鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.夏の越前福井・取材旅行 「敦賀より北陸街道へ その1」

2007-08-26 07:19:34 | Weblog
 21日。自宅を4:00前に出発し、東名厚木ICに入ったのは4:07。以後およそ1時間で小憩。2時間でゆっくりめの休憩、を繰り返して、尾張一ノ宮のSAに着いたのが8:44。朝食は、「名古屋と言えばきしめん」ということで、おにぎり1個(鮭)、おいなり2個が付いた「きしめんセット」(500円)。美味。9:55に米原(まいばら)ジャンクションを通過して北陸自動車道に入り、敦賀(つるが)ICの料金所についたのが10:24。高速料金は8400円でした。

 ICを出て国道476を左折。気比(けひ)神宮の広大な杜(もり)を右手に見て直進。赤い欄干と擬宝珠(ぎぼし)のある橋(笙〔しょう〕の川に架かる松原橋)を渡ってしばらく進むと、左手に来迎寺(らいごうじ)の駐車場の標示。左折してその細い路地に入ってしばらく行くと「時宗来仰寺」があったので、その駐車場に車を停めさしてもらいました。

 本堂の横を通過して門前に。門の右側に、

 「関ヶ原合戦四百年 戦国武将ゆかりの地 越前敦賀城主大谷吉継」

 と白抜きされた青色の幟(のぼり)。

 立派な門は、敦賀城中門を移築したものらしい。門を入って正面に本堂があり、その裏手に墓地が広がっていました。墓域の地面は砂地で、ここが砂浜の延長であることがわかります。

 そこから左手の通りに出て、「野墓」(寺などに管理されていない墓地、ということでしょうか)を右手に見ながらしばらく歩いていくと、右手の松原の中に大きな塚らしきものが見えてきたので、松原の中の道に入っていくと、そこが「水戸藩士墳墓」(武田耕雲斎等之墓)でした。

 かなり大きく立派な塚(墓地)。塚の上には古びた墓石が並んでいます。

 墳墓の前、右側の石灯籠(慶応4年に建てられたもの)のところにスイッチがあり、

 「灯籠のスイッチを押しますと説明のテープが流れます。敦賀市」

 と書いてあるので、スイッチを押してみると、音楽とともに女性の声で説明が始まりました。屋外でのこういうサービスはいまどきちょっと珍しい。一昔前の観光地のような、ちょっとノスタルジックな気分を味わいつつ説明に耳を傾けました。取材ノートに書きとめながら、結局、3回も聞いてしまいました。

 それによると、

 最初の墳墓は五つあり、「五つ塚」と呼ばれていましたが、慶応4年(1868年)に1つの大塚にまとめられたとのこと。東向き(水戸の方向を向いていたということでしょう)のコの字型であったらしい。それが松原神社が出来ると、明治18年(1885年)に西向き(松原神社の方向)に変えられ、大正3年(1914年)に現在のように改修されたのだという。

 ここには、ここで処刑された武田耕雲斎ら353名が眠り、他に途中討ち死にした21名、病死した31名、合わせて52名の墓石を含めた、前列8基、後列7基、計15基の花崗岩製の墓石が並んでいます。それぞれの墓石には、亡くなった人たちの俗名が刻まれています。

 西側の松原神社には、信州和田峠で死んだ6人を加えて、411柱が祀られているとのこと。

 元治元年(1864年)の10月末、武田耕雲斎らが率いる1000人余の水戸藩士などが、常陸国を京に向かって出発し、中山道を経由して越前に入り、今庄宿に泊まった後、12月11日、大雪の木ノ芽峠を越えて敦賀郡新保(しんぼ)宿に入りますが、京に入るのを阻止しようとする幕府側の大軍の前に進軍不可能を悟って加賀藩に降伏。

 降伏した823名は、敦賀の三ヶ所の寺に容れられ手厚くもてなされますが、幕府追討軍のリーダー(若年寄)の田沼意尊(おきたか)が到着すると扱いは一変。罪人として鰊蔵(にしんぐら)に閉じ込められ、翌年2月に仮の白洲(しらす)が設けられて形ばかりの吟味が行われたあと、2月4日の武田耕雲斎らの処刑を始めとして、2月23日までに5回に分けて、総計353名が処刑されました。

 それぞれの大穴(6m四方)五ヶ所に土が盛られて、高さ1.5mの塚が五つ出来上がりました。これが「五つ塚」と言われた、この墳墓の原型ということになります。

 せみの鳴き声を聴きながら、以上のような内容の説明を書きとめました。

 現在の墳墓は、方十二間(約18.5m)、高さ八尺(約2.4メートル)。石段の上の平面に西面して15基の墓が並んでいます。前列8基、後列7基。後列7基の中央の墓石はひときわ大きく、四段に分かれた俗名の並列の一番上の段に、中央に武田伊賀守、その右側に山国兵部、武田彦右衛門、左側に田丸稲之右衛門、藤田小四郎の名前が刻まれていました。

 それぞれの墓石には、五段ないし四段でびっしりと名前が刻まれていましたが、特に前列右端は「討死」、前列左端には「病死」という文字が刻まれ、その名前が刻まれていました。

 墳墓の前の参道両側、および松原の中には、茨城県の各市町村の市長や議長、あるいは遺族の、白く塗られた角柱の献木がずらりと立ち並んでいました。特に「常陸太田市」関係のものが多い。

 メモをとっていると、中学生と思われる女の子が、笑顔で「こんにちわ」と声を掛けてくれました。少なくとも「不審者」という風には思われていないようで、うれしくなる。

 そもそも、なぜ、この敦賀市松原町にある武田耕雲斎らの墓に寄ろうと思ったのか。

 それには20年ほど前に、当時は足羽山(あすわやま)の上にあった福井市立博物館に立ち寄った時のある鮮烈な思い出があるのですが、それについては次回にまわしましょう。




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