簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

軍艦とラムネ(海上自衛隊呉基地見学記)

2019-08-30 | Weblog

 呉のドッグで建造された「戦艦大和」には、ラムネの製造機が積み込まれ
ていたという。(NHK歴史秘話ヒストリア 2019/3)
近頃ではこのラムネはなかなか目にすることが出来ないが、時々観光地など
では、その土地ならではの物を、店先で冷やしているのを目にする事もある。





 ガラス製の胴の一部が絞られた瓶に詰められていて、炭酸ガスで押し上げ
られたビー玉が栓の役割を果たしている。
飲むときは専用の栓抜きで、ビー玉を押し下げるのだが、この時下手をする
と多くが吹きこぼれてしまうので、すかさず口でそれを押さえる技術のいる
不思議な飲み物である。海軍の最新鋭の軍艦の中では、このラムネが重宝さ
れたと言うからその庶民感覚が面白い。





 鹿児島沖で沈没した「戦艦大和」は、戦後何度も海底探査が行われ、今日
ではその沈没地点が特定されている。艦尾のスクリューや艦首の菊の紋章等
が発見され、それらの大きさから「戦艦大和」のものと確認された。
そして多くの部品等は海底から収集し回収されてきた。
また水中カメラで海底の様子を撮影した、動画も作られているようだ。





 どういうわけか「戦艦大和」である。
本来なら戦艦の「大和」であり「武蔵」であり「長門」などで有るのだが、
どういうわけか戦艦「大和」ではなく、やはり「戦艦大和」でないとしっく
りこない。
戦争を美化するつもりは毛頭無いし、二度と起こして欲しくないとの思いは
万人同じだと思うが、日本人の心根には何かしら、この「戦艦大和」には捨
てがたい憧憬が有るように思えて成らない。(続)

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戦艦大和(海上自衛隊呉基地見学記)

2019-08-28 | Weblog

 昭和16(1941)年12月8日、日本は真珠湾を攻撃し太平洋戦争に突入した。
その開戦直後、呉のドッグで極秘裏のプロジェクトで建造された「戦艦大和」が
就役した。初陣は半年後で、アメリカを打ち崩し、戦争を早期に終結したいとの
思惑を持ったミッドウエー島への侵攻であった。

 「大和」には高度な給排水の技術が搭載されていた。
一部の船体が打ち抜かれ、海水が浸水しても、反対側に即座に給水する事でバラ
ンスを保つ技術らしく、「大和」が浮沈艦と言われた所以である。







 しかしそんな艦もその4年後の昭和20(1945)年4月7日、沖縄での特攻作戦
に向かう途中、米艦載機動部隊の300機にも及ぶ猛烈な攻撃を受ける事になる。
戦いの開始から凡そ2時間、不沈と言われた「戦艦大和」は、鹿児島の坊の岬沖
で沈没、3,300名以上の乗組員が艦と運命を共にしている。

 時を同じくして呉の町も、アメリカ軍の猛烈な反撃を受けることになる。
16万発とも言われる焼夷弾に見舞われた町は、火の海と化し、東洋一と謳われた
軍港は日本海軍の墓場となってしまう。犠牲者は2,000人にも及んだという。
やがて広島・長崎に原爆が投下され戦争はようやく終結を向かえることになる。







 戦後になってこの地にはアメリカの大手造船会社が進出し、嘗て例を見ない
3万8千トンと言う巨大なタンカーの建造が、アメリカの溶接技術により進めら
れることになる。昭和27(1952)年に進水した新造船は「ペトロクレ(石油・
呉)」と名付けられた。
絶望に打ちひしがれた呉の町を救ったのは、皮肉にも「戦艦大和」で培われた
工数管理グラフや、ブロック工法と言う造船技術であった。(続)



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極秘プロジェクト(海上自衛隊呉基地見学記)

2019-08-26 | Weblog

 「大和ミュージアム」に入館して初めて目にするのが、広い吹き抜
けの「大和のひろば」に置かれた「10分の1戦艦大和」の模型で全長
は26.3mも有る。

 思わず「ワー凄い」と声が漏れてしまう程の迫力で迫ってくる。
ひろばを取り囲む壁際には、見学用のデッキが設けられていて、模型
の全体像を上から俯瞰することも出来るので、その全貌が良く解る。







 世界でも最大級の規模を誇った「戦艦大和」は、昭和16(1941)年、
この地で極秘裏のプロジェクトにより建造された。
当時既に造船の町として知られた呉の町には、数千人にも及ぶ造船技
術者が全国から参集していて、プロジェクトにはその中からも選りす
ぐられた1000人ほどの職人が集められたという。

