簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

赤い道路橋(JR乗り潰しの旅・紀勢本線)

2017-03-31 | Weblog


 この長島神社の社叢(しゃそう)は、スギやクスノキのほかイヌマキ、スダジイ、
ヤマモモなど暖地性の植物群が三重県の天然記念物の指定を受けているそうだ。




 そこから暫く走ると海に出る。歩きなら駅から二三十分と言ったところである。 
そこに漁協の卸売市場が有ったが、もうすでに取引が終わった刻限で人影もなく
閑散としていた。海辺には喫茶店や食事処などの他、何軒かの魚介類を販売す
る店も並んでいるたが、観光客らしき姿を見かけることもなく長閑なものだ。
これらの中には予約すれば「干物造り」が楽しめる店も有るようだ。



 港で一際目を引くのが、江の浦湾に架かる二つの赤い道路橋である。
湾の奥に架かる何やら変わった形をした橋が「江の浦橋」で、これは橋の下を船が
通ると中央部が上昇する、昇降式の可動橋だ。

 丁度今まさに橋の下を船が通過中で、橋の中央桁がユックリユックリ上昇を続け
ている。橋は全長が85mで、その中央部30mが上昇すると言う。そこには踏切のよ
うな遮断機が設けられているらしい。


 
 その手前に架かるのが「江の浦大橋」で、これはループ橋で、上から見ると“α”
に見えることから「アルファ橋」とも呼ばれている。殆ど自動車専用のような橋で、
歩行者や自転車は「江の浦橋」を利用するのだそうだ。



 その先に目をやると、太平洋が一望で、漁船が出入りする長島港の向こうには、
熊野灘の碧い海が一杯に広がっていて、まさに紀伊長島は、黒潮に恵まれた漁業
の町である(続)





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紀伊長島(JR乗り潰しの旅・紀勢本線)

2017-03-29 | Weblog
 紀勢本線は、多気で参宮線と別れると伊勢の国を離れ、いよいよ紀伊の国を
目指す。その国境に立ち塞がるのは、25‰の勾配で待ち構える荷坂峠だ。
しかし列車は、1914mの荷坂などの大小トンネルを幾つも潜り抜けながら難なく
超えていく。軽快にそれを抜けると目の前に太平洋・熊野灘が広がり、今度は急
坂を一気に駆け下りその先で紀伊長島に到着する。





 亀山や多気から出る下り列車の多くは新宮まで行くが、格別に理由が有るわけ
でもなかったが、ここで途中下車をしてみる。
本線とは言え、この辺りでは2時間に1本程度の普通列車と、3時間に1本程度の
特急が有るだけで、一旦降りてしまえば次の普通列車まで2時間ほどの待ち時間
が出来ることになる。



 駅前に観光案内板があり、近場で見て回れるところは・・・と探してみるが、これと
言ったものが見つからないが、ここで何もせず時間を潰すのも能がない。
幸い降り立った駅前にレンタサイクルが有ったのでそれを借り、この間を利用して
少し長島の町を走ってみることにする。
海辺の町だから、まず海に向けて走るのが無難な選択だと思い、2キロほど先の
港を目指してみた。



 ここは漁業の町らしく、海に近づくと古い町並みが続き、そんな中に樹木がうっそ
うと茂った長島公園が有り、その中心に長島神社が祀られていた。
黒潮に近いせいか、木々は旺盛に茂り大木が並び立っている。





 中でも目を引くのが樹齢は約1000年樹高は28mと言うオオスギや、樹高30m、
幹回りが10m余りと言われるオオクスで、これらの堂々とした枝ぶりは神々しくさ
えある。(続)



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おかげ横丁(JR乗り潰しの旅・紀勢本線)

2017-03-27 | Weblog
 「おはらい町」の再生は、伊勢が最もにぎわった江戸から明治の時代の風情を
再現しようとするもので、切妻・入母屋瓦葺の木造建屋が、妻入りで建ち並ぶ町
並みの復元であった。



 通りに面したコンビニですら、その仕様に合わせる徹底ぶりには驚かされる。
神宮の正殿などが平入で建てられていることから、それと同じでは畏れ多い事から
妻入りとした伊勢特有の景観であると言う。



 更に61回目の式年遷宮に合わせ、おはらい町に隣接した4000坪の地に飲食店
や土産物店、美術館、資料館など57店舗からなる「おかげ横丁」がオープンした。
江戸時代にタイムスリップしたかのような町並みは、伊勢を代表するお土産の「赤
福」の角を曲がった辺りに広がっている。



