鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

映画『郡上一揆』(神山征二郎監督)について

2007-02-25 14:48:13 | Weblog
 この映画の冒頭のシーンは、郡上八幡(ぐじょうはちまん)で行われている「郡上踊り」(盆踊り)の映像。この「郡上踊り」で、郡上八幡は全国的に知られているといっていいでしょう。

 郡上八幡は、岐阜県を流れる長良川(ながらがわ)の中流、長良川と吉田川、小駄良川の合流地点にある山間の小さな城下町。
 平成16年(2006年)3月1日、この八幡町と、大和町・白鳥町・京鷲村・美並村・明宝村・和良村の郡上郡7町村が合併して、郡上市が生まれました。
 人口48600人、世帯数14900。
 この郡上市の中心が、「郡上踊り」で知られる八幡町なのです。

 この八幡町を含む現在の郡上市一帯で、江戸時代中期に大規模な農民一揆が起こります。宝暦年間(1751~1763)に起こったので、その一揆を「宝暦騒動」とも言うようです。

 時の藩主は、金森頼錦(よりかね)。当時の郡上藩は、江戸芝の屋敷の普請に多額のお金を使い、また頼錦が「奏者番」になったことによっても出費がかさみ、藩の財政は急速に悪化していました。

 「奏者番」というのは、諸大名や諸役人が将軍に謁見する際に、その場に立ち合い、諸大名や諸役人の姓名を将軍に申し上げて献上物を披露したり、また将軍からの諸大名・諸役人への下賜品を伝達することを、その役目としていました。その名誉ある「奏者番」に選ばれたということは、頼錦はそれなりに有能な藩主であったといっていいでしょう。しかし、役目柄、諸大名や諸役人と交際する必要上、衣服をはじめとして多額の出費を要し、生活も華美になっていき、藩財政を圧迫する原因になりました。

 江戸藩邸における財政の窮乏化を打開するために、郡上藩が打ち出した政策は、従来の「定免法(じょうめんほう)」という年貢の取り立て方を変更し「検見法(けみほう)」(検見取〔けみどり〕)という取り立て方を導入することでした。

 「定免法」は、豊凶に関わらす一定の割合の年貢を取り立てること。それに対して、「検見法」というのは、米の収穫高に応じて年貢高を変えるというもので、一見すると、農民にとって有利な方法のように思えます(実際、映画では、歩岐島(ほきじま)村の庄屋平右衛門は、集まった農民を前にしてそのように説明しています)が、実際は負担が農民に重くのしかかるものでした。藩は同時に、従来黙認していた「隠し田」(新たに拓いた田んぼで、検地帳に載っていないもの。課税の対象にはならなかった)に対しても課税することを決めており、それに対しても農民側は強く反発しました。

 宝暦4年(1754年)2月、藩は、領内の全庄屋を藩役所に呼び出し、検見取に変更することを伝えます。村々では「寄合(よりあい)」が開かれ、ついにその年の夏、「検見取はとうてい納得できるものではない」として、その旨を書付(かきつけ)にして署名捺印(なついん)し、農民から各庄屋に提出されました。

 そして8月10日のこと、郡内各地の農民およそ3000名が、八幡城下に押し寄せ、「検見取」絶対反対の姿勢を示しました。

 この農民の猛反発に圧(お)された藩は、「このだびの願いの趣、いろいろのことを江戸の藩邸に何分(なにぶん)にも申し伝える」として、一旦は、「検見取」をあきらめます。

 しかし藩財政の窮乏はいかんともし難く、藩は、「検見取」は幕府から命令されているという立場を取ることを画策。

 翌宝暦5年(1755年)の7月、郡内の全庄屋が、美濃郡代所(笠松陣屋)に呼び出され、代官青木次郎九郎から、「今年より検見取を実施する」として、「この命令に背(そむ)くは、ご公儀(幕府)に背くと同様である」と言われます。
 庄屋たちは、やむなく「検見取」を受け入れる書面に押印し、ここに庄屋たちと農民たちは、「検見取」をめぐって対立することになりました。

 農民たちの代表は、8月13日に那留(なる)ケ野に集まり、「一味同心」の者による「傘連判状」を作成し、江戸藩邸に直訴することを決定。代表40名ばかりが、美濃・中山道を経由して江戸に向かいました。

 江戸藩邸は、国元からやって来た農民たちの訴状を受け取り、その年の検見取実施は見送られますが、藩は、検見取の方針が撤回されるまで年貢を納めようとしない農民を厳しく取り締まります。女・子ども・老人までも縛り上げて牢に入れるなど、「あらけない(慈悲がなくあらあらしい)ことこの上な」い対応を取り、農民の感情を逆なでします。

