簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

岡山のベッドタウン(JR乗り潰し・山陽本線)

2016-03-30 | Weblog


 山陽本線沿線の瀬戸から上道、東岡山、高島、西河原にかけては、70万政令指
定都市岡山の、東のベッドタウンとして発展の著しい地域である。
車窓からも古い家屋に交じって建つ真新しい住宅やコーポ、マンションや山の傾斜
地に切り開かれた大規模な住宅団地の姿をまだ残る田畑や山林の中に見ることが
出来る。



 ここら辺りは昔から米造りや、桃・ぶどうなどの果物栽培も盛んな地域で、開発が
進むとは言え、まだまだそんな畑も沢山に残されている。
沿線では、豊かに実る田圃が目を楽しませてくれる。そんな中でも特に桃の花の咲
く春先の美しさは一見の価値が有り、鮮やかなピンクの染まった畑を、車窓からも目
にすることが出来る。



 高島を出て百間川渡る頃、車窓左遥か前方に金烏城とも呼ばれる端正な姿の

れば、岡山駅はすぐそこである。



 山陽本線は500Km以上も有る長大な路線であるから、当然全線を通して運行さ
れる列車は無い。
関西圏からだと姫路が一つの区切り駅ならここ岡山は次の区切り駅と言え、先に
進む場合、多くはここで乗り換えることに成る。





 ここから西へは三原あたりへの区間運転が多くなり、その先は広島を経て岩国辺
りまでが多くなる。
以前は岡山からも下関に向かう長距離の普通列車も出ていたようだが、今はそんな
長距離を行く列車は無く、この間では快速列車も幾らか運行されているが、関西圏の
それと比べれば見劣り感は否めない。(続)

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倉安川吉井水門 (JR乗り潰し・山陽本線)

2016-03-28 | Weblog
 地元の人でも、余程歴史好きか物好きで無い限りよくは知らないであろう場所が、
ようやく日の目を見た。
2013年7月26日、皇太子殿下が岡山行啓の折この場所に立ち寄られた。
皇太子が水に関する研究をされている事と、明治18年頃この地を御幸された明治
天皇繋がりと言うことだ。



 その場所は、「倉安川吉井水門」(県指定史跡)である。
倉安川と言うのは、江戸時代の岡山藩主・池田光政が家臣の津田永忠に命じて
造らせた吉井川と旭川を結ぶ幅約7m、延長約20キロにも及ぶ水路で、延宝年間
にたった1年で完成を見ている。



 この川は南部に開発された新田への灌漑用水と、岡山城下へ年貢米等を運ぶ
高瀬舟の運河としての二つの機能を持っていた。
また藩主が参勤交代の帰途、この水路を使い岡山城に帰ったと言う記録も残され
ていると言う。



 最大の難関は、二つの川の標高が異なることであった。
県の東部を流れる吉井川の標高は5.7m、中央部を流れる旭川の標高は0.6mと、
僅かその差は5mほどであるが、船を通すためには水門を作る必要が有った。
そのため、吉井川側に造られたのが、「倉安川吉井水門」である。



 吉井川の堤防側には「一の水門」を設け倉安川側に「二の水門」を設け、その間に
「高瀬廻し」と呼ばれる船溜まりを設け、この二つの門の開閉により水位の調節を行
ったのである。



 当時の人々が僅かな標高差を把握し、現在「閘門式(こうもんしき)」と言われる
水位調整の仕組みを知っていたことは土木技術の高さを窺い知ることが出来る。
水門は自然の岩盤を利用して、花崗岩などの切り石を組み上げた堅固な造りで、
川と同様320年を経た今もほぼそのまま残されている。(続)



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万富東大寺瓦窯跡 (JR乗り潰し・山陽本線)

2016-03-25 | Weblog
 ここ万富は奈良の東大寺とは深い縁のある地であり、万富駅にほど近い丘陵地
には昭和2年、国の史跡に指定された「万富東大寺瓦窯跡」が残されている。



 『備前国司(俊乗坊重源)の勢力がおよび、大量の瓦や材料(薪)を生産・運搬す
るのに適した地として、この万富が選定されたと考えられる。』
(「史跡万富東大寺瓦窯跡確認調査報告書」 2003年 岡山県瀬戸町教育委員会)



 平安時代、源頼政は以仁王を奉じて延暦寺や興福寺の勢力と組み打倒平氏の
兵をあげた。これに対して平清盛の命を受けた平重衡は奈良へ攻め入り、反平氏
勢力である南都の寺を焼き討ちし、これにより東大寺も焼失した。
いわゆる保元・平治の乱である。



