簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

老舗の料理旅館(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-01-30 | Weblog


 「伊勢両宮常夜燈」の残る四つ辻から、更に旧道を西に進むと突き
当りの行き止まりで、その先で緑の濃い「安永第一公園」に入り込む。
小さな公園であるが、「東海道五十三次 町屋橋跡」の案内板が立つ、
街道筋にあっては歴史的に意義のある場所である。



 植栽の茂る公園の先はフェンスで仕切られ、その下を員弁川(町屋
川)が流れている。
ここは、東海道桑名宿の入口に当たる安永立場の置かれた地であると
同時に、員弁川の川運の船着き場としても栄えた場所である。
街道を行き交う旅人や水夫達の休憩場所として、お茶と安永餅で持て
なしていた。



 公園の手前の左側、大木が茂る緑の中に、「すし清」という店がひっ
そりと建っている。
街道筋の茶店として安政3(1856)年に創業した歴史有る名店で、160年
以上にも渡る今でも川の畔で料理旅館として営業を続けている。



 先ほどの料理旅館「玉喜亭」も藤の花の名所と言うが、ここも玄関前
には樹齢260年の「フジの木」があり、毎年ゴールデンウィーク頃には
満開となり、藤祭りも行われる。
 丁度この時期が「焼きハマグリ」の旬だそうで、「はまぐり懐石」や
「松花堂弁当」等で焼き、蒸し、揚げたりしたものが味わえるらしい。



 当時の立場は休憩する場所で、原則宿泊は許されていなかったから、
これらの店は茶店として料理や名物を提供していたのであろう。
 嘗ての街道筋には旅籠や料理屋があれほど犇めいていたのに、今では
悉く潰れてしまい、こうして残されているのは極めて珍しいことである。(続)





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安永立場と安永餅(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-01-27 | Weblog
 東海道は、矢田立場跡で左折すると旧街道は旧大福村に入って行く。
この先は、真っ直ぐな道が1.5㎞程先の員弁川の土手まで続いている。
暫く行くと西側に日立金属の桑名工場が見えてくる。
昭和の頃迄この辺りには江場の松原と呼ぶ松並木が残っていたらしい。
今はその姿を見ることは無く、工場と住宅が建て込んでいる。



 道なりに進み、旧安永村に入ると西側に、天照大御神を御祭神とする
城南神社がある。境内に建つ鳥居は、伊勢神宮の一の鳥居で、遷宮の折
に下賜されたものらしい。
更に真宗大谷派の晴雲寺があり、その先で国道258号の高架を潜る。



 丁度この辺りに安永立場が有ったという。
先程の矢田の立場から左程進んではいない地だが、余程の山道では無い
限り、休憩の出来る茶店はこのように間隔を問わず置かれていたようだ。
街道沿いには古い家並みが残されていて、面影を今に伝えている。



 ここは桑名名物として知られる「安永餅」発祥の地である。
つい最近まで、餅を提供する「玉喜」という店が有ったらしい。
茶店では、「牛の舌餅」とも言われた、粒あんの入った薄くて細長い焼
き餅が、旅人に人気を博していた。

 しかし餅の販売店は先頃止めたらし。
今は創業以来200年という料理旅館「玉喜亭」として営業を続けていて、
ここは藤の花の名所らしい。



 街道を更に進むと右角の石垣の上に、道標として文政元年に寄進され
た高さが4.3mも有る「伊勢両宮常夜燈」が残されている。
東海道の道標として、また伊勢神宮への祈願を込めて、桑名・岐阜の材
木商により寄進された物だ。



 その脇にあるのは、明治初期頃建てられて道標だ。
正面には「從町屋川中央北桑名郡」と有り、両側面に三重県庁と桑名郡
役所までの距離が彫り込まれている。
郡境と里程を示す物だが、風化が激しいのか、鉄板の補強が痛々しい。(続)





