簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

旅の宿 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-05-30 | Weblog
 宿場町と言うだけに、そこには必ず多くの旅篭や木賃宿があった。
少ない宿場で二三十軒位、大きいと言われた宮宿には、何と二四八軒
もの旅篭があった。全てが何時も満室ではなかろうが、当時は思う以
上に、庶民も旅を楽しんでいたのであろう。

 宿は今日のように一軒で大人数を収容できないので、軒数が多いの
も当たり前かも知れないが、それでもこれだけの需要があった事には
改めて驚かされる。





 当時の旅は早立ちが基本で、日の出と共に歩き出し、陽が落ちる前に
は目的の宿場に到着し、宿を捜すのが大原則であったようだ。
宿場に着くと旅人は、名産名物に思いを馳せ、飯盛り女、茶汲み女に仄
かな期待を抱き、客引きの留め女に袖を引かれ、やり取りを楽しみなが
ら宿を選んでいた。





 今日旧街道を歩いてみると、これほど多く存在していた旅篭が、意外
なほど残されていないことに驚かされる。
理由は色々考えられるが、多くは戦災や戦後の再開発の洗礼を受けて失
われてしまったようだ。勿論それだけの理由でもなく、後継者がいない、
或は転廃業で消滅する、又建物そのものの耐用年数など、様々な要因で
今日まで残る物は僅かになっている。





 一般的に多くの場合、旧街道筋の宿場町は明治に入ると街道筋が廃れ
るとして鉄道の敷設を拒んできた。その為鉄道は離れた場所に敷設され、
それに伴い繁華街は旧街道筋からは離れ、鉄道の駅前に移っていたりし、
そこに現在の旅篭が立地するようになる。

 街道歩きでは、旧街道筋に泊まれる宿の少なさが一番の悩みの種だ。
一夜の宿が、街道筋からは大きく外れた場所だと大変だ。バスでも有れ
ば良いが、一日歩き続けた身が、更に宿に向けて歩くのは結構辛い。(続)


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国境伝説(JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-05-27 | Weblog
 本四備讃線の瀬戸大橋は、最初のつり橋「下津井瀬戸大橋」を渡ると
すぐに岡山県境を超え、香川県に入る。
意外に思えるが、ここに架かる各大橋のほとんどが香川県に属している。
そんな国境には、こんな面白い言い伝えが残されている。



 昔から、何時の時代でもその国の境は、争いの種に成っていた。
川でも有れば判りやすいし、堅い地面の上なら棒切れで線を引き、柵を
回らし、或は土塁を築き「ここから内は我が領土なり」と、宣言すれば
言った者勝ちで、時に戦を仕掛け力ずくでそれを押し出したりもする。



 備前と讃岐の国は、瀬戸内海を挟んで向かい合っていて、昔からその
境は曖昧模糊として生臭く、きな臭い話が付きまとっていた。
土の上なら兎も角、これが海の上ともなると中々線引きは難しく、その
境は明確に判別できず、何れのものなのかも判らず一向に埒が明かない。



 「そろそろ、決着をつける時ぞ・・」
 「オゥヨ! して、どうやってするのじゃ」
 「樽じゃ、樽を流すのじゃ」



 こんな会話が有ったかどうかは知らないが、両藩は樽を持って瀬戸内
海に舟でこぎ出し、お互いが立会いのもと樽を流し国境を明らかにしよ
うとした。
 事前の試みで、四国寄りを流れると知っていた児島に住む知恵者の名
主の企みで、この「樽流し」を提案、樽の流れた軌跡で国の境を決めよ
うと呼びかけたのだ。
 ところがどうしたことか、その日に限って樽は、まるで備前の海岸線
に沿うように流れてしまったのだ。



 「エッ、マジデー、ウッソー」、絶句する備前。
「潮の流れは時として変わるものよ」、ほくそ笑む讃岐。
「ソンナァー・・・・」、落胆する名主。

 こうして備前と讃岐の国境は決められたそうな。メデタシ、メデタシ。
(JR乗潰しの旅 本四備讃線 完)





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由加さん(JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-05-25 | Weblog


 この金比羅往来の脇道の途中には、備前第一の霊場「由加さん」が鎮
座している。人々は先ずここに立寄りお参りをし、災難から身を守り、
道中の交通安全をお願いする。
その後田の口湊から瀬戸内海を渡り「金比羅さん」に向かうのである。



 ここ備前地域では、特に「由加さん」と讃岐の「金刀比さん」との
「両参り」が、300年以上も前から知られている。
両者とも海の神様でもあり、漁業関係者の信仰も篤いという。
両社に参ればより多くのご利益が頂けると、この「両参り」の風習も瞬
く間に広まった。