 その後時の朝廷により東大寺の復興計画が立てられ、大仏殿再建の勧進も全国
で行われた。
その再建に必要な瓦を焼いた窯跡と伝えられる場所がこの地には残されていて、
昭和54年の県の発掘調査では13基もの窯が確認されている。



 もともとこの付近には良質な粘土が大量に有ったことが知られており、阿保田神
社を中心にその周辺に当時は30基もの窯を造営し、それを用いて軒丸瓦と平瓦な
どが30~40万枚も焼かれたと伝えられている。





 当時吉井川の流れは大きく二つに分かれ、そのうちの一つが西に流路を変えて
いたと推測されている(今日の万富駅辺りか)。
この事から、生産された瓦は筏を組んで川の中ほどに待つ舟まで運び、それに積
み変え吉井川を下り瀬戸内海に出て大阪湾に向かい、そこから淀川・木津川をさ
かのぼり東大寺に送り届けられたとみられている。(続)

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切符ブームとキリンのビール工場 (JR乗り潰し・山陽本線)

2016-03-23 | Weblog
 北海道広尾線(1987年2月廃線)の「愛国」から「幸福」行き切符、「愛の国から幸
福へ」のフレーズに端を発した旧国鉄の切符ブームは、瞬く間に全国を席巻し、つ
いに岡山県内にも飛び火した。
縁起の良いとされる「福」「金」「富」などの付く県内の「福渡」「金川」「亀甲」駅など
の切符がもてはやされ、飛ぶように売れたと言う。



 「万富」も例外ではなく「万に富む駅」として評判を呼んだ。
ここは明治30年に地元が用地を寄付し、山陽本線の前身の山陽鉄道が開設した
旅客扱い専用駅であるが、周辺は桃やブドウの一大産地で、出荷シーズンともな
ると全国各地への発送で大いに賑わったと言う。



 駅では年間でも200枚程度しか売れなかった入場券が、一日平均で100枚
以上も売れ、最高は300枚も出た日が有り、駅では増刷に次ぐ増刷で対応に
追われたと当時の新聞は伝えている。
一日の利用者が数百人しかなかった駅の、1975年の出来事だ。



 駅の南にはその三年前の1972年、キリンビールの岡山工場が創業している。
工場は平成に入りリニューアルされ最新鋭工場に生まれ変わった。
場内にはビオトープが併設され、公園のような工場を見学すれば、出来立ての美
味しいビールなどの試飲も楽しめる。





 当時万富駅にはビール輸送のための専用側線が引かれ、工場専用に貨物も扱
う繁盛駅となった。
しかしその後は貨物がトラック陸送に取って代わられ、貨物扱いは廃止された。
切符ブームもあっけなく去り、貨物扱いの無くなった駅は側線も取り払われ、利用
者数も今と昔でほとんど変わることもなく、二面三線の広い構内を持てあましてい
るようだ。(続)



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吉井川と曲がった鉄橋 (JR乗り潰し・山陽本線)

2016-03-21 | Weblog
 山陽本線は熊山の駅を過ぎると、山陽自動車道の高架を潜り、その先で一級河
川・吉井川を橋梁で越え万富に向かう。

 この吉井川橋梁は岡山生まれの名随筆家内田百間が自身の随筆集「安房列車」
に“日本で唯一曲がった鉄橋”と紹介したことで一躍有名になり、以来鉄道写真フア
ンの撮影ポイントとして知られたところだ。





 測量ミスなどと汚名を着せられ面白おかしく語られたりもしたが、実際のところは、
熊山山塊にトンネルを掘るのを避け、山裾に沿って鉄橋を曲げたものらしい。
こういった事例は、全国でもいくつかあるそうだ。





 この吉井川は古くから高瀬舟による海運が開けたところでもある。
流域にある4世紀末の古墳からは、舟形土製品が出土している。
高瀬舟は、全長が20m、巾2m位の舟底が平らで、舳先が高くせり上がり、中央に
帆柱が立った船のことで、浅瀬でも運行が出来る構造となっていた。



 室町時代には、上流の林野や津山あたりまでの舟便が有り、馬に換算すると40
頭分もの荷を積んで上り下りしていたと言う記録が残されている。
下りが一~二日、上りで三~四日、上り下りすると一週間程度で有ったと言う。



 『作州和計河にてタカセ舟を見ておもへらく、百川皆舟を通すべしと、』
(吉井川は古くは、周匝川、和気川などいろいろな名前が有ったらしい)
江戸時代初期吉井川で高瀬舟を見て大いに驚いた角倉了以は、京都の嵯峨野
に帰って川浚えを始めたと言う。
(「岡山紀行今昔」富岡敬之 昭和55年・山陽新聞社)(続)