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矢田立場跡(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-01-25 | Weblog
 市立博物館のところで交差点を越える。
その先の、北側にある毘沙門堂の前を吉津屋町方面に向け左折すると、
丁度この付近が京町見附跡だ。
その先が七曲がり見附跡で、城下町の宿場らしく、右折、左折、左折、
右折とめまぐるしく進路を変える。



 教宗寺、光明寺、光徳寺、十念寺、壽量寺等が西側に並ぶ街道を進み、
日進小学校を見る辺りで右折、更に左折して、天武天皇社からその先で
国道1号線を横断すると直ぐに善西寺がある。
これまでに鍛冶町、新町、伝馬町、鍋屋町、矢田町を通り過ぎてきた。



 この辺りには、多くの社寺が立地しているのが地図を見ると良く解る。
岡崎の二十七曲がり程ではないが、この桑名宿でも、ここに到るまでに
何回曲がるのかと思わすほどややこしい道が続いていた。
どうやら桑名城下の西の守りを固める地らしい。



 国道一号線を越え正面に益世小学校、その奥に益生駅を臨む辺りで南
に向けて左折すると福江町に入り、ようやく桑名宿は終わりとなる。

 「此の立場は食物自由にして、河海の魚鱗、山野の蔬菜四時無き事なし」
とある。ここには立場が有り、桑名藩の役人が西国大名を出迎え、宿内の
案内をしていたという。



 立場とは宿場と宿場の間にあって、旅人が休憩する茶店などが有った
ところで、街道筋の所々に設けられていた。
お茶を供し、名物の餅や団子で旅人を持てなしていたようだが、桑名な
ら差し詰め焼き蛤が評判を呼んでいたので有ろう。



 右手に平成3年に復元された火の見櫓が見えると、その矢田立場跡だ。
この辺りは先の戦禍を逃れたらしく、所々に古い家並みが残っている。

 この先桑名の宿を出ると大福村で、気が付けばいつの間にか、旧街道
のルートを示すカラー舗装が消えている。
ここから次の四日市までは、三里以上の長丁場が待っている。(続)





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桑名城城壁(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-01-23 | Weblog


 渡し場から続く街道は、川口町、江戸町を経て、春日神社から少し進ん
で片町に入る。そこには公園風に整備された場所があり、左手に500m程
現存する「桑名城城壁」を見る事が出来る。
堀川の東岸に当る場所で、桑名城三の丸を固めていた城壁の一部である。
積み石の状態は、野面はぎ、打ち込みはぎと呼ばれる乱積みという。



 ここからは良く見えないが、堀川の東が桑名城址である。
三方を海に囲われて建つ美しい城で、その形から扇城とも呼ばれていた。
幕末期に幕府方として戦ったため、明治に入ると城は廃城となり取り壊し
となった。城跡には神社や市民プールがあるが一帯は九華公園として整
備が進んでいるという。



 この辺りは船だまりとなっていて、幾艘もの船が舫われていた。
海と通じる堀川は、嘗ての川湊らしく、荷船で賑わったを往時を彷彿さ
せている。その先で東海道は行き止まりとなり右折する。
その角に江戸日本橋から京三条大橋を模した「歴史を知る公園」がある。
お堀の一部を埋め立てて公園にしたらしい。



 西に向け進路を取ると京町で、北側に石取会館があり、その先の南側
に「桑名市博物館」がある。石取会館は旧四日市銀行桑名支店の建物で、
市に寄贈されたのを機に、国の重要無形文化財に指定された「桑名石取
祭」を紹介する建物に利用されている。


 
 一方「桑名市博物館」は、三重県では最初の市立博物館として開館し、
地元の歴史や民族・民芸や地元の万古焼などを中心に展示している。
この角にも東海道の古い道標が残されている。(続)





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カラー舗装の旧道(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-01-20 | Weblog
 東海道を行き来する参勤交代の大名は、移動する行程や日程、移動
経路などが幕府により厳しく取り決められていた。
宮と桑名の間ではこの七里の渡しを使うか、佐屋街道を行き三里を舟
渡しで行くかの二択で有ったが、距離の短い佐屋廻りを選ぶ西国大名
が多かったと伝えられている。