 ここは標高274mの由加山(正式には瑜伽山)の丘陵地で、「由加山
蓮台寺」と「由加神社本宮」が境内を接して建っていて、この寺と神社
は「由加さん」と総称されている。
是まで2000年以上の歴史を秘めた神仏混淆の霊地として、深い信仰を集
めてきて、こうした背景により、備前にも金毘羅往来が整備されている。



 山の中腹からは、三十三や六十一の厄除けの石段が続く表参道が残り、
沿道には茶店や古くからの名物「あんころ餅」を売る店も有り、昔の門
前町の風情を色濃く残している。
 境内には備前焼の大鳥居や、備前藩主が奉納した備前焼の狛犬(厄除
け獅子)があり、県重文の蓮台寺本坊や客殿などの見所も多い。



 この「由加さん」は、今ではお正月の初詣客の数が、吉備津神社や最
上稲荷と並んで県内でもトップクラスである。
しかし古来からの、「金比羅さん」との「両参り」の風習をどれだけの
人が知っているのか・・・、参拝の折、いつも思ってしまう。(続)





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金比羅往来(JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-05-23 | Weblog


 「お伊勢参り」の後、「金比羅さん」に詣でる「両参り」のルートと
しての金毘羅往来は江戸中期の頃整備された。
大阪を経由して瀬戸内海を渡り、四国の丸亀に上陸する海上のルートと、
西国街道を西進し岡山に到り、そこから四国を目指す陸上ルートの二通
りが知られていた。



 岡山の城下からは、栄町(現在の表町)を起点に、吉備津回りと大元
回りの二ルートが有り、是は早島で合流し、その先で茶屋町に到る。
この茶屋町は、休憩場所のお茶屋が有った事が地名の由来となっている。



 更に藤戸を経て峠を越えると、道は再び分かれるがそのまま南下して
下津井湊に到るのが本来の金毘羅往来である。
 藤戸の先で分かれるもう一つの道は、やや南東に進路を変え、途中由
加山に立ち寄り田の口湊に到るルートだ。
この道は「由加さん」と「金比羅さん」の「両参り」のルートとして知
られていた。



 この流行により海辺に良港を擁した下津井近辺の地は、多くの参拝者
で賑わうようになり、その代表格が、田の口湊であり下津井湊であった。
取分け下津井は古くからの漁港であると同時に、北前船などの風待ち・
潮待ちの湊として知られていたが、この流れに乗ってなお一層の繁栄を
みるようになる。



 諸国から「両参り」参詣者を乗せた舟の多くは、田の口湊に賑わいを
もたらしたが、四国渡海にとっては、対岸の丸亀まで四里(約16㎞)と
至近の下津井湊は利便性が抜きん出ていて、その賑わいは、明治末に宇
高連絡線が開通するまで続く事になる。(続)


           (写真:県内に残る金比羅往来の道標や常夜灯)




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両参りの流行   (JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-05-20 | Weblog


 江戸時代、一生に一度の念願が叶い「お伊勢さん」にお参りする。
折角だからその後、ついでに奈良や京都に立ち寄り古い都を見物する。
更に足を延ばし本願の四国の「金比羅さん」にお参りする。
 
 これは、当時の人々にとっては、夢であり大きな願でもあった。
この風習を「両参り」と言って、大層の流行を見た時期があった。



 ただ「お伊勢さん」の後に立寄るのは、何も「金比羅さん」だけとは
限らなかったようだ。
 例えば帰路を東海道にとるなら近江の「多賀大社」や、尾張の「熱田
神宮」にお参りする。西国街道なら「由加さん」や更に足を延ばし「出
雲大社」など、中山道に向うなら信濃の「善光寺」に立寄る等だ。



 あの十返舎一九の「東海道中膝栗毛」で描かれる、弥次さん北さんも
旅の主たる目的は「お伊勢参り」である。
東海道で珍道中を繰返し、途中の社寺には見向きもしなかった二人でも、
日本総鎮守であ有るここでは御裳濯川で身を清める殊勝さを見せている。

 参拝を済ませ、大和街道で奈良に立ち寄り宇治へ、さらに伏見に出て
伏見稲荷に詣で「両参り」を果たし、その後は京都の見物である。



 こうして所謂「両参り」と言われる風習が庶民の間に広がりだすと、
わざわざ遠くの「お伊勢さん」まで出かけなくとも(行けなくても)、
身近なところで「両参り」を叶えようとする動きも出始めてくる。



 例えば長野の善光寺には、別所温泉の北向観音との両参りがある。
島根の出雲大社(大黒様)なら、美保神社(恵比寿様)等がそれだ。
岡山までは、「由加さん」と、四国の「金比羅さん」もある。
これらの習慣は、今日でも連綿と続けられているようだ。(続)


(写真:長野・善光寺と別所温泉・北向き観音)




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お伊勢参り (JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-05-18 | Weblog