 「おはらい町&おかげ横丁」で町は往時の繁栄ぶりを取り戻したと言われている。
大釜を店頭に飾った「赤福」の本店では、出来立ての柔らかい餅が味わえるとあっ
て多くの観光客で賑わっている。



 お昼時ともなれば、名物の伊勢うどんや、てこね寿司を食べさせるお店の前には
行列ができる。高級な所では、松坂牛、そのサイコロ串焼き、握り寿司や、イセエビ
のお造りなどを出す店から、気軽に食べ歩けるみたらし団子の店、ソフトクリームや
スイーツの店、地ビールの店など美味しいものが揃っているのもこの町並みの魅力
である。



 横丁らしく通りには、腰を下ろして休み店で買ったものを食べるなどするスペース
も用意されているのはありがたく、そこでは精進落しの談笑をする多くの参拝客の
弾んだ声が響いている。(続)



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おはらい町(JR乗り潰しの旅・紀勢本線)

2017-03-24 | Weblog
 昔から「お伊勢さん参り」は、まず外宮にお参りし、その後1里あまり離れた内宮
をお参りするのが正式とされていた。
したがって、伊勢参宮道も当然外宮を経て内宮に至り、五十鈴川に架かる宇治橋
付近が終点であった。



 「お伊勢さん参り」のブームが起こった江戸時代に、庶民を伊勢に誘い道中の案
内や、現地で宿泊の世話をしたのは「御師」と呼ばれた人たちであった。
当時この人たちの館が多く建ち並んでいたのが、この街道の終点辺りの門前町で
ある。



 念願の「お伊勢さん参り」が無事終われば、次に待つのは今も昔も門前町での精
進落しの歓楽である。「御師」の館では訪れる客を、お祓いや神楽の上演、豪華な
食事でもてなしていたことから、何時の頃からか、この町を「おはらい町」と呼ぶよう
になったそうだ。



 宇治橋から五十鈴川に沿ったおよそ800mの町並みがその「おはらい町」である。
当時の「御師」繁栄の歴史が終わった今日では、館に変わってたくさんの土産物屋、
食事処などが建ち並び電線の地中化された通りには石畳が敷かれレトロな雰囲気
を醸し出している。



 しかしそんな町も繁栄の時代ばかりではなかったようだ。
国道が整備され参宮有料道路が開通し、更にマイカーブームが到来すると、神宮
を訪れる参拝客は自家用車や観光バスの利用が多くなり、観光客の動線が大きく
変化した。



 結果参拝客はあるものの、おはらい町に入り込む客は、その10分の一にも満た
ないほどに激減し、危機感を感じた町がようやく動き出すことになったのだそうだ。
(続)



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伊勢神宮(JR乗り潰しの旅・紀勢本線)

2017-03-22 | Weblog
 「神宮(じんぐう)」と言うのが伊勢神宮の正式な名称だそうだ。
国内に凡そ8000あると言われる神社の中でも伊勢神宮は、社格の対象外とされ
る別格の神社であると同時に、元々は皇室の氏神で、国家鎮護の最高神とされ、
古くから日本国民にとっては参拝の憧れ、強い崇敬の対象となって来た。



 「神宮」では20年ごとに正殿を造り変え神座を遷し返る式年遷宮が長きに渡り行
われてきて、近年では平成25年には62回目が無事行われている。
そんなお伊勢さんを久しぶりに参拝したのは、まだその余韻が残る翌年の春のこ
とである。



 五十鈴川に架かる宇治橋を渡るとそこはもう森に包まれた内宮の境内にと入り
込む。正面に建つ鳥居も、橋の欄干や床板にもまだ新しさが感じられる。
砂利の敷き詰められた参道を進むと、やがて右手が開け、敷き詰められた石畳が、
御裳濯川(みもすそがわ)に設けられた御手洗場の流れへと導いている。



 瀧祭神の辺りで参道が左に折れると、いよいよ神宮の核心に入り込む雰囲気で、
さすがにここら辺りには門前町の喧騒も届かず、聞こえるのは森で遊ぶ野鳥のさえ
ずりと玉砂利を踏みしめる足音だけである。



 やがて森が切れると正面に正殿の真新しい鳥居と建物が見えてくる。
聖域は当然のことながら撮影も禁止だ。



 石段を踏みしめるように一歩一歩上り、2000年の歴史を引き継いだ三種の神器
の一つ八咫鏡と天照大御神をお祀りする社の前で頭を垂れ日々の無事息災をご
報告する。
御神前ではお願い事をするのではなく、「おかげさまに感謝の心」を捧げるのが作
法とされている。(続)