 農民の代表たちは、公儀(幕府)に直訴することを決定し、直訴のため6、70人もの農民が江戸に赴き、11月26日、江戸城大手門前で、登城する老中酒井左衛門尉(さえもんのじょう)の行列に、嘆願書を掲げて訴えます(「駕籠訴」)。訴えたのは、東気良村善右衛門、同じく東気良村長助、切立村喜四郎、前谷村定次郎、那比村藤吉の4名。

 「駕籠訴」により訴状は老中酒井左衛門尉に受け取ってもらうことが出来ましたが、訴状を出した農民たちは、橋本町公事宿(くじやど・江戸時代、訴訟のために地方から江戸・大坂・京都などに出て来た者が泊まったところ。訴訟に関する諸事務の代行もおこなった)秩父屋半七方に「宿預け」を申し付けられます。

 一方、郡内の農民たちは、宝暦6年(1756年)3月、団結の証(あかし)として、郡内の150の村代表による「郡上郡村々傘連判状」を作成しています。

 宝暦6年(1756年)12月、北町奉行依田(よだ)和泉守より、宿預けになっている農民たちに申し渡しがあります。「美濃国郡上郡に帰国の上、村預け申し付ける」というものでした。

 検見取の撤回はなりませんでしたが、「軽いおとがめで済んだということは、まだ見込みがあるということやで」と自らを納得させ、国元に帰ります。

 駕籠訴をした定次郎ら4人は、罪人として駕籠に入れられ国元に運ばれますが、彼らを、数千人の農民が、「お駕籠訴さまじゃ」「大明神さまじゃ」と口々に言って出迎えました。

 江戸訴訟にかかった費用(交通費・宿泊代など)は757両余。その経費は、各村石高で割り当てられ、最終的に集まったお金はなんと1160両余。

 このお金は、貧しい「郡上惣百姓」の血が沁み込んだものでした。

 この入用金徴収の帳面は、歩岐島(ほきじま)村の四郎左衛門が預かっていましたが、宝暦8年(1758年)2月、藩の足軽や庄屋側についた農民たちにより「屋さがし」を受け、金銭とともに奪われてしまうという事件が起こりました。
 このことを知った農民たちは、およそ2000人が竹槍や石つぶてを持って、四郎左衛門の家に集まり、足軽たちともみあうことになりました。
 この事件は、「歩岐島騒動」と言われ、この整然と組織された「郡上一揆」の中では、数少ない乱闘シーンの一つでした。雷がなり、大雨が降り、足軽は刀を農民に向け、農民は石つぶてを投げて足軽らとどろだらけになって取っ組み合いました。

 埒(らち)の開かぬ状況に、郡上の農民代表は、江戸に出て「箱訴」することを決意します。
 
 「箱訴」とは、江戸の評定所(ひょうじょうしょ)の前に置かれた目安箱(めやすばこ・8代将軍吉宗の時にに設置される)に訴状を入れることで、死罪を覚悟しての行為でした。

 宝暦8年(1758年)の4月2日、6人の農民が箱訴を決行。
 歩岐島村次右衛門、二日町村伝兵衛、剣村藤次郎、東俣村太郎右衛門、市島村孫兵衛、向鷲見村弥十郎。

 その年6月、郡上農民の箱訴は、正式に幕府によって受理されることになり、「幕閣を巻き込んだ重大事件として大規模な裁判」が繰り広げられることになりました。

 その年の7月から12月まで、ほとんど毎日吟味が行われたようです。

 8月26日夕刻、駕籠訴によって村預けになっていた、切立村の喜四郎と前谷村の定次郎、そして切立村の吉十郎、前谷村の吉良治の4名が、北町奉行所に駆込訴(かけこみそ)を決行。4名は直ちに小伝馬町(こてんまちょう)の牢に投ぜられます。

 国元から関係農民が召喚され、投獄された農民の中には、厳しい責め問い(拷問ではない)と劣悪な獄内生活により、牢死する者が相次ぎました(21名)。切立村の喜四郎も責め問いにより衰弱し牢死します。