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謎の熊山遺跡 (JR乗り潰し・山陽本線)

2016-03-18 | Weblog
 列車は和気辺りでは見え隠れする金剛川に沿いながら進み、やがてそれが吉
井川の本流に合流するとここからは暫くその堤防下をのんびりと進む。
やがて左手には次第に山塊が近付いてくる。





 標高508mの熊山で、吉井川の東岸に位置する備前の国の最高峰だ。
古代吉備の国の、東の隅(くま)にあることからこのように呼ばれている。
山頂までは道幅は広くないが舗装された道路が整備されていて、車ならここ熊山駅
側からも、南麓の赤穂線・香登駅側からも登ることが出来る。

 香登側から登れば途中、アジサイ寺として知られる福生寺が中腹にある。
またハイキングコースもこのルートのほか、吉井川が流れる西麓からもあり、歩いて
登る登山道が幾筋も整備されている。





 ここは山頂近くにある「石積み熊山遺跡」が知られている。
この流紋岩の石積遺構は、日本のピラミッドだ、墳墓だ、宗教儀式の施設だなどと、
謎の建造物として議論を呼んだ時期も有った。
しかし、熊山周辺にはその昔から山岳宗教の寺院の存在が知られていたことなど
から、今日では奈良時代前期に造立された仏塔の一つである方形壇塔との説が
有力のようだ。
これと同様なものは、東アジアから東南アジアにかけても分布が見られると言う。





 付近では現在までに33ヵ所にも及ぶ石積遺構が確認されているが、それらは全
て築造時期が異なるらしい。
今日残るものは崩れて原型をとどめないものが多い中、この形が確認できる最大
の一基が国の重要文化に指定されている。(続)

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片鉄ロマン街道(JR乗り潰し・山陽本線)

2016-03-16 | Weblog
 和気駅を出るとすぐに右手に、鉄道の廃線跡が見えて来る。
これは旧片上鉄道の廃線跡で、瀬戸内海に面した備前市の片上から内陸部の柵
原鉱山を結ぶ、同和鉱業が経営する私鉄であった。



 明治期以降に開発された柵原鉱山は、東洋一の硫化鉄鉱として高い評価を得て
栄え、三石地区の耐火煉瓦と共に工業県としての岡山発展の原動力となってきた。
その鉱山で産出される鉱石の運搬を担ったのがこの鉄道で、それまでの吉井川の
高瀬舟に変る交通として主役の座を取って代わり、通勤や通学の足としても利用さ
れていた。



 平成3年に廃止になった線路跡は、いま「片鉄ロマン街道」と言う総延長34Kmの
自転車道として復活している。
 沿道は吉井川とは付かず離れずの関係で、その清流や四季が織りなす山々の
装いを楽しみながら進むことが出来る。
途中にはトンネルや踏み切り、当時使われたプラットホームや駅舎のほか、道端
の何でも無いところに信号機、距離標なども残されていて、当時の面影を今に伝
えている。



 当時の終点であった柵原の一つ手前の吉ケ原(きちがはら)駅は、鉄道が廃止に
なった後も残され、維持管理が行われ鉱山跡地に整備された「柵原ふれあい鉱山
公園」の中心施設となっていて、ここには「鉱山資料館」も併設されている。
加えてこのほどこの駅から500mほど終点寄りまで線路が復元され、新しい駅・幸
福柵原駅が新設された。





 ここには当時使われていた車両が、11両も保存されている。
その内の8両は動態保存されていて、これらの駅間などで、毎月第一日曜日には
展示運転が行われる。(続)



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和気の清麻呂公(JR乗り潰し・山陽本線)

2016-03-14 | Weblog


 和気は、和気清麻呂公ゆかりの地である。
駅に到着する少し前、右手線路際に建つ、記念碑は車窓からも見ることが出来る。
清麻呂公生誕の地、和気氏発祥の地とされる当地には、和気神社があり、清麻呂
公や姉の広虫媛などが合祀されている。



 公を有名にしたのは、皇位継承をめぐる道鏡事件だ。
次の皇位に僧道鏡をとの託宣の真偽を確認するため、宇佐八幡宮に赴く公。
それを阻止せんとする道鏡一味。
この時、公を災難から守ったのが「三百頭の猪」だった。



