鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

太宰治の『津軽』と、「津軽四浦」  その1

2015-11-21 06:26:12 | Weblog

 太宰治は、津軽に生まれ、津軽に育ちながら、金木・五所川原・青森・弘前・浅虫・大鰐の町を見ただけで、その他の町村については、少しも知るところがありませんでした。

 しかし昭和19年(1944年)の春、生まれて初めて、本州北端の津軽半島を、およそ3週間をかけて一周しました。

 それは、太宰に言わせれば、「私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一つ」でした。

 久しぶりに『津軽』を読み返してみると、私の記憶に強く残っている「たけ」との再会は、まったく最後の部分であり、鰺ヶ沢から五能線に乗って五所川原の中畑家に立ち寄り、大川(岩木川)に架かる乾橋を戻る時に、中畑家の娘である「けいちゃん」に、「あした小沼へ行って」…「たけに逢はうと思つてゐるんだ。」と言うところで、初めて「たけ」の名前が登場し、太宰が「たけ」と会おうとしていることがわかってきます。

 「けいちゃん」は、それを聞いて次のように言う。

 「たけ。あの、小説に出て来るたけですか。」

 「うん、さう。」

 「よろこぶでせうねえ。」

 「どうだか。逢へるといいけど。」

 ここで、太宰の旅の最大の目的が、「たけ」に逢うことであったことが明かされます。

 「このたび私が津軽へ来て、ぜひとも、逢つてみたいひとがゐた。私はその人を、自分の母だと思つてゐるのだ。」

 「けいちゃん」が、「あの、小説に出て来るたけ」と言っている「小説」とは、『思い出』のことであるようであり、太宰は、「たけ」が記されている箇所を引用しています。

 中畑家の「けいちゃん」という娘(二十歳ほど)は、太宰治の『思い出』を読んでいたことになります。

 太宰は、後段で、「私はたけのゐる小泊の港へ行くのを、私のこんどの旅行の最後に遺して置いたのである」と記しています。

 実際、小説『津軽』は、「たけ」との再会の部分で、後の蟹田の中村家滞在中のことは記されずに、終わっています。

 やはり『津軽』のクライマックスは、小泊での「たけ」との再会の場面であり、それまでの記述は、まるで外濠の一つ一つを巡っていくようであり、徐々に本丸へと接近し、本丸にたどり着いたところで、そのクライマックスを迎えます。

 その「本丸」の存在が明かされるのは、『津軽』の最後の最後のところ(五所川原の岩木川に架かる橋の上)であり、それから、怒濤のように「たけ」との再会の場面へと向かっていきます。

 私にとっても、『津軽』の印象深く刻まれている場面は、太宰と「たけ」の再会の場面であり、その舞台が「小泊」という村であったということを知ったのは、竜飛から十三湖に向かう途中、中泊の「折腰内マリントピア交流施設」にあった案内マップ(「なかどまり観光案内図」)で、「小説『津軽』の像」の文字とイラストを見たことによりました。

 その時は、北前船の寄港地を訪ねることが目的であったため、その「小説『津軽』の像」や、記念館に立ち寄ることはありませんでしたが、今から考えると惜しいことをしたものだと思っています。

 

                                        続く

 

〇参考文献

・『津軽』太宰治〔名作旅訳文庫2青森〕(JTBパブリッシング)



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