 海軍は建造期間を4年10ヶ月と言う、無茶な要求を突きつけてきた。
1930年代頃よりアメリカとの戦争がより現実味を帯び、強力な海軍の
必要性に迫れていたから物量で劣る日本は一点豪華主義をとり、最強
の軍艦造りを目指すことになったのだ。書かれた設計図は3万枚にも及
び、314mの大屋根に覆われたドッグが用意されたという。







 造船技術が発展途上にあるとは言え、従来の一つずつ積み上げていく
工法では、工期が嵩んでしまうので、ここではブロック工法と言う方式
が取られたという。
そこには一人の天才技術者・西島亮二の姿が伝えられている。

 広大なドッグを機能的に分割した上でそこを各々の基地とし、船体
を幾つもの各パーツに分け、同時進行的に製造し、最後にそれらを合
体し完成させるやり方らしい。
その結果、当初難航が予想された工期もこれにより半年近くも短縮し
て完成させたと言われている。(続)



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軍港・呉(海上自衛隊呉基地見学記)

2019-08-23 | Weblog

 明治を迎える迄の呉の町は、鰯漁の舟が浮かぶ小さな漁村で、瀬戸内の島々
に包み込むように隠された波穏やかな湊が有り、人口も少なく背後に山を控え
た広大な荒れ地の広がる寒村であったと言う。





 時の新政府は、欧米列強に対峙する国力を求め、富国強兵を進める中で鎮守
府の設置を検討することになる。
鎮守府とは、海軍の基地を維持管理する場所で、近代海軍にはなくてはならな
い最高の機関である。当時は長崎がその有力な候補地であったようだ。
しかし外洋に程近いその地では防御上問題があるとされ、そこで俄に注目され
たのが、瀬戸内海である。





 3000もの島々が浮かぶ内海は、海の迷路のようで、守るにも攻めるにも易い
と言われたからだ。多くの場所が検討された結果その中から湊を瀬戸内の島々
が包み隠す呉が選ばれた。広大な空き地があることも決め手となったようだ。

 そしてこの地には鎮守府が置かれ、引き続き海軍工廠が置かれると東洋一の
軍港と称されるほどに町が発展することになる。人口は何時しか40万人を超え、
県下では最初の電車が走り、造船場には全国から有能な職人が集まり町は活気
付いていく。





 やがてこの地では、密かに巨大なプロジェクトが動き始めることになる。
圧倒的な軍事力を要する仮想敵国アメリカと対峙するために、海洋国防を進め
ることとし、「戦艦大和」建造計画を昭和12(1937)年に始めることになる。
それがこの町を、強いては日本国をあの悲惨な太平洋戦争に突き進ませた序章
と成ることを、この時点では多くの人々は想定もしてはいなかったのであろう。(続)



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大和ミュージアム(海上自衛隊呉基地見学記)

2019-08-21 | Weblog


 「大和ミュージアム」に入館すると左手にショップが有り、右手のチケット
売り場の前を通り抜け、右奥の左手に広がる常設展示コーナーに進む。
そこで最初に目にするのが、館の最大の売りである「10分の1 戦艦大和」の
展示だ。2階と3階を抜いた吹き抜けの展示スペースの中央に、威風堂々と据
えられている。



 模型ながら全長26.3mはかなりでかい。
実物はこの十倍と言う「戦艦大和の」大きさは、流石に大きすぎてなかなか実
感としては掴めないが、こんな巨大な鉄の塊の軍艦が海に浮かぶことが何とも
不思議に思えてくる。



 「戦艦大和」の設計図は殆ど現存していないという。
その為この模型は、様々な資料や証言に基づいて造られたそうで、今でも新た
な発見があるとそのたびに修正を加え、精度を上げているのだそうだ。
これまでにも何十回と修正を重ねて来たという。



 館内にはそのほかにも、呉の町の歴史を紹介するコーナーや、零式艦上戦闘
機62型や特殊潜航艇「海龍」、あの人間魚雷「回天」、戦艦「陸奥」の主砲身、
潜水調査船「しんかい」等の実物展示も行われている。



 3階は「船をつくる技術」に関する展示で、子供にも分りやすく船の浮く
仕組みや、プロペラの原理などが学べる。
ここでは操船シミュレーションの出来る体験型の展示室も用意されているの
でこちらは子供連れの家族客に大変な人気だという。
オリジナルグッズを販売するショップも併設され、特別展示室では折に触れ
企画展なども開催されるという。
こんなことも来館者増に結びついているようだ。(続)



