鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その14

2012-10-21 06:21:11 | Weblog
 ガイドパネルによると、「銅山(あかがね)街道」が設定されたのは江戸時代の初め。足尾銅山が幕府(江戸幕府)直営となり、足尾で精錬された御用銅を江戸へ運搬するための公道として整備されたもの。

 足尾を出た御用銅は、沢入(そうり)→花輪→大間々(のちに桐原)→大原→平塚(のちに亀岡)の五宿に継送(つぎおく)りした後、利根川を下って江戸浅草の御蔵入りとなりました。

 江戸時代初期に銅山街道が整備されて、大間々には銅問屋が設けられていましたが、大間々が天領ではなくなったことにより、江戸時代の中頃になって銅問屋は桐原宿に移されたとのこと。

 ということは、大間々町がすでに出羽松山藩領になっていた天保年間に崋山が大間々町を訪れた時には、銅問屋は桐原宿に移されてしまっており、大間々町は御用銅の「荷継宿」ではなくなっていたことになります。

 崋山が「銅山街道」についてまったく触れていないのは、そのためであるのかも知れない。

 さて、幕末の「横浜開港」という事態に対して、上州の生糸や絹織物の生産者たちはどのような対応をしていったのか。

 桐生の絹買継商や機屋たち、大間々の糸繭商や機屋たちは、その未曾有の事態にどのように対処していったのか。

 それが私の最も興味関心のあるところですが、ガイドパネルの「大間々の生糸売込商たち」の解説によれば、横浜開港とともに活気を帯びていた生糸の貿易に、大間々からも3人の生糸商人が乗り出していったという。

 横浜に店を出した3人とは、吉村屋幸兵衛・藤屋藤三郎・不入屋(いらずや)伊兵衛。

 彼らは横浜の商人の中でも、外国商館への売込高では上位にあり、特に吉村屋などは横浜経済界の三巨頭の一人にまで駆け登り、明治9年(1876年)には日本からの生糸輸出量の15%をあつかっていたという。

 「安政6年(1859年)横浜の商店配置図」によれば、「吉村屋忠兵衛(幸兵衛)」や「藤屋藤兵衛」の店は「弁天通」に面してあり、「不入屋伊兵衛」の店は「弁天通」より海側に一本入った通りに面してあったことがわかります。

 20世紀初頭に、大間々─八王子を結ぶ鉄道として「阪東鉄道」が計画されたという『夕刊桐生タイムズ』の記事も掲載されており、当時、大間々出身の生糸商人などが持った経済力や政治力の大きさをうかがわせるものとして興味深いものでした。

 明治13年(1880年)に、大間々の有志とともに「盡節社(じんせつしゃ)」を結成して自由民権運動に積極的に関わり、後に会津若松で野口英世に英語を教えたり、また新渡戸稲造と厚く親交を重ねている「藤生金六」という人物にも興味を持ちました。

 「大通りに掘割のある風景/明治5年頃」という古写真も掲示されていました。

 大通り(本町通り)の中堀が埋められたのは明治10年(1877年)。

 大間々町を写した最も古い写真であると思われますが、誰が撮影したものかはわかりません。明治のかなり早い時期に、写真師が入り込んで写真を撮っているのが、開国とともに横浜とつながった大間々町の先進性を示しているように思われました。

 展示品やガイドパネルなどを一覧してから、3D映画(「立体映画」)の「恐竜アパトの大冒険」を3D用の眼鏡をかけて観た後、「コノドント館」を出たのが13:14。

 右隣の「奥村酒造」(創業宝暦年間)の店舗をデジカメで撮った後、その先の「大間々3丁目」交差点を右折して、いよいよ「高津戸峡」へと向かいました。


 続く


○参考文献
・『蔵の町大間々まち歩きマップ』(企画・制作:群馬県立桐生工業高等学校 平成22年度建設科<建築コース>3年)
・『大間々町誌 通史編上巻』(大間々町誌刊行委員会)


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