 江戸時代の庶民にとっては、誰もが一生に一度はお参りしたいのが、
「お伊勢さん」である。
当時は、毎日40㎞程を、自分の足で歩き続ける旅である。行程は1ケ月
程度で、長くなると3ケ月も掛けてと言うのが当たり前にあったらしい。
この間の旅費は馬鹿にはならず、おいそれとは賄えない庶民にとっては
夢のような話しでもあった。



 そんな夢のような話しを現実にしたのが、「伊勢講」という組織だ。
隣組等でチーム(講)を組んで、貧しい中からお金を出し合い積立て、
毎年代表者をクジ等で決め、お参りして貰い、残りの人は代参をお願
いするという仕組みだ。
この「伊勢講」、既に室町時代には結成された記録があるらしい。



 そんな伊勢参りは、参拝を世話する神職「伊勢御師」に委ねられる。
まず二見浦での禊ぎから始まり、その後伊勢に赴き外宮へ、続いて内宮
を参拝し、両宮の参拝を済ませる。そして最後に、朝熊岳に登り金剛證
寺へのお礼参りで一連の「お伊勢さん参り」が終わる。
この間の宿泊場所は御師の家で、豪華な食事も提供されていたらしい。



 その後、この際だから、折角旅に出たのだから、と彼方此方観光もし
て帰りたいとの思いを持つ者も多かったらしい。
しかし江戸時代、物見遊山の旅は幕府により厳しく禁じられていた。
その為庶民は、各地の他の社寺への参拝を続けながら、観光地にも立寄
る事でカモフラージュするが、是は幕府も黙認していたようだ。



 整備された当初の街道は、幕府にとっては、軍事的な道であった。
が内政が安定すれば、幕府の本音のところは人々の街道往来を増やしたい。
人が動けば、文化交流が進み、経済効果も見込めたからだ。

 こうして庶民の「お伊勢参り」の後に、他の社寺にお参りする「両参り」
が流行りだした。その主な対象が、四国の「金比羅さん」である。(続)


                   (写真:お伊勢さんの門前町)




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おかやま旬の魚総選挙(JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-05-16 | Weblog

岡山県は瀬戸内海に面している。
地図を見ると玉野市沖合に浮かぶ直島諸島や小豆島を初めとした島々は、
殆どが対岸の香川県に属し、瀬戸内海上に引かれた県境は、より岡山側
沿岸近くにある。



 そのせいなのか、岡山県の漁業は振るわず、「海面漁業」・「海面養
殖業」での産出額は、海のない県を除けば全国でも最下位クラスの35位
である。「海面漁業」の漁獲量で見ても更に低く39位だ。



 県内生産の内訳は、牡蠣や海苔等の養殖、「海面養殖業」が圧倒的で
全体の84%を占めている。海で魚や貝をとる「海面漁業」は僅かに15%
程度で、残りは鮒や鮎、鰻をとる「内面漁業」と、鱒類や鰻などの「内
面養殖業」だ。



 しかし「内面漁業」を見れば、割合は少ないが生産状況(漁獲量)は、
鮒は全国1位、鰻が2位を誇り、県下に吉井川・旭川・高梁川の三大河
川を有するだけに天然物が多く面目躍如といったところだ。
因みに養殖では、牡蠣が3位、鰻が13位となっている。



 県は昨年、旬の魚をもっと知って貰おうと、「おかやま旬の魚総選挙」
と銘打って、季節毎の「顔となる魚」の総選挙を行った。
ノミネートされた22種類の水産物の中から、季節毎の推し魚を県民に選
んで貰う試みだ。



 結果「春」の魚介類1位は、サワラで、以下マダイ、イカと続いた。
「夏」はマダコ、アユ、ハモの順で、「秋」はチヌ、ママカリ、ワタリ
ガニ、「冬委」はカキ、イイダコ、ヒラメがそれぞれ上位3位までにラ
ンクインした。

 個人的には、大好物の瀬戸内海の穴子が選ばれなかったのが残念だ。
今回の結果を受けた県は、「おかやま旬の魚」として、県の内外にPR
を強化していくという。(続)





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名物に美味いもの有り (JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-05-13 | Weblog
 下津井沖で獲れる「下津井タコ」は、当地の知られた名物である。
代表的なお土産が「干しタコ」であるがその他にも、町中にはタコ料理
自慢の宿泊施設や、リーズナブルに味わえる食事処、老舗のやや高級感
のある専門店等が揃っていて、懐具合に応じて選べるのが嬉しい。





 タコは低カロリーでタウリンが豊富、コレステロールを下げる効果も
あるらしい。刺身、蒸しダコ、甘辛煮、てんぷら、タコ飯、タコしゃぶ、
干しタコなどなど、豊富なメニューが楽しめる。
更にB級グルメで言えば、「たこ塩焼きそば」は、当地の名物だ。