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呉市海事歴史科学館(海上自衛隊呉基地見学記)

2019-08-19 | Weblog

 正式には「呉市海事歴史科学館」と言う、お堅い名称である事を当地に来て
初めて知った。JR呉駅からだと大きな商業施設を通り抜け、歩いて5分ほど
の所にあるこの館は、一般的には「大和ミュージアム」として知られている。
と言うよりも、むしろこの愛称の方が定着し知名度が高い。
呉潜水艦訓練センター、潜水艦の体験の後はこの施設の見学である。





 開館は平成17(2005)年の4月23日と言う。
ここ呉市には嘗て海軍鎮守府や海軍工廠が置かれ、それにより発展を見た造船
や鉄鋼の重工業が町を支えてきた。それは明治以降の日本の歴史そのもので、
そうした先人達の活躍に触れながら、歴史と平和の大切さを深く認識する場と
して、呉らしさを表現した博物館をと言うことで開館したと言われている。





 開館以来の来館者は既に一千万人を越えていて、来館者の年齢幅が非常に広
いのがこの館の特徴だと言う。
これは「戦争」という重いテーマを掲げる館としては、特異な存在らしい。
何らかの形で軍艦などの建造に関わったと言う高齢者から、修学旅行や研修旅
行の児童・生徒・学生や、家族連れやカップルなど多岐にわたるそうで、近頃
では外国人も多いのだそうだ。
中には嘗て乗艦していたと言う貴重な体験を持った方も見かけるという。





 オレンジ色のタイル張りのエントランスで来館者を迎えるのは、ギリシア神話
に登場する海神ポセイドン(ネプチューン)像だ。
大海を支配し全大陸に強い影響力を持つという、海と地震の神様である。
また近くには「戦艦陸奥」の主砲身や、潜水調査船「しんかい」など実物が屋外
展示されている。(続)

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「おやしお型」と「そうりゅう型」(海上自衛隊呉基地見学記)

2019-08-16 | Weblog


 潜水艦のことはよく知らないが、幾つかの「型」に分類されるのだそうだ。
その代表的なものが、「おやしお型」と「そうりゅう型」で、大きな違いは
エンジンにあるらしい。


 
 「おやしお型」はディーゼル・エンジンで発電し、電気を電池にため込む。
このさい電池が減れば必要な酸素を取り込むため、海面すれすれに管を出す
スノーケルという作業を必要とする。
しかしこれは敵方に見付けられる可能性がある。
一方「そうりゆう型」はスターリング・エンジンと言って、非大気依存推進装
置を搭載している。これは液体酸素用のタンクを備えていて、これを使い切ら
ない限りスノーケル時の危険が低減されているという。



 いずれにしても「音を出さない 音との戦い」と同様、潜水艦にとっての
「電気」は生命線だけに、蓄電池を含めこの分野の研究は日進月歩らしい。
これらの技術により潜航期間は3~4週間と大幅に伸びたのだそうだ。



 潜水艦が海に浮かんでいて、その舵が地上から見えるのかはよく知らないが、
素人が潜水艦を見分ける鍵は、船尾の舵を見ると良いらしい。
「おやしお型」の舵は2枚を組み合わせた+型なのに対し、「そうりゅう型」は
4枚のX型なので、海底に沈座したとき舵に傷が付きにくいのだそうだ。
沈座というのは、潜水艦が身を隠すために海底に着地して停まることのようだ。



 更に「おやしお型」は艦橋のみだが、「そうりゅう型」には艦全体が無反
響タイル(水中吸音材・反射材)で覆われている。加えて水中抵抗の低減策
や乱流防止策などが施されているので、相手からは見付けにくくなると言わ
れている。最強の潜水艦と言われる所以である(続)



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艦内の生活(海上自衛隊呉基地見学記)

2019-08-14 | Weblog

 潜水艦が一度その任務に就けば、浮上して海面を見、青い空や星空を眺める
事も滅多にない、長い航海に成るという。
その間「音を出さない、音との戦い」が何ヶ月も続くのだそうだ。
様々な任務中でも、極力音を出さない工夫が求められる。
それだけに潜水艦の行動は孤独で、味方の艦とも通信を控えるほどだという。





 そんな艦内では休憩時間でさえ、音との戦いを休むことが許されないのだ。
当然の事ながら、スマホも携帯もない生活で、それどころか家族や友人との連
絡もままならない。
深海では急遽帰ると言うわけにも行かず、当然親の死に目にも会えないという。