 これにより皇統の純粋性は守られたが、道鏡の逆鱗に触れ大隅の国に流罪となっ
てしまった。その後許されると自ら望んで備前・美作の国造となり、更に桓武天皇の
時代に国政に関わり、長岡京の造営や新しい都・平安京への遷都を建言したことな
どが知られている。



 公が今尚地元で愛されるのは、中央で昇進し権力を得ても、出身地への心配り
を忘れなかったことであろうか。
死後遺言で、私墾田を百町、救田として寄付したと伝えられている。



 そんな逸話からここ和気神社は公を祀り、公の災難を救った猪を厄除け・開運の
霊猪としての信仰が連綿と続いている。
絵馬殿には、猪のはく製や置物などを多数展示し、また境内の拝殿前と随身門前
には、狛犬ならぬ珍しい「狛猪」を安置し崇めている。

 神社の外苑は、芳嵐園と名付けられた公園になっていて、サクラやフジ、モミジの
名所としても知られている。



 また、和気には全国トップブランドのこいのぼりメーカーが立地し、そのシェアは
およそ3割を誇りコンビニなどで見かけるミニこいのぼりは、何とそのシェア95%だ
と言い、和気の隠れた名産となっている。(続)

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田倉牛神社(JR乗り潰し・山陽本線)

2016-03-11 | Weblog
 吉永にはもう一つ忘れてはならない場所が有る。
山陽本線の列車が吉永駅に到着する少し手前(2キロくらい)、車窓右手の山裾に
小さな鳥居を目にすることが出来る。
普段はまず人の姿を目にすることもない神社の境内だが、この日ばかりはお参り
の人々で狭い境内が賑わいを見せる。



 毎年正月5日に恒例の「初大祭」が開かれる「田倉牛神社(たくらうしがみしゃ)」
で、地域では「牛神さま」として親しまれているところだ。
 ここには一般の神社に有るような本殿とか拝殿と言われる建物はなく、お参りの
人々はご神体の石造りの牛が鎮座する神座と言われるところに向かい願をかける
のであるが、その参拝方法が珍しい。



 参拝・祈願する人はまずお供え用の牛馬像を用意し、それをご神体の鎮座する
牛塚(神座)に奉納して祈願する。
この時、牛塚から奉納され既に神性が宿っているとされる牛馬像を一体お借りし
て持ち帰り、自身の身の回りでお祀りする。



そうして、大願成就したときや息災で迎えられたお正月などにはお礼参りをするの
だが、この折には、持ち帰った牛馬像とお礼として新たな牛馬像を用意して奉納を
すると言うものである。





 このようにお礼は「倍返し」するわけであるから、神座に積み上げられる牛馬像は
年々増え、今ではその数30万体とも言われている。
元々は農耕に使う牛馬の病気平癒を願う行事が、一般に伝わり、商売繁盛、五穀
豊穣、家内安全、結婚や就職、入学の願掛けへと広がったものとされている。(続)



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八塔寺ふるさと村(JR乗り潰し・山陽本線)

2016-03-09 | Weblog
 標高400m余りの地に広がる「八塔寺ふるさと村」は、備前、美作、播磨の国境
付近に位置し山裾に茅葺の農家や山寺が点在し段々畑が残るのどかな日本の
原風景ともいえる景観の地である。



 奈良時代に聖武天皇の勅願により僧道鏡が開創した八塔寺は、10の三重塔、
7つの御堂、72の僧坊が立ち並ぶ壮大な山岳道場であったと言う。
かつては「西の高野山」と言われたほどの聖地もその後の乱世に入ると度々の兵
火で焼かれ、再建もされることなく次第にその勢力は衰えていった。
廃寺となっていた寺が再興されたのは、江戸時代になってからだと言う。





 こうして山深い里に忘れられたように取り残され村は、今では戸数13戸ほどの集
落である。1974年岡山県はこの地区を県下で最初の「ふるさと村」に指定した。



 これにより整備が進み、江戸時代の農家の面影を残す民家を復元した「民族資
料館」は、入館無料で一般公開されていて、ここでは当時の生活用品や農機具な
どを見ることが出来る。
茅葺屋根の農家を改装した宿泊施設「国際交流ヴィラ」は、当初は外国人専用の
宿泊施設であったが、近年では日本人客も受け入れている。



 山裾には八塔寺や高顕寺などの古寺、小川のせせらぎを聞く道縁には水車小屋
などが点在する山里の佇まいは故郷の風景そのものだ。こんな長閑の地をのんび
りと歩めば、まるでタイムスリップしたような思いにさせられる。

 ここは「黒い雨」、「八つ墓村」、「火垂るの墓」など、数々の映画やテレビドラマの
ロケ地としても使われている。(続)



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