 船旅は時に長時間を要すことも有り、日程が決められている大名に
は、その後の影響を考えると都合が悪く、何より船酔いの心配も有り
苦痛であったようだ。





 宮から現在の渡しJRで桑名に移動、国営木曽三川公園として整備の
進む七里の渡し跡を見て、ここからは陸路での東海道を四日市に向けた
歩みが再び始まる。

 船着き場から南に延びる旧道は、城下町特有の枡形を多用した道らし
いが、ベージュのカラー舗装が施された道なので、それを辿れば間違え
ることはなさそうだ。





 街道を南に向け八間通りの広い道を横切り、暫く行くと右手に銅鳥居
が見えてきた。青銅の大きな春日神社の鳥居で、寛文7(1667)年七代
目桑名藩主・松平定重が寄進した。
 当時の慶長金で250両との記録があり、県有形文化財に指定されている。
高さ6.9m、笠木長さ8.1m、柱廻り57.5㎝、鋳物業として栄えた町のシン
ボル的な存在だ。





 その脚の横に「しるべいし(迷い児石)」が立っている。
子供が迷子になると、子の特徴などを書いた紙を左側面(たずぬるかた)
に貼り、それに心当たりがあると右側面(おしゆるかた)に、子供が居
た場所などを書いて貼るのだそうだ。

 こう言った石は多度大社の鳥居の横にも、また岡山城下の中心・京橋
の袂にも残されている。通信手段の乏しい当時では有効なツールとして
各所で使われていたようだ。(続)



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桑名宿(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-01-18 | Weblog


 宮の湊を発した海上七里の舟旅も、桑名城の白壁の物見櫓(蟠龍櫓)
が見え始めれば、最早安堵の着岸だ。
江戸から96里(約384㎞)、京からは30里(120㎞)の距離である。
伊勢国松平下総守十一万石の城下町桑名は、東海道42番目の宿場町だ。



 元々この地は、木曽三川が伊勢湾に注ぐ辺りで、商人の湊町として開
けた歴史を有している。江戸中期頃には宿内の住人は8,848人を数えた。
家数2,544軒、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠120軒を要する規模であった。
東海道の要路、七里の渡し場を控えた大きな宿場町で、その賑わいは中
世以来のものと言われている。 



 伊勢湾台風以前のこの辺りは、まだまだ開発も進まず、広重の世界に
近い景色が広がっていたらしい。
今では水害対策の巨大な防波堤で揖斐川から隔てられ、嘗ての渡し場の
面影は堤防の下に消えた。



 東国からのお伊勢参りでは、その第一歩を踏み出す地でもあった。
天明年間以降、変らぬ姿で建つ伊勢国一の鳥居を潜ればお伊勢さんに向
かう参宮道の始まりである。今目にする鳥居は、平成27(2015)年の御
遷宮の折、御神材で建て替えられたもので有る。



 嘗ての東海道は、関ヶ原~米原へ抜ける北ルートが多用されていた。
時代が江戸に入り伝馬制が発せられると、比較的平坦な北ルートから急
峻な鈴鹿越えの南ルートに定められた。
その要因は気象的な問題と、距離の違いが大きかったようだ。



 美濃・近江の国境は名うての豪雪地帯で、冬になると雪に閉ざされ通
行が出来なくなるリスクを避けたと言われている。
加えて京から宮までを見ると、美濃北ルートでは4泊5日を要するのに、
伊勢南ルートなら2泊3日で済む。
情報伝達の迅速化を目指す幕府には都合が良かったらしい。(続)




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その手は桑名の焼き蛤(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-01-16 | Weblog
 桑名市は三重県の北部、木曽三川の河口部に有り、伊勢平野に開け愛
知県や岐阜県と接する市である。
名古屋との距離が25㎞と近く、中京圏を構成する市は、名古屋のベッド
タウンとして発展してきた。