 宝暦8年(1858年)10月、ついに藩主や役人に対する判決が下ります。

 老中本多伯耆守(ほうきのかみ)は免職。若年寄本多長門守は領地没収の上、美作(みまさか)津山藩松平越後守へ永預け。笠松代官青木次郎九郎は免職。

 藩主金森頼錦(よりかね)は、領地没収の上、盛岡藩南部大膳大夫に永預け。

 郡上藩重役も、死罪・遠島(えんとう・島流し)・追放などの重い処分を受けました。

 江戸時代の農民一揆3000件余の中で、一揆が原因で老中など幕閣や藩主が、免職や改易(かいえき・領地没収)となったのは、この郡上一揆だけだった、とのこと。

 農民たちはどうなったか。

 宝暦8年(1858年)12月の暮れ、農民たちには、獄門(斬首のうえ晒し首)・死罪・遠島・重追放・過料(罰金)などの刑罰が言い渡され、即刻、処刑が執行されました。

 定次郎・四郎左衛門・喜四郎(すでに牢死)・由蔵は獄門。

 喜右衛門・長助・藤吉・治右衛門・伝兵衛・藤次郎・太郎右衛門(すでに牢死)・孫兵衛・弥十郎・吉右衛門は死罪。

 小伝馬町の牢の刑場(斬り場)において、彼らは首斬り役人の山田浅右衛門により、首を斬られます。

 定次郎らの首は国元に運ばれ、穀見村中野河原の松林において晒(さら)し首になりますが、ここには郡上農民が多数集まり、群集のどこからともなくお経の声が湧き起こったという言い伝えがあるそうです。


 配役は、定次郎に緒方直人。喜四郎に古田新太。定次郎の妻かよに岩崎ひろみ(初々しい演技がとてもよい)。定次郎の父助左衛門(牢死)に加藤剛。四郎左衛門(この人が一揆の実質的な指導者のように思われました)に林隆三。善右衛門に山本圭(駕籠訴のシーンの演技が秀逸)。公事宿秩父屋半七に篠田三郎。庄屋平右衛門に前田吟。

 ボランティア・エキストラが延べで3500名(その中には、地元の高校の男子学生も授業の一環として参加)。

 テーマ音楽は「姫神」の「大地炎(も)ゆ」より。

 城内の撮影が行われたのは、高山市内の高山陣屋。「歩岐島村騒動」の場面は、高山郊外の「飛騨の里」。両方とも、一昨年の夏に、家族旅行で飛騨高山に行った時、訪れたところです。とくに「高山陣屋」は、当時の代官所はこういうものであったか、と強く印象に残ったところです。
 江戸城大手門前の駕籠訴の場面は、「茨城ワープステーション」。江戸の町は「日光江戸村」。

 ストーリーの内容にも感動しましたが、それに劣らず感動したのは、時代考証がきわめて行き届いていること。これほど時代考証にこだわった時代劇は、他にはないのではないか。

 例を挙げると、
 
①侍の乗っている馬が、ずんぐりむっくりとした背の低い日本馬であること。有名な武田の騎馬軍団も、乗っていた馬は背の低い日本馬でした。たいていの時代劇に出てくる馬は背の高い西洋馬。

②駕籠訴の場面で、老中酒井伯耆守の一行が駆け足で登城していること。

③定次郎の妻かよ(岩崎ひろみ)を始めとして、既婚女性がお歯黒をしていること。これもたいていの時代劇では白い歯のまま。

④那留(なる)ヶ野で、集まった農民代表が、「一味同心」の「傘連判状」に署名し、鎌の刃で指を切って血判をしている場面。署名・血判の仕方・作法がよくわかります。

⑤公事宿秩父屋での、直訴成就を願っての「固めの杯(さかずき)」の作法。

⑥歩岐島村騒動において、農民たちが足軽たちに石つぶてを投げるシーン。

⑦方言を話していること。侍でさえも方言を使っていること。

⑧一揆勢が、喚声を上げて、旗を掲げ、竹槍(人を殺す武器ではない。抵抗するという意思表示のために持つ)を持って、走る場面の迫力。

⑨首斬り役人の山田浅右衛門が、着流しの姿(袴は穿いていない)で処刑を行っていること。

⑩史実におおむね忠実であること。

などなど。

DVDでは、神山征二郎監督自身による解説がついていますが、そこで、神山さんは次のように語っています。

 「歴史は、民、大衆というか、私たち一人一人が積み上げて来たもの」

 「民、大衆、国民の心といいますかね、そこに心が至らない政(まつりごと)はやっぱりほろびるというか、そのようなことを考えながら、映画作りをしていたような気がしますね」

 ちなみに、神山さんは岐阜県の生まれで、ルーツは農民であるということです。この「郡上一揆」の映画化は、長年温めてきたものだそうです。

 その監督の熱き思いと、ボランティアの人々の絶大なる支援が、この映画を「傑作」に仕上げたものではないか、と私は思いました。

 さて、藩主金森頼錦(よりかね)が領地没収、南部藩永預けになった翌年の宝暦9年(1759年)、この郡上八幡の城には青山幸道が、13代城主として入城します。
 以後、この青山家が、明治維新まで7代に渡って続くことになります。

 東京都港区青山の地名は、江戸時代に郡上藩の江戸屋敷がここにあった名残りであるということです。


○参考文献

 インターネット
  「宝暦郡上一揆」(詳しく説明されており、大体がわかります)
  「小学生の社会科 宝暦郡上一揆」(詳しい年表が載せられています)



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