒された場所とも、その昔の墓跡とも言われる地だ。



 また多額の私財を投入し初代の木橋・安水橋を架けた弥勒町の名主・
宮崎総五を顕彰する「安倍川架橋の碑」もある。
宮崎家は代々川越の総取締を務めた家柄である。



 そのほかにも公園内には、「立場跡」「正念寺跡」「明治天皇御小
休所跡」があり、小さいながらも旧跡・史跡の多い公園である。(続)



にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

府中宿  (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-03-25 | Weblog


 その先で東海道線を越え、左手の池を回り込むように坂を上りさらに
進めば、草薙の一里塚跡があり、その先に草薙神社の大きな鳥居が見え
てくると府中宿が近づいてくる。
この辺りは再開発された地らしく、広々とした公園のような道路が貫き、
大きなビルが林立し、旧街道の風情などどこにも感じることは出来ない。



 プロ野球の草創期に、日本が誇るエースピッチャーとして活躍した
沢村栄治と、アメリカが誇る強打者・ベーブルースの対決が伝説とし
て語り継がれる草薙球場などの有る運動公園を抜ければ、やがて街道
は静岡市の繁華街に入り込むと、府中宿の中心である。



 3000年も前の登呂遺跡が知られているように、古くから農耕文化が
栄えた地で、徳川家康はこの地で幼少期を過ごし、その後江戸に幕府
を開くと駿府城を築いたので、ここは城下町であり、東海道では最大
規模の宿場町となった。



 幕府を開設した家康が将軍職を辞した後、この地に住み亡くなるま
での9年間、大御所さまと呼ばれたそのお膝元でもある。
そのためこの地には、徳川家にちなむ寺社や建造物が多いと言う。



 当時、宿内3,673軒、うち本陣・脇本陣が各2軒、旅籠43軒を数え、
人口も14,000人(江戸後期)を超える賑わいを見せていたと言う。
しかし今日の旧街道はというと、町中には、鍵の手に曲がる通りは残さ
れているものの、宿場の遺構はほとんど何も残されてはいず、繁華な街
並みの中のサインで知るのみである。



 ここは「東海道中膝栗毛」の作者、十辺舎一九の生まれ故郷であり、
お城には弥次さん喜多さんの像などもあるが、持参したデジタルカメ
ラのメモリーが一杯で、写真を撮れないのが何とももどかしい。(続)



にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清水の次郎長 (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-03-23 | Weblog
 追分けの角に、軒下から赤い大暖簾を下げた、元禄8年の創業と言う
老舗「追分羊羹」の店が有る。

 「一人分の小さな物は」と尋ねると、「試食用でよろしければ、あち
らに」と店員が言う。
有りがたく頂いたものの、さすがにそれだけで済ませることも出来ず、
一口羊かんと一口栗入り羊かんを買い求めた。



 竹の皮に餡を包み蒸しあげた昔ながらの蒸羊羹で、封を切ると甘い
餡子の匂いと共に微かに竹の香を感じる。
清水茶を頂きながら、一口含むと歯ごたえの有るあるもっちりとした
羊羹で、程よい甘さが心地いい。食べる時手が汚れるので、小さなお
手拭きが同梱されているが、その老舗の配慮がなんとも心憎い。



 店の近くの街道に都田吉兵衛(通称・都鳥)の供養塔が建っている。
この地を縄張りとする清水の次郎長一家が、フグ中毒で寝込んだと聞き
知った都鳥一家9人が、この機に襲わんと清水にやってきた。



 丁度そこに居合わせたのが次郎長の子分の追分けの三五郎である。
彼の注進でそれをいち早く知った次郎長は、追分の地で酒を飲んで休んで
いる都鳥一家を奇襲し、先にだまし討ちされた子分・森の石松の無念をも
晴らしたのである。

 思わぬ最期を遂げた都鳥を、次郎長を憚ってか、誰も弔う人が居ない。
手を合わせる人も稀なことを哀れんだ里人が、慰霊のために建立したの
がこの塔だと言う。



 次郎長は晩年には渡世人稼業から足を洗い、汽船宿・末広を経営し、
英語塾を開設、富士の裾野の開墾や清水港の近代化にも貢献し、政府
要人との関りも多かったそうだ。


 
 明治26年74歳で波乱万丈の生涯を閉じたが、葬儀には千人に余る会
葬者で盛儀となった。港近くの商店街には生家も残されていて、町内
の梅蔭寺には妻や子分と共に眠る墓が有る。(続)






にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追分け (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-03-20 | Weblog
 『清水湊の名物は お茶の香りと 男伊達』
清水はお茶の名産地として知られている。また昔から「江尻」と言う
宿場名よりも、こんな歌で知られるようにこの地は紛れもなく「清水」
として知られ、「男伊達」は、清水の次郎長一家で全国的に名高いとこ
ろでもある。
その次郎長の子分の一人に、追分の三五郎と言う人物がいた。