 ナガシマスパーランドや旧東海道・七里の渡し跡、多度大社など豊富
な観光資源に訪れる人も多い。それを支えるのがJR東海の関西本線と近
鉄の名古屋本線で、両者は競合関係に有り、お互い切磋琢磨しながら動
脈を支えている。



 桑名と言えば昔から焼きハマグリが名物として知られた土地柄だ。
「東海木曽両道中懐宝図鑑(宮―桑名)」では、「蛤白魚貝合の貝も
ここより出る」と紹介している。

 洒落言葉にも、その手は喰わないこと、美味いことを言っても欺され
ないことを「その手は桑名の焼き蛤」という。
既に江戸時代には、町民の間でも頻りに使われていたらしい。



 このような有名な食文化も、今日に到るまで観光を支えている。
昔は宿場内の茶店などでは、上陸し舟旅の疲れを癒やす旅人や、舟を待
つ人々などに盛んに蛤やシロウオが提供されていたようだ。

 当地に到着した弥次さん喜多さんも、枯れ松葉や松笠で燻し焼きにし
た殻付きの蛤を肴に酒を飲んでいる。



 蛤は、歴代の将軍にも献上されたという。
歴史有る伊勢湾の恵みも、乱獲か海の汚れか、近年ではその生産量は激
減し、一時は絶滅の危機などと言われていた。
最近では、地道な稚貝の放流などで、少しずつ回復傾向にあり、復活が
待たれている。



 今日桑名の町中で見かけるのは、佃煮の「しぐれ蛤」が多いようだ。
それでも所々には、「蛤」「焼きハマグリ」の看板や暖簾を掲げる食事
処などもあるが、高級感が否めない。
庶民の口にも気軽に入る日が、待たれている。(続)





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薩摩義士の墓(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-01-13 | Weblog
 宮と桑名の七里の渡しは、潮位や風の影響を受け、何時間も要した。
標準的には4時間、潮の流れや風向き、風の強弱で、時にはその倍の時
間を要することも有ったと言う。
 深刻な困り毎はトイレで、男は竹筒を使えるが、女はそうも行かない。
これを心配して陸路の佐屋街道を選ぶ女性が多かったらしい。


 
 現在では、木曽三川の下流域に鉄橋が何本もかけられ、JR線や近鉄
線、国道や高速道路と様々なインフラが整っている。
関西本線を走るJRの快速・みえなら20分程で駆け抜ける。

 東海道五十三次歩きの再開である。
桑名駅東口を出て、七里の渡しの終点、桑名の渡し場跡を目指す。



 駅前からの通りを東に向けて700m程行くと、左側に「法性山海蔵寺」
という曹洞宗の寺がある。天正2(1574)年創建の古刹で、「薩摩義士
を祀る寺」として知られている。

 宝暦の治水工事は、凄惨を極める中僅か1年と言う短期間で完成した。
しかし、その間の代償は余りにも大きく、幕府への義憤から抗議の自害は
51名に及んだが、その死は全て「腰の物(刀)にて怪我」と届けられた。
病死も33名を数え、薩摩藩は財政も人材でも多くの犠牲を払う事になる。



 死者を弔う筈の近隣の寺々は、幕府を憚り、係わりを避け、供養の埋
葬さえままならなかったらしい。

 それらを決着させ、鎮魂の思いを込めた工事奉行の家老・平田勒負は、
労苦を共にしながら、半ばで逝った多くの藩士と共にこの地に眠る事を
決意し、終には自裁する。
しかしその死すら「持病による病死」と、幕府には届けられている。



 藩士の供養先が見付からぬ中、海蔵寺には当初割腹した14名の藩士が
葬られた。後に廃寺となる安龍院に葬られた10名の藩士もここに改葬さ
れ、今では平田靭負を中心に24名の墓が現存し市指定史跡となっている。



 毎年、平田靱負の命日の5月25日には「薩摩義士追悼特別法要」が挙
行され、薩摩義士の子孫や関係者など多くの方々が参列すると言う。

 後に成り、工事現場の締め切り堤防には、「治水神社」も建立された。
今では義士の墓所は、岐阜県下に10ケ寺、三重県下に3ヶ寺、京都伏見に
1ヶ寺あると言う。(続)