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お伊勢さん参り(JR乗り潰しの旅・紀勢本線)

2017-03-20 | Weblog
 十辺舎一九の東海道中膝栗毛では、弥次さん喜多さんは四日市の日永追分で
東海道を離れ、伊勢街道を神戸、白子、上野、津、雲津、松坂、小俣と宿場を辿り、
ようやく山田にやってきて念願の伊勢神宮への参拝を済ませている。



 江戸時代の庶民にとっての「お伊勢さん」への参拝は、「お陰参り」が大流行した
とは言え、一生に一度とてない重大事であった。
この親しみを込めた「お伊勢さん」という愛称も、丁度この頃に定着したと言われて
いるが、庶民にとっては実際の参拝ともなると憧れ以外の何物でもなかった。



 何せ東海道の起点、江戸日本橋から四日市・日永の追分までは100里以上(約
410Km)ここで伊勢街道に入ってからも凡そ18里(約70Km)の道のりが待っている。
如何に当時の人々が健脚とは言え、1000キロにも及ぶ行き来となれば、一か月
を要する長旅となり、その費えともなると並大抵のものではない。



 それでも当時は、乏しい中生活費を削り皆でコツコツと銭を積み立てて、講の代
表に、或いはかわいい我が子にやっとの思いで何とか代参旅を願い、その土産話
でようやく行ったような気になった・・・ようである。





 伊勢神宮へのアクセスは、かつては国道1号線(東京~伊勢、現在は四日市~
伊勢は国道23号線)であり、今では伊勢自動車道であり、JR参宮線であり、近鉄
山田線などが何れも神宮の近くまで向いていて、当時に比べれば雲泥の差である。



 便利になり、気軽にお参りが出来るようになったとはいえ、それでも日本人にとっ
ての「お伊勢さん参り」は、一度は行きたい何か特別な存在である。(続)



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伊勢奥津宿(JR乗り潰しの旅・紀勢本線)

2017-03-17 | Weblog
 伊勢奥津駅から続く道を100mほど下ると「伊勢本街道」と呼ばれる街道に行き
当たる。その角を左折したあたりが、かつて宿場町として栄えた奥津の中心的な
場所だと言う。



 道端の木標に「須郷おんばさん 0.4Km」と書かれていたので、何かと聞いてみれ
ば昔からこう呼ばれる祠が有り、延命地蔵が祀られているのだそうだ。
街道はここから更に東に向かい飼坂峠を経て上多気、相可などの宿場を過ぎ南下、
伊勢に続いている。





 曲がりくねった街道の道筋には、木造瓦屋根葺の平入の古い民家が幾つも残さ
れている。その軒先には格子戸が嵌められ、正月飾りや餅花などで彩られた玄関
先には山中や、江戸や、尾張屋などと古い屋号を染め抜いたカラフルな暖簾が掛
けられている。



 この通りには昔からの屋号が残る家が多いらしくそんな屋号を染め抜いた暖簾
を掲げ、「のれん街道」とした町おこしには50軒余りが参加していると言う。





 かつては数件の旅籠が有ったらしいが、今日の街道筋には昭和22年ころまで旅
館をしていたと言う「中北屋」などが残されているだけだが、建物は旧街道の旧旅
篭の面影を色濃く見せている。



 名松線の列車の本数は少ないので、折り返し便に乗り遅れると二三時間も待つ
ことになり、それは避けねばならない。
そのためこんな僅かな時間ではゆっくりと街道を楽しむことは出来なかったが、こ
のままお伊勢さんまで歩いてみたい、などと思わせるような雰囲気のある良い街道
の宿場町であった。(続)



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伊勢本街道(JR乗り潰しの旅・紀勢本線)

2017-03-15 | Weblog
 名松線の終着駅・伊勢奥津駅を出て、緩い坂道を100mほど下ると、細い街道に
行き当たる。
これは大和と伊勢神宮を結ぶ伊勢参宮道で「伊勢本街道」と言われる道だ。





 古くからお伊勢参りは庶民の強い憧れであったようで、江戸時代には最も人気の
高い観光地はお伊勢さんだと言われている。
「講」をつくり、皆で貯金をしてそれを元手に代表者がお参りする代参は当たりまえ
のように行われていたらしい。



 十辺舎一九の「東海道中膝栗毛」では、弥次さん・喜多さんは東海道を四日市の
追分で別れ、「伊勢街道」と呼ばれるルートで伊勢を目指している。
当時伊勢を目指す街道は幾筋も整備されていたようだ。