 この追分とは、街道が二つの分かれ、分岐する地点のことで、全国
には「〇〇追分」と言う地名が今でも沢山残されている。

 当時としては交通の要衝でもあるから、そのまま宿場が置かれ発展し
たところもある。また立場として、旅人の休息するための茶屋が設けら
れたりもしていたらしい。当然そこにはそこでしか食べられない「名物」
があり、それを楽しみの旅人も多かったようだ。





 そんな追分には、往来する旅人や馬方、接待する小女や飯盛り女など
が多く集い、そこでは自然発生的に素朴な騒ぎ歌が生まれ、それが瞽女
や座頭、旅芸人などに歌い継がれやがて民謡として確立されて今に伝え
られているものも少なくない。
北海道の「江差追分」等が特に知られている。





 江尻から次の府中までは二里二十五丁(およそ10㎞)の長丁場が待っ
ている。街道を府中に向けて進むと、左手に「是より志三づ(しみず)
道」と書かれた追分の道標が建っている。

 左の細い道を行けば久能山への参詣道、かつてはここが清水湊に向か
う道の分かれ(追分)で有ったと言う。ここは清水の追分けである.
因みに追分けの三五郎の出は、この追分ではなく信州の追分である。(続)
(写真:北海道江差 「追分け会館」)




にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江尻宿 (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-03-18 | Weblog
 「駿河健康ランド」で泊まった夜、多彩な風呂をゆっくりと楽しみ、
館内の居酒屋でビールを飲みながらの夕食で腹を満たし、その後、部屋
に戻り長い時間をかけて何とか今日一日分のデジカメ・メモリーの空き
容量を確保した。

 興津宿では最低限の写真を撮ったが、これで次の江尻と府中まで何と
か持たせないといけない。その江尻の宿までは一里強程と直ぐそこだ。





 国道のバイパスを潜り、その先で東海道本線を越えれば、街道は賑や
かな清水の町中へと入り、しばらくは国道1号線を歩く事になる。
辻町で国道と別れ、右の旧道に入り込むその角に、「細井の松原跡」の
石碑が立っていた。
一時は1,000本ほど有ったらしいが、今残るのは一本のみである。





 江戸から数えて18番目の宿場町・江尻はこの辺りから始まり、その半
里先の巴川に架かる河童橋まで、橋を渡ると木戸跡の石碑が建っている。
宿内の人口は6,500人ほどで、家屋も1,300軒余りあり、本陣が2軒、脇
本陣が3軒、旅篭は50軒を数えていたそうだ。

 「ここは馬の少なき所也。されど魚さかなはおほし」と言われる土地
柄で、江戸時代には江戸と大坂を結ぶ清水みなとが繁昌したところだ。
湊には駿府奉行差配の蔵が建ち並んでいたという。





 駿河では次の府中に次ぐ宿場らしいが、今日の街道筋は清水銀座とし
て繁華街に変貌し、当時の面影を感じるものは何も残されてはいない。
本陣跡も木戸跡もすっかり町の喧騒に埋もれ石碑が建つが、目立たない。
今日では江尻という古名より、この清水の方が馴染まれている。(続)




にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

興津宿 (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-03-16 | Weblog
 再び街道に戻り、興津の町に入ってきた。
宿場は、JRの興津駅前を過ぎた理源寺のある辺りから始まる。
ここは宿内の人口は1,600人余りで、家数は316軒、本陣と脇本陣が2軒、
旅篭は34軒あったと言う。しかし今日の広々とした通りには、当時の面
影を見つけることは殆どできない。





 民家の玄関先に隠れるように立つ一里塚跡の石碑や、東本陣跡の石碑
などは気を付けていないと見落としてしまいそうだ。
脇本陣であった水口ギャラリーにはこの地所縁の貴重な資料が展示され
ているらしい。しかし時間も無いのでやり過ごし、伝馬所跡に造られた
興津宿公園で少し休み、更に先に進む。





 興津は古くからこの地方では交通の要衝として知られていて、身延
山道はここが追分けであった。またかつては坂東(東北の蝦夷)への
備えの為に「清見関」が設けられていた時期が有ったという。

 宿内が西に途切れる辺り、道が西に緩くカーブすると、「東海名区」
と書かれた扁額を掲げた山門の建つ寺が有る。
奈良時代に創建された古刹らしく、徳川家康縁の寺らしいが、元々は
清見関の鎮護として建立された仏堂が起こりだという。





 山を背景にして石段の上に山門が建ち、石垣の上に甍を並べ、なかな
かの巨刹らしい。しかし山門の直ぐ先には鉄道の架線を支える鉄柱が見
えている。
ここには東海道線が貫き、境内が二分されているのだが、それが何んと
も痛々しい。

 街道は左に坐魚荘の跡地である西園寺公園にやって来た。
西園寺公望の別荘・坐魚荘が有った場所だ。元々の建物は愛知県犬山市
にある博物館・明治村に移築されているが、近年この地には忠実に復元
された建物が立てられていると言う。(続)




にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

駿河健康ランド (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-03-13 | Weblog


 富士川の鉄橋で持参したデジカメが、「メモリーが一杯です」と成っ
たことを受けて、そこまでに撮り溜めた写真の内、同じような構図の写
真を泣く泣く削除しながらここまでどうにか凌いできたが、ここに来て
又非常な宣告が出てしまった。



