簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

百軒長屋跡 (東海道歩き旅・近江の国)

2024-01-31 | Weblog


 東海道は新しく出来た水口の城下を避け、お城の北側を、右折、左折、
左折、右折、左折、右折と鍵の手に目まぐるしく曲がる道に入る。

 三河国の岡崎城下ほどではないが、結構な数の曲がり角である。
これらの町並に三筋町の様な賑わいは見られないが、その道幅は往時の
ままのようで、武家地に近い地らしく、家並みにも何とはない落ち着き
と懐かしさが感じられる。



 小坂町の曲がり角に、江戸時代から知られた大石が置かれている。
力石とも水口石とも呼ばれる由緒ある石らしいが、謂れを知らなければ
ただの石にしか見えない。説明によると、江戸の絵師・国芳により錦絵
の題材にも取り上げられたらしい。



 その先、北邸町には、下級武士達が住んだ百軒長屋跡が有った。
お城の武家地にあり、百軒(約180m)の棟割長屋には、下級武士達が
住んでいたという。

 棟割長屋と言うのは、複数の住戸が水平方向に連なり、壁を共有する
物件で、それぞれの住戸は独立している物を言う。
共同住宅の様に、共用部分が無いのが長屋の特長である。



 城の防御の役割を担う建物とされ、その為東海道に面した北側には、
出入り口は無く、往来に向かっては、与力窓と呼ばれる小さな高窓が
設けられているだけである。
街道を往来する物売りとは、紐を付けた笊により、この窓越しに買い
物をしていたという。



 こう言ったシーンは、様々な時代小説でも描かれ、よく登場する。
下級武士であっても武士は武士、身分制度の厳しい時代にあって、世間
との気脈を通じる、文字通りの窓口であったようだ。
明治初期まで21軒が残されていたたらしいが、全て取り壊されている。(続)





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新しい水口城(東海道歩き旅・近江の国)

2024-01-29 | Weblog



 寛永11(1634)年、京に上洛する三代将軍・家光の宿館として、小堀
遠州らが参集し水口御茶屋が築かれ、後に天守閣を持たない居館式城郭・
水口城(別名碧水城)となる。
更に天和2(1682)年、加藤明友が入城すると水口藩が成立する。



 因みに加藤氏は「諦観の間」詰めの外様大名で、石高は甲賀・蒲生地
区を中心に2.5万石で、水口や日野など重要な地方都市を治めている。
水口藩の成立と同時に、新たな城下町も整備される事になり、町の中心
は東から西に移るのだが、宿場町は三筋町を中心に残され、依然として
繁華な町並をこれまで維持してきた。



 この辺り一帯は武家地となり、藩士以外の通行が厳しく取り締まられ
ることになる。
城の東端に当たるこの地には、「天王口御門」が設けられ、藩士以外が
武家地に入る事を厳しく禁じていた。



 このため東海道は、ここで鍵の手に曲がり、武家地を避けるように、
北側に右折、左折、左折、右折、左折、右折と目まぐるしく曲がりを繰
り返す鍵の手となり、大きくい迂回するように付け替えられた。
その出口の西林口には、石橋から移された西の見附が設けられた。



 嘗ての水口岡山城の城下町である三筋町と、後の水口城の城下町が融
合し、一体化された、新たな水口宿がここには成立している。

 これまで幾つもの宿場町や間の宿を見てきたが、ここ水口宿の様に新
旧の城下町が一つになり、一大城下町兼宿場町を形成した例は、極めて
珍しい。



 城跡には、今は出丸と北西隅の石垣だけが残っているらしい。
立寄って写真だけでも撮りたいところではあるが、カメラのバッテリー
切れもあり、時間を取り過ぎてしまったので、先を急ぐことにした。(続)



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甲賀市ひと・まち街道交流館(東海道歩き旅・近江の国)

2024-01-26 | Weblog


 水口宿場の京口御門を出て石橋を渡り、近江鉄道の踏切を越えると、
嘗ての東海道は真っ直ぐに西進していたが、後に街道は鍵の手に曲が
るように付け替えられた。
この左側一体が新たな水口城内と成り、そこを避ける措置である。



 その角の右側に「甲賀市ひと・まち街道交流館」と言う施設がある。
水口宿を中心とした市の歴史・文化や観光情報を発信するほか、 特産
品等の紹介や講演会・イベントの開催などが行なわれている。
宿場を散策する訪問客の憩いの場として、地元自治振興会の交流の場、
さらに 観光ボランティアガイドの拠点として活用され、特産品の紹介、
販売などもされている。



 実はこの日土山宿を出る辺りから、どうしたわけか持参したデジタル
カメラのバッテリー残量が激減し、思うように写真が撮れなかった。
 カメラを休ませ、だましだまし沿線の風景をカメラに収めてきたが、
ついに水口に入るとシャッターが下りなくなってしまった。



