「反町薬師入口」(そりまちやくしいりぐち)の交差点で左折し、ふたたび県道332号線(桐生 新田木崎線)に入ったのが10:02。
そこから5分近く南進すると、右手にお堀のようなものが現れますが、これが「反町薬師」のお堀であり、もともとは「反町館」跡。
南側を除いて、周囲が堀で囲まれています。このように鎌倉時代あたりの武将の館跡が、お堀を含めて残っているのは珍しい。
ここも以前に立ち寄っているので、今回は寄らずに通過。
右手の電柱には「新田反町町」(にったそりまちちょう)という町名標示が見える。
「おおたコミュニティバス」の「おうかがい市バス停留所 No.713」の横を通過したのが10:20。
「新田町指定重要文化財 旧常楽寺墓地『石塔群』」を右手に見たのが10:27。
墓地には、南北朝時代の銘のある宝篋印塔(ほうきょういんとう)3基や五輪塔1基があるとのいう。
相当に古いお寺であったようですが、明治25年(1892年)に常楽寺を含む3つのお寺が合併し、現在は太田市杉之内の蓮蔵寺跡に常楽寺があるとのこと(案内板による)。
「尾島まで4km」の標示を見掛けたのが10:35。
尾島までは今回は行きませんが、このまま進んで行ったなら、11:30前後には尾島に到着することになります。
左手やや離れたところに「長命寺」とその墓地を見掛けたので、その境内に立ち寄ったのが10:38。「古義真言宗」のお寺(照光山長命寺)。
入って左側の石段を上がったところにある「水子地蔵菩薩」に興味がひかれました。
境内には「天保十二」と刻まれた「馬頭観世音」などもありましたが、これは旧道から移設されたものであるでしょう。
その長命寺の前で右折すると、その角にあるのが茅葺屋根のお堂である「木崎宿色地蔵」。「新田町指定重要文化財」になっています。
案内板によれば、この「色地蔵」があるところは、「木崎下町」の「三方の辻」。
「木崎音頭」の歌詞はいくつがあるけれども、歌詞の末尾には必ず色地蔵さまのことが唄われているとのこと。
銘文から、風邪のはやる季節に亡くなった子どもたちの霊を慰め、子どもたちの成育を祈祷するものとして建立された「子育地蔵」(石地蔵)であったという。
しかし江戸時代の日光例幣使道の宿場町である木崎宿には、多数の「飯盛女」がいて、彼女たちは宿場の外れのこの石地蔵に参詣して心の安らぎを得るようになり、数多くの色街の女たち(飯盛女)が訪れたことから、いつの間にか、「色地蔵様」と呼ばれるようになったのだという。
この「飯盛女」たちの出身地は越後国(新潟県)の蒲原地方が多く、多くは女衒(ぜげん)に連れられて、三国峠を越えて上州の地にやってきた娘たちであったことについては、すどに触れたことがあります。
崋山がこの木崎宿の外れあたりを通過し、日光例幣使街道を横切った時、そのような「色街」としての木崎宿の状況について知っていたかどうかはわからない。
煉瓦造りの煙突のある「地蔵屋」(菜種油を造っていたお店)の前に出て、日光例幣使道(県道312号線・太田境東線)を右折して、県道332号線(桐生新田木崎線)と交差するところで今度は左折。
左折するとそこには「貴先神社」があり、そこで桜が満開の時に休憩をとったように、ふたたびしばしの休憩をとりました。
「飯盛女」たちは、ここにも参詣をしたり、また春には桜の花見を楽しんだのかも知れない。
その貴先神社を出発したのが11:00過ぎ。
貴先神社の前から木崎駅へと続く道は、以前から進められている道路拡張工事がどんどん進行していました。
右手に黄檗宗(おうばくしゅう)法隆山長福寺を見て、まもなく県道311号線(新田上江田尾島線)に合流したのが11:08。
途中で、東武伊勢崎線を跨ぐ高架橋の手前で左折して、「サッポロビール群馬工場」の門前を右折して、東武伊勢崎線の木崎駅に至ったのが、11:12でした。
崋山と梧庵は、「木崎、太田の間を打こえ、一里にして尾嶌」に至ります。
この尾島において、崋山はおそらく立ち寄った飯屋の店先から「尾嶌の町図」を描いています。
この尾島から「前小屋の渡し」までは「わづか半里なるべし」と崋山は記しています。
この「前小屋の渡し」で利根川対岸(南岸)に上がったところから、北方向を眺めた風景も崋山はスケッチしています。
現在のその場所はというと、私は、「尾島1丁目」交差点から道(県道275号線・由良深谷線)を南下していったところにある早川に架かる不動橋のあたり(利根川の流れは当時と現在とは大きく異なっています)ではないかと推測しています。
そう考えれば、崋山の、尾島から「前小屋の渡し」まで「わづか半里」ほどという記述もつじつまが合う。
スケッチのうち、最後のスケッチ(第16図)が問題となる。
これはどこの家の庭からスケッチしたものだろうか。
『渡辺崋山と弟子たち』(田原市博物館)の解説では、「武蔵国榛沢郡高島村(現深谷市高島)の豪農で、江戸の蘭学塾芝蘭堂で学んだ伊丹新左衛門の屋敷から眺望したと思われる風景が描かれる」となっています。
一方、『崋山と歩く桐生と周辺の旅』の岡田幸夫さんは、「どこの家か断定できないが、背後の山(榛名山の山波である)から、尾島の豪農福田藤八宅からの風景ではないかと思われる」とされています。
私は、最初はこの絵は伊丹新左衛門家の庭から南方向を眺めたものではないか、と考えていましたが、岡田さんの推測も成り立つのではないかと、桐生駅での崋山写真展を観に行ってから思うようになりました。
しかし、右手向こうの描かれる山がほんとうに「榛名山の山波」であるか、ということについて疑問を持つようになりました。
次回は、この絵が描かれた場所について私見を述べてみたいと思います。
続く(次回が最終回)
〇参考文献
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)
・『渡辺崋山と弟子たち』(田原市博物館)
・『崋山と歩く桐生と周辺の旅』(渡辺崋山と歩く会 代表岡田幸夫)