 隊内では上司の命令は絶対であろう。上下関係のある男達が70名余り乗り込
んで、狭い空間で四六時中顔を突き合わす生活の軋轢は想像に余りある。
しかも艦内は、独特な匂いがして、生活環境は決して良いとは言えないのだ。

 機械の発する熱や油の匂いに混じり、男の体臭や食事等の生活臭に、時には
糞便の匂いが入り交じる不思議な匂いだ、と案内の隊員が面白おかしく語って
聞かせてくれたが、このことすら心穏やかに任務をこなすには障害になるほど
だという。





 勿論空調が無いわけでは無いし、トイレもタンクが満杯になれば高圧をかけ
て海中に排出されると言うが、電気を消費するものは極力減らさないといけな
いらしい。なにしろ艦内の電気が無くなれば(バッテリーが切れれば)、隊員
の命に関わる。そうなれば浮上しないわけにはいかない。
これが戦時なら敵に白旗を掲げることになる。
それだけ隊員には強固な体力と合わせ、強靱な精神力が求められているのだ。(続)

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潜水艦・みちしお(海上自衛隊呉基地見学記)

2019-08-12 | Weblog


 「潜水艦みちしお」は「おやしお」型の二番艦として、平成11年3月に就役
した海上自衛隊最大の潜水艦である。現在では呉基地に定係される練習潜水艦
として海上防衛の中核を担う隊員の教育訓練に充てられている。
今回の見学会のメインイベントは、同艦の艦内見学である。



 隊員食堂から三度バスに乗り、渡橋を渡り潜水艦桟橋でバスを降りる。
目の前には、黒い巨体を半分ほど浮上させ繋留されている「潜水艦みちしお」
が居る。隊員達に挙手の礼で出迎えられるとさすがに気分は高揚する。



 艦内は当然撮影も録音も禁止だ。
カメラも携帯もスマホも、乗艦前に全て預け、その後桟橋を渡り上甲板に上が
ることになる。開けられたハッチから、隊員の手を借りながら昇降筒の垂直梯
子を慎重に下りる。是が結構難しい。
おっかなびっくりで背を丸めて降りれば背が当たってしまう。
背筋を伸ばし膝がステップに当たらないように素早く下降するにはやはり慣れ
が必要のようだ。



 艦内は狭い。
周りは色々の形状をしたハンドルやコック、メーター類や計器などが至る所に
有り、それに配管や配線が剥き出しで絡まっている姿は、訓練センターで見た
ものと同じだ。通路も狭く、足下には歩く音が響かないようにゴム製のマット
が敷き詰められているようだ。



 潜水艦では絶えず「音を出さない、音との戦い」を強いられるという。
任務中は言うに及ばず、休憩中のトイレやシャワーも音を立てないことが大原
則のようだ。当然敵艦も音を拾うことで、敵艦の位置を把握しているだけに、
音の発生はその艦にとっては、致命的なダメージを与える事になるからだ。(続)





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隊員食堂(海上自衛隊呉基地見学記)

2019-08-09 | Weblog

 旧呉鎮守府の庁舎を見学した後は、再びバスに乗り込んで施設内の隊員食堂
に移動した。ここでは隊員達に混じり、隊員の昼食を体験する。
訪れたこの日は、「海上自衛隊食育の日」であった。
これがなにを意味しているのかは良く解らないが、入口にこの日の食事見本が
置かれている。





 この日のメイン料理はサケの塩焼きで、それに汁物として大椀に牡蠣の土手
鍋風汁が添えられている。これは広島県を代表する特産物を使った料理で、集
団給食用にアレンジしたものだとの説明が書かれていた。更にマカロニサラダ
や和え物など小鉢が三品付いて、それに白飯で結構なボリュームである。





 食堂には長いテーブルが数列整然と並び、それに向かい合わせて椅子が配置
されている。ざっと数えても優に百席は越える広さだ。
正面奥が厨房で、その前が配膳カウンターとなっている。
食堂はセルフサービスで、入口を入ると大きなコンテナに入れられた炊きたて
の白飯が用意されている。ここでは好きなだけお椀に盛ることが出来き、旺盛
な隊員達の胃袋を満たすに充分な量が確保されているようだ。





 聞いた話なので真意の程は定かではないが、潜水艦に乗艦すると24時間体制
の勤務が続き、その為一日の食事を四度摂る習慣があったらしいが、艦内での
運動量が少ないことから、健康管理上今では三度に変更されていると言う。
いずれにしても過酷な勤務を強いられる、海軍の潜水艦の乗艦やその訓練では、
食事が数少ない楽しみの一つであるらしい。
その性か、陸海空の自衛隊の中でも海自の食料費は一番高いのだそうだ。(続)



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