 充電用の専用ケーブルは持参していたが、肝心なUSB端子とコンセ
ントを繫ぐコネクターを忘れてしまい充電が出来ない。
 水口の東見付けに入り、本陣・脇本陣を横目に、三筋町を抜けながら、
どこかで購入出来ないものかと探し求め、ようやく辿り着いたのがこの
交流館である。



 事情を説明すると、「これでよければどうぞ使って」サイコロのよう
な白いコネクターを引き出しから出し、コンセントはここを使ってと、
有り難いお言葉。 休憩を兼ね、暫く充電させていただき、なんとかカ
メラの動作が戻ったことを確認し、せめて三筋町だけでもと街道を戻り、
何とかカメラに収めてきた。(続)





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京口御門と石橋(東海道歩き旅・近江の国)

2024-01-24 | Weblog

 水口は東海道50番目の宿場町と、水口岡山城の城下町、両方の顔を併
せもつ町で、名物や名産の土産もあり、大いに賑わったと言う。
旅籠の数は多い方であったが、遊女はいずそのせいか、宿泊は余り振る
わなかった。



 その変わり「女の声にて わやわやいう」と伝えられる客引きの留め
女の勢力が強かった。
「物をいわせよといえども、女どもは耳にも聞き入れず、無理に家のう
ちにひきこむ」ほどで、旅人がやり込められている。



 位置的には石部・土山両宿の間にはさまれていて、「京立ち石部泊ま
り」の言葉が示すように、京を朝立ちした東下りの旅人の多くが最初の
宿とするのは「石部宿」である。

 石部からは三里半(13.7㎞)の道程で、余程の健脚でもないとここま
では辿り着けないし、土山からも二里半七丁(10.6㎞)有り、鈴鹿超え
の旅人は土山泊まりが多かったようだ。



 水口宿の三筋町は、「三筋の辻」で一本に集束されここで石橋を渡る。
江戸初期の頃は、ここに「京口御門」があり、宿場の出口、東海道の西
側の入口であった。

 城下町として、宿場町として、三筋町を形成して栄えてきた町はこの
辺りが西端となっていて、門を出れば、初期の頃の東海道ならこの先は
真っ直ぐに西に延びていた。



 石橋は、城の壕の一部とされる馬渡川に架かる橋である。
うっかりしていると見落としてしまいそうな小さな橋で、当時の幅のま
まなのか、ここだけ道路の道幅が絞られたように狭くなっている。



 橋を渡ると直ぐに、近江鉄道線の線路である。
東海道は踏切でそれを越え西に進むが、左側に見えるのが同鉄道の水口
石橋駅である。(続)






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本道はまん中?(東海道歩き旅・近江の国)

2024-01-22 | Weblog

 町並は、夷町から番町、平町と続き、ここには人足会所(にんそくか
いしょ)跡が有った。
人足会所とは、伝馬の定めに於いて、宿駅間の継ぎ立てに従事する人足
を雇うための事務手続きをする役場のことだ。



 今ならさしずめハローワークである。
寛永期には平町に設置され、元禄期には平町の会所が廃止され、東伝馬
を併合した問屋場が大池町東端に新たな問屋場として設けられ、会所は
街道の北側に配置された(説明板による)と言う。



 東西の見附の間が2.5㎞もあり、三筋町を形成する宿内には、見応え
の有る旧商家や土蔵造りの家、町屋等が軒の低い平入りで多く遺されて
いて、どこを歩いても当時の面影を色濃く残している。
柳町には軒下に「いまむら呉服店」の看板を掲げた、伝統的な平入りの
町屋があった。



 町並の中には、旧町名を示す石柱が立てられ、又案内板も豊富に整備
されているので、要所を見逃すこともなく宿場知ることが出来る。
 この三筋町はこの先、近江鉄道水口石橋駅横の踏切の手前まで続き、
ここで一本に集束される。「三筋の辻」と言われる場所で、ここにもか
らくり時計が設けられている。



 「街道一の人止場」と言われ、行交う多くの旅人と、客引きをする留
め女の声で賑わった三筋の町並を歩いて来た。
どの道筋も趣があるが中でもまん中の通りは、今も商店街の風情があり、
当時の主要な施設跡も多く、中心的な場所を彷彿させている。



 地元の人はどの筋も東海道で、どこを通っても構わないという。
しかし、こうして三筋を歩いてみると、矢張りまん中の通りが東海道の
本道で、昔の旅人の多くも、この筋を行交っていたのではなかろうか、
そんな風に思えてくる。(続)





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街道一の人止場(東海道歩き旅・近江の国)