 また、下津井名物で忘れてはならないものに、「磯乃羊羹」がある。
下津井地区では、ただ一つの和菓子屋「磯乃羊羹本舗 田中花正堂」が
作る羊羹だ。店の創業は明治43(1910)年と言う老舗で、構える店舗
は築200年以上らしい。





 風味豊かな国産の青のりと、ミネラル天然水で練り上げた寒天には、
保存料を一切加えず、手作りに拘り一本一本アルミ筒に流し込み、約
一週間かけてゆっくり冷やし固めるという。
 透明感のある鮮やかな緑色をした羊羹は、のりの香りが仄かに生き、
まろやかな甘さと相まって、まさに磯の香りそのので、当地を訪れた
らタコと共に是非味わいたい一品である。





 鷲羽山を控えた風光明媚なこの地区では、映画「釣りバカ日誌18 
ハマちゃんスーさん瀬戸の約束」のロケ地としても知られている。
この防波堤で釣りをする様子がカメラに収められている。

 また、2,017年に公開された映画「ひるね姫」は、監督が偶然立寄
った当地の景観にほれ込み、舞台として当地を描いたことも良く知ら
れている。(続)



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下津井のタコ (JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-05-11 | Weblog


 瀬戸大橋の足元には、田の浦港、吹上港、下津井港などの多くの魚港
が点在する。それらは小さな漁港で、防波堤に守られて、小型の漁船が
犇めくように係留されている。
この雑然とした景観も、瀬戸大橋を借景として眺めれば、それはそれで
美しく、観光を構成する資源の一つにもなっている。



 漁港からは、瀬戸内海の漁場は近く、季節毎に新鮮な様々な魚介類が
水揚げされる。漁場が目の前にあれば、大きな漁船は必要なく、小型の
方が、小回りが利いて良いそうだ。

 ただ県の漁業は、魚種それぞれの漁獲量は極めて少なく、その分種類
が豊富な事が知られている。所謂「少量多種」で、これが最大の特徴だ。
この小さの港と、小さな漁船の群れは、県の漁業の実態を象徴的に物語
っているようだ。



 ここ下津井沖では「下津井タコ」が特に知られている。
タコは年中水揚げされるが、漁の最盛期は11月という。
 瀬戸内海の激しい潮流に揉まれて育つタコは絶品で、特に秋から冬の
「寒タコ」は身が引き締まり、味が凝縮されていると言われている。



 この近辺の地域では、水揚げされたタコを広げて干し、寒風にさらす
「干しタコ」の姿が彼方此方で見られ、冬の風物詩となっている。
形を整え竹串に刺して3~4日ほど天日に干し、半生状態で出荷される。



 お土産屋の等の店先にも、この形のままで並べられることが多い。
食べ方は、水に2時間ほど浸け柔らかくして火にあぶるのが良い。
そのまま食べても良いが、後は好みでマヨネーズや醤油、七味などを付
ければ更に美味しく頂ける。(続)





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町並保存地区 (JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-05-09 | Weblog

 下津井は児島半島南端の古くからの港町である。
昔から、北前船を初めとする諸国の商船や、参勤交代の西国大名の船、
金毘羅往来の船などが発着する「風待ち、塩待ちの湊」として栄えた。
蝦夷地で捕獲されたニシンは、ニシン油をとるため絞られ、不要にな
ったその絞り粕が当地に肥料として持ち込まれていたのだ。



 古くからの湊ではあるが、穏やかな良港として本格的に栄えるのは、
江戸時代も中期以降の事らしい。
この頃になると町にはニシン蔵を擁した商家や廻船問屋が建ち、人々
も集まり、遊郭が軒を並べる繁栄を見るようになる。



 今でもその町並保存地区には、重厚な本瓦葺平入りで、海鼠壁や漆漆
喰塗りの建物が比較的多く残り、町屋や商家、遊郭等が軒を並べた古の
面影を色濃く見せていて、県の町並み保存地区に指定されている。



 そんな町並みで目に付くのは、いくつかの共同井戸の存在である。
湊の繁栄と共に整備され、人々の生活用水として、井戸毎に使用する家
が決められ、厳しい管理が行われ、湊に出入する船にも提供されていた。
人々の生活を支えた井戸は、湊町繁栄の歴史の証として、倉敷市の史跡
の指定を受けている。



 今日に残る商家の代表格が、明治時代の廻船問屋「高松屋」を修理・
復元した「むかし下津井資料館」である。
北前船との交易で莫大な財産を築いた、当時の繁栄を物語る巨大な屋
鋪郡で、その最大の特徴は「通り土間」にある。



 これは建物の中を貫く通路のようなもので、表から裏まで抜けられる
ようになっている。
当時は、建物の奥にニシン蔵が建ち、このすぐ裏まで海が迫っていて、
湊に水揚げされたものが蔵に収まると同時に、ここを通り店先の荷置台
に出されていたという。(続)





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