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外様潰しの方策(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-01-11 | Weblog


 江戸幕府は宝暦3(1753)年12月、お手伝い普請として木曽三川の
分流工事を薩摩藩に命じた。
剣では後れを取らぬ薩摩隼人でも、土木作業は全くの素人集団である。

 幕府には絶対服従の時代、異を唱えることも叶わず、翌年1月総奉
行・平田勒負(ひらたゆきえ)を初めとする薩摩藩士947名は美濃の地
に派遣されることに成る。



 「輪中」地帯の尾張側には「お囲い堤」が聳え建っていたが、美濃側
はそれよりは一段と低い堤しか築く事を許されなかった。
徳川御三家の領地・尾張を守るためである。
元々木曽三川は各川の水面の高さが違うため、ひとたび豪雨に見舞われ
ると、大水害から逃れることが出来ず、洪水の常襲地帯となっていた。



 流石に幕府も、度々の大水害を見捨ててもおけず川普請に着手するが、
その工事を当時の有力な大名、薩摩藩77万石に下命したのだ。

 外様大名であり、苦しい藩財政を琉球との交易で支える薩摩藩の勢力
を更に衰えさせるため、幕府が工事資金を出さないお手伝い普請とする、
所謂外様潰しの方策で有る。



 土木工事の素人集団が立ち向かうには、自然の猛威は余りにも大きく、
その工事は凄惨を極めることになる。
工事が始まって僅か一ヶ月半、ついに最初の犠牲者が出た。
幕府への反抗心から自害したらしいが、「腰の物(刀)にて怪我」と届
けられ、命を賭した抗議は無念にも闇に葬られた。



 過酷な飯場での生活、工事も難渋を極め、事故や病で多くの藩士の死
亡も相次いだ。度重なる設計変更や工事費の増額など、不条理な幕府の
対応に藩士の義憤も募っていく。
前代未聞の大工事は、藩に多額の借財を残し、有能な藩士をも失う結果
となってしまった。(写真:治水神社)(続)





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佐屋街道(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-01-09 | Weblog


 宮から次の桑名までは、その距離七里の舟渡である。
宿場から宿場迄の間が全て舟と言うのは、東海道でも唯一ここだけだ。
標準的な所要時間は4時間と言われているが、潮の干満で航路は変わり、
時には十里にも及ぶと、時間も倍以上要することも有ったらしい。



 このため長時間狭い船内に閉じ込められる不安から、船旅を避ける女
性が少なからずいたようだ。又船酔いを心配する旅人もいたり、海が荒
れて何日も船渡しが出来ない事もあった。
こうした時、人々が利用したのが佐屋街道である。



 宮から北上し名古屋城下に向かう途中の金山で、西に進路を変える街
道である。最初の宿場、岩塚までは凡そ二里の道程で、そこから次の万
場までは半里と近い。更に一里半九丁で神守に到り、ほぼ同じ距離を進
めば最後の宿場佐屋だ。ここからは、木曽川を下り伊勢湾を経由する三
里の船渡しで、ようやく桑名に到着する。



 又佐屋には出ず、神守からそのまま西進し津島に出て、そこから木曽
川を渡るルートもあったらしい。
中世の頃の東海道は、さらに上流の玉の井(尾張一宮の北)辺りから途
中墨俣を経由して大垣から関美濃周りの美濃回りのルートで、木曽三川
を越えていたようだ。



 木曽・長良・揖斐の三川が伊勢湾に流れ下るこの辺りは、三川の乱流
地帯である。昔から如何に安全にここを越えるかは、時代ごとに変遷し
たそのルートを見ると苦難の歴史が良く分かる。

 東海道は、時代が古くなるほどより上流で横切り、三川の分流や築堤
工事が進むにつれ、街道のルートも南に南にと下りてくる。
(写真:木曽三川公園)(続)





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