2024-01-19 | Weblog
 古城山の南に「三筋町」という特徴的な宿場町が形成された水口宿は、
「街道一の人止場(ひととめば)」と言われ、留め女による客引きが頻
りに行われていた。
 
 広重の絵で広く知られるようになった名物の「かんぴょう」や泥鰌汁
も名物で、泥鰌は周囲の田畑で豊富に獲れたらしい。
更に今では廃れてしまったが「水口細工」などの土産も豊富で、大いに
賑わったと伝えられている。





 大池町には、問屋場跡が有る。
江戸時代、伝馬の定めで宿駅(宿場)には人足や馬を定められた数だけ
揃える義務があった。揃わない場合近隣の村がその不足を補う「助郷」
と言う定めもあった。

 問屋場は、公用で旅をする役人などの荷物を次の宿場まで運ぶ、継ぎ
立てを差配する場所でその役人は宿場の有力者が務めていた。





 その前にあるのが文政年間から続く「菓匠 一味屋」である。
代表する銘菓は、「水口祭ひき山」「水口の里」「碧水最中」「茶慕」
「忍者の郷」「本陣羊羹」など品揃えは豊富だ。

 ここではなんてこともない最中ではあるが、やはり「忍者もなか甲賀
流」に手が伸びてしまう。甲賀忍者の秘術を記した巻物を意匠した近江
米や、十勝産小豆餡で作られた最中である。





 旧街道と大岡寺山門に向かう大手道(市道大岡寺線)とが交差する東
側、大池町に小公園がある。そこには、平成21(2009)年に、「江戸時
代の旅と宿」をテーマにしたからくり時計があり、広場や駐車場、トイ
レ等が整備されている。

 からくり時計の下側には、水口曳山のミニチュアが飾られ、その傍に
「曳山の由来」の書かれた碑が有る。それによると初めて登場したのは、
享保20(1725)年で、九基による巡行が行なわれた。
その後一町毎に造られ、今では三十基余を数えると言う。(続)




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三筋の街道(東海道歩き旅・近江の国)

2024-01-17 | Weblog


 水口宿の宿内は、三筋の通りで構成されている。
片町、松原町を経て作坂町に到る間の左側に、脇本陣と本陣跡があり、
その先が東の高札場で、札の辻と呼ばれていた。
東海道はその西端で二つに分岐する。
三本に分かれた道はおよそ800mあり、通りには旧町名を書いた石柱も
立てられている。



 右の通りを北裏通りと言い、町人町らしく、水口神社の祭礼で引き回
される曳山の山倉を幾つか目にすることが出来る。
商店街らしい賑わいの残る左側が本道と思われるが、地元の人は、「何
れも東海道、どちらを通っても宜しい」と言う。



 少し行った旅籠町でも街道は二つに分岐する。
左の道は南裏通りと言い、寺町の様相で、円福寺、善徳寺、蓮華寺、西
連寺等多くの寺院が甍を連ねていて、宿場町であり城下町でもある町の
東の備えを構成している。

 通り東端南側には伝馬会所が有り、この辺り一帯は川岸と呼んでいた。
当時は野洲川の河原がこの辺りまで広がっていたのであろう。



 これまで見てきた宿場では、繁華な宿場を造るため、様々な工夫が成
されていた。
間口の狭い妻入りに建屋を並べ、家屋数を稼いでいる宿場も有った。
又宿内の街道を敢えて曲げ、町並を長くする工夫もされていたが、通り
を三本も通す宿場町は極めて珍しい。



 こんな水口宿は折角なので、時間と体力が許すならば隈無く廻りたい。
この高札場から一番右の北裏通りに出て西の高札場まで行き、そこから
南裏通りに入りこの東の高札場に戻る。
最後に中央の通りを西進する一筆書きのルートを辿るのが良いだろう。
旧宿場町の保全に力を入れる町だけに、時間を掛ける値うちはある。(続)





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水口宿(東海道歩き旅・近江の国)

2024-01-15 | Weblog

 山川の橋を渡ると田町で、ここには東海道が定められた慶長年間以降、
家が建ち始めたと言う。
続くのが東の見附があった片町で、天和2(1682)年には枡形に柵が設
けられ、潜れば水口の宿場町ですぐに国道307号線を越える。


 
 この辺りを「牛ヶ渕」と呼び、関が原合戦の三ヶ月前、慶長5(1600)
年6月、上杉討伐の途中にあった家康を暗殺しようとした場所た。
どこかに石碑があったらしいが、残念ながら見落としてしまった。



 石部宿に宿を取った家康に、時の水口城主・長束正家は鉄砲100挺を
献上し、「城外の牛が淵に新築した茶室で昼食を共にしましょう」と誘
ったそうだ。ところがその夜、「茶室には、岩壁の下の『牛が淵』に落
ちる仕掛けが有る」との密告があった。
家康はあわててその夜、「女輿」に乗り、水口城下を通らず間道を通っ
て土山方面に出て難を逃れたと伝わっている。



 人口2600人余りの宿場には692軒の家があり、本陣と脇本陣が各一軒、
旅籠は41軒を数えた。男女比では女性が多いものの、宿場に遊女はいな
かったと伝えられているが客引きは多く、宿選びの時刻ともなると騒々
しい程に賑わったと伝えられている。



 宿場の名物には、干瓢、葛細工、煙管、泥鰌汁等が知られていた。
夏の風物詩干瓢は、今でも水口の名物で、広重の画く東海道五十三次の
画も、「水口 名物 干瓢」として取り上げていて、これにより広く世
に知られるようになったという。



 宿場外れであろうか、農家の女性達が夕顔の実を細長く剥いて、それ
を通した縄に掛け干す姿が克明に描かれている。
画面右側には、民家の垣根に干されている様子も描かれている。(続)





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城下町・水口(東海道歩き旅・近江の国)

2024-01-12 | Weblog

 水口は東海道の宿場町であるが、元々は城下町である。
甲賀で最大の独立丘陵である古城山に、天正13(1585)年、豊臣秀吉が
家臣・中村一氏に命じ築かせたのが水口岡山城だ。



 近江国を広範囲に見渡す眺望から秀吉の甲賀支配の拠点とされた城で、
東国制覇の足掛かりとして重要な位置付けがされていた。
後に入城した長束正家が、関ヶ原の合戦で西軍に属し敗れたため、廃城
になった。



 戦後徳川の直轄地となり、東海道の宿駅に指定されるも、嘗ての城跡
は忘れ去られ荒廃し、当時の建造物は全て失われたてしまった。
幸い石垣等の遺構は残されているらしく、今では「しろやま」と呼ばれ
親しまれている。麓からは登山道も整備され山頂までは約820mで、15
分もあれば登れるらしい。



 慶長年間に東海道の宿場として定められたものの、当初は宿泊施設も
少なく、度々通行した家康もここでは寺院や民家に宿泊していたという。
三代将軍・家光の時代になり、宿場の西方に新しい宿館(茶屋)が築か
れることになる。水堀に囲まれた本丸と御殿の建つ二の丸の二郭で構成
される水口城である。



 幕府直営工事として、作事奉行を小堀遠州が務め、京都の大工頭中井
家支配の大工たち、のべ10万人が動員された。
しかし城は家光上洛時一度だけしか使われず本丸御殿は後に解体された。
今では城跡は県の史跡に指定されている。



 水口岡山城の城下町として形成された水口は、江戸時代に入り東海道
の宿駅に指定された。
片町の東の見附から、西の見附・米屋町の石橋までの間の三筋町(三筋
に分かれた東海道筋)を中心に発展した。(続)





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近江国甲賀郡水口(東海道歩き旅・近江の国)

2024-01-10 | Weblog


 江戸日本橋より数えて百十二里目、今在家の一里塚をみて、土山宿か
ら二里半七丁、今の距離でおよそ10.6㎞、水口宿に入ってきた。
古くは近江国甲賀郡にあり、伊勢に通じる街道の要衝として開け、室町
時代には既に宿場が形成されていたという。



 水口宿は、今日で言う滋賀県甲賀市の中心部である。
甲賀市は、「滋賀県の南東部に位置し、県土の約12%の面積を有する市
で、人口は凡そ9万人、大阪・名古屋から100㎞圏内にあり近畿圏と中
部圏をつなぐ広域交流拠点に位置している。気候は四季を通じて穏やか
である。」(甲賀市公式HPより)



 町中を東西に、国道307号線(彦根市外町交差点~枚方市池之宮北交
差点 111.6㎞)が貫いている。近年になって更に北側に新国道1号線が
開通したため、変更になった。
 それと交差するように近江鉄道本線(米原駅~貴生川駅 47.7㎞)が
南北に、又野洲川に沿ってはJR草津線(柘植駅~草津駅 36.7㎞)も
通っている。



 「此所は四方みな川おほく田地大なれば、鰌魚(どじょう)をとりて
売りに来る・」と言われた地で、南部を野洲川が東から西に流れている。
宿場はその流域に形成され、廻りには広大な田畑が広がっていたらしい。



 「水口」の読みは、「みずぐち」とは言わず、「みなくち」と読む。
「水口」とは稲作文化の根付いた日本では、その生命線とも言える水を、
田に取り入れる出入り口のことを言う単語である。
 古から重要視されてきたことから、知名や人名として各地に多く残さ
れていて、恐らく当地の謂れも、そんなところで有ろう。(続)





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