 「伊勢本街道」もそのルートの一つで、奈良から伊勢に向かう最短コースであった。
猿沢の池を出発し榛原、多気、津留、田丸などを経て伊勢の山田に至る129キロの
街道だ。ここ奥津は、その街道の宿場町として栄えたところでもある。



 しかし最短であるがゆえここは厳しい山道が多く、人々はそんな難渋を避け、遠
回りにはなるが平たんな名張から松坂に抜ける伊勢北街道(青超之道)を行くよう
になり、この街道はいつしか衰退の道を歩んでしまったそうだ。



 しかし近頃では奈良大学が「実践歴史学」の一環として、学生を中心に昔の「講」
を組み、本街道を歩いて伊勢に向かう活動を行ってきたことがテレビや新聞などで
も話題に取り上げられたことが有ったが、そんなことなどが有って街道は再び脚光
を浴びるようにもなっているらしい。(続)



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伊勢奥津駅 (JR乗り潰しの旅・紀勢本線)

2017-03-13 | Weblog
 名松線は松坂を出るとしばらく紀勢本線を行き、最初の駅の手前でその本線と
離れしばらくは市街地を長閑に走る。沿線に雲出川が近づくころになると山々に
囲まれた農村から、次第に山間の風景に変わる。
ここら辺りは嘗て林業で栄えた村々だが、周辺にはそんな山々を切り開いたゴル
フ場が幾つも立地していて、そんな景色を見せながらローカル線は長閑に走る。



 終着駅の伊勢奥津は、「おくつ」ではなく、「おきつ」と読ます駅で、松坂駅からは
80分ほどで到着する。
ここは駅舎側に一面ある狭くて長いホームと、その先行き止まりの一線があるだ
けの無人駅であるが、かつてはこのホームの他に、島式一面二線のホームも有っ
たと言う。



 駅舎も昭和10年の開業当時のままの木造のものが長く残されていたらしいが、
平成17年に外観を似せたログハウス風の地域住民の交流センターを併設した真
新しいものに建て替えられている。



 そんなホームの先の線路上には赤茶けて錆色をした車両止めが有り、その前に
はSL時代の名残の給水塔が、蔓草の絡まった台座の上で錆びた姿を曝しながら
残されている。誰が詠んだものなのか、句が書かれた札が架けられていた。

「機関車の給水あとやススキ原」







 たった一両の車両と小さな駅舎は寂寥感溢れる終着駅そのものの風景だ
が、その脇にはしだれ桜が植えられているの、花の咲くころなら桜と錆びた
タンクとこれらの絵柄は、きっと郷愁を誘う中にも華やいだ駅風景になるので
はなどと思ってみたりもする。ここはそんな趣のある駅である。(続)



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名松線 (JR乗り潰しの旅・紀勢本線)

2017-03-10 | Weblog
 この松坂からは名松線が出ている。
伊勢奥津までの43.5Kmを、全て三重県内にある15の駅で結んでいる非電化の路
線で、運行は凡そ2時間に1本程度だ。





 路線名の「松」は起点の松坂の頭文字であるが、不思議なことに路線内の各駅
に「名」の字の付く駅は無い。
それもその筈、もともとは奈良県の桜井と結ぶ計画が途中で名張に変更されたも
ののそれもとん挫、伊勢奥津止りとなったため盲腸線で終わってしまったのだ。
終着駅からは名張方面へのバス接続もあったようだが、今はそれすら廃止されて
いる。



 嘗て赤字による廃線の勧告対象となった典型的なローカル線であるが、当時は
沿線の道路事情も悪く代替輸送手段の確保が難しいと言う事でどうにか生き長ら
えてきた。しかも、2009年10月の台風18号では、急峻な山間部の家城―伊勢奥
津間の路線で38か所も土砂崩れなどの甚大な被害を受け運行が出来なくなった。



 元々一日の利用者も700人と少なく、年間収益4000万円に対し維持費が約8億円
もかかっていることも有った。
特に被災を受けた区間は一日利用客が90人程度まで落ち込んでいたこともあり、
JRは復旧を断念沿線の道路事情も好転していることからバス輸送に切替えてきた。





 ところがJR東海は地域住民の根強い再開要望や後押しもあることから、三重県
や津市が行う治山事業や水路整備事業の進捗に合わせ名松線の復旧工事に着
手し、被災から6年5か月を経てようやく運行にこぎ着けたのである。
災害で被害を受けたローカル線がそのまま廃線になる例は少なくはなく、こんなに
長い期間をかけて復旧する路線は国内では珍しいことだそうだ。(続)

               
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