 明日は江尻から府中まで進み、静岡駅から新幹線で帰途に着く予定に
しているので、何とかもう一日分の空き容量を確保しなければならない。
今晩の宿ではその作業が待っている。



 その今回の最終泊は、ここ興津の海岸に建つ、天然温泉を併設した
「駿河健康ランド」と言う、ビジネスホテルと健康ランド(温泉施設)
が合体したような24時間営業のリゾートホテルで有る。



 部屋はシングルからダブル、大小の和室、仮眠室まで色々揃っていて、
何より入浴施設が充実しているのが嬉しいし、当然宿泊者は健康ランド
への入館料は無料であるし入浴はし放題である。また館内には幾種類も
の食事処や、ゲームコーナー、カラオケルームなどがあり、癒やしの施
設も備えられている。



 宿で何とか写真を整理はしたが、しかし後から冷静になって考えれば、
あの時、道中で予備のメモリーカードを何故買い求めなかったのか。
今時のコンビニやスーパー、ドラッグストアならメモリー位売っている
筈では無いか。
それよりも何で持参しているスマホのカメラを使わなかったのだろうか?



 今思えば、情けないほどに慌てふためいていて、そこまで知恵が廻ら
なかったことが本当に情けないし、折角の写真を随分と無くしてしまっ
た事が悔しくてしょうが無い。(続)



にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

外国の青年 (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-03-11 | Weblog


 峠の上り道の途中で、自転車に乗った外国の青年が、すれ違いざま
「コンニチワ」と挨拶をくれた。
俯いて喘ぎながらの登坂中で、思わぬ声に咄嗟に返す言葉が見つから
ず「気を付けて」等と気の利かぬ挨拶を返すと、日本語が解るのか、
軽く左手をあげて勢いよく駆け下りて行った。



 近頃は外国でも浮世絵が知られているらしい。
その為、広重の描く「東海道五十三次」の画と、現実の風景の対比を
楽しみに街道を訪れる外国人も少なくないと聞いていたが、実際に出
会ったのは是が初めての事であった。



 薩田峠を下り、次の興津宿に向かうが、ここからは一転して切り通
した地道や、階段道で下っていく。
峠に置かれていた杖を借りてきて正解であった。
あの青年はこの階段道を、坂道を、自転車を担ぎながら上って来たので
あろうか、などと同情したくなるほど厳しい下り坂が延々と続いている。
(峠には自動車道もあるので、それを上ってきたのかも知れないが・・。)



 やがて前方に民家などが見え始めると峠道は、墓地の中に入り込む
ように長山平と呼ばれる地に降りていく。
東海道本線に沿って進み、右に大きく迂回して興津川に突き当たる。
かつて「至って美味也」と言われた鮎が、初夏から中秋にかけてこの
川では取れたという。



 この辺りで左折し、川に沿って海に向かう。
正面に東海道線のガードが見える辺りが「川越し」の跡だ。
当時興津川は厳冬期には仮橋が架けられるものの、通常は橋や渡し舟は
無く、人足による徒歩渡しをしていた。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

薩田峠越え(東海道歩き旅・駿河の国)

2020-03-09 | Weblog
 かつてはこの望嶽亭の先から左に取り、海岸に降りるのが街道筋で
有ったと言う。その地は急峻な薩田山の山塊が急激に海に落ちこみ、
海岸線には平地がほとんどない岫崎(くきがさき)と言われる厳しい
地で、親知らず子知らずとの異名をとる東海道一の難所であった。





 当時の旅人は干潮を見計らい、砂交じりの波しぶきが吹き付ける中、
波が引き次の波が寄せる間を縫って駆ける、それは周りの人に気を掛け
る余裕もない、命がけの通り抜けで有ったようだ。
そんな難儀を解消する為、峠を越える中道が明暦年間(1655)に、更に
山の向こうを回る上道も天和年間(1682)に整備され、旅人は海岸を行
く下道から解放された。





 ミカンやビワの畑に挟まれ道を登っていく。
由比の交流館で女性の職員が、「車で峠に向かう観光客には進められ
ない道」と言っていた事情が良く解る。道は曲りくねっているうえ、
狭く行き違いもままならない箇所が多い。
その上急勾配とあってはなれない観光客では危険と言うことだ、せい
ぜい畑仕事の軽トラックしか行き来のない道なので、安心して歩ける
のはありがたい。





 所々で視界が開けるが、そこでは敢て見ないように目を背け、ひた
すら峠を目指す。上り始めて凡そ1時間峠に到着した。
振り返れば眼下に広がる太平洋、そこに迫り出し、縺れるように伸び
る道路と鉄道。
目をその先に転じれば、黒い山塊の上に秀麗な富士の山が見える・・・
筈だが残念ながら厚い雲に覆われてその姿はない。
それでもここには、広重の描く雄大な景観そのものの大パノラマが広が
っている。(続)

  こちらも見てね   


にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする