鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.7月取材旅行「神崎~佐原~津宮」 その最終回

2011-07-23 06:28:48 | Weblog
 やがて進行方向やや左手の、利根川へと川岸がわずかばかり出っ張ったところに鳥居の立っているのが小さく見えてきました。

 あれが津宮(つのみや)河岸の「浜鳥居」であるに違いない。

 「海から37.50km」地点を過ぎると、右手に、「↑銚子・東庄 →香取神宮 東関」の道路標示。「東関」とは、「東関東自動車道路」のこと。

 「浜鳥居」は、まもなく進行方向正面に見え、それからやや右手に見えてきました。利根川は、利根川へと右側から突き出した丘陵の突端を巡るように、ゆるやかに蛇行しているのです。

 右手の国道356号線の地名表示には「香取市津宮」とあり、ここが「津宮」であることを示しています。

 「海から37.00km」地点では、「浜鳥居」は堤防上の道(銚子小見川佐原自転車道線)の真正面に見え、まもなく、「浜鳥居」の手前の「銚子36km 小見川10km ←津宮渡船 2km→香取神宮」とある標示にぶつかりました(14:42)。

 「浜鳥居」は白木の木造で、堤防の利根川の流れの側(川岸)に立っています。鳥居の下に石段があって、それは川べりに続いています。その向こうはだだっ広い利根川の流れ。堤防の反対側には、倒れて分解した常夜燈が、赤い三角コーン2つに挟まれてありました。そして「昭和五十二年六月一日指定 香取市教育委員会」としるされた白い標柱がその真ん中に突っ立っています。

 倒れている石柱を見ると、それには「講中」と刻まれており、白い標柱の側面には、「常夜燈は江戸時代利根川水運が隆盛をきわめた頃、往来する船の目印として大きな役割を果たしてきた。」と記され、また反対側に回ってみると、その標柱には「香取市指定文化財 津宮河岸の常夜燈」とありました。

 真新しい赤い三角コーンが二つ置かれていることから考えてみても、この常夜燈は、今回の東日本大地震の大きな揺れのために倒れたものと思われます。神崎神社の石段の上り口右手にあった忠霊塔と同じように、地震のために倒れ、それから三ヶ月近く経った今もまだ修復の目途はたっていないようです。

 赤松宗旦の『利根川図志』の「津の宮河岸」の挿絵から判断すると、この常夜燈と「浜鳥居」はもっと接近していたものと思われますが、利根川改修による大々的な堤防工事が行われたことによって、ここ「津宮河岸」の河岸場としての風景もかなり変化し、鳥居と常夜燈は高い堤防で隔てられています。

 おそらく常夜燈の位置はそのままであり、「浜鳥居」は、崋山が訪れた文政年間からも何度か造りかえられ、その場所も堤防工事などにより移動しているものと思われました。この常夜燈は明和6年(1765年)3月24日に奉納されたものだという。

 崋山は、この常夜燈を目にしていることになりますが、その崋山が目にした常夜燈は残念ながら東日本大地震のために倒れ、現在は無惨な姿をさらしています。

 この常夜燈のところから内陸へと延びる道が、河岸から香取神宮へと通ずる道。その道を進んで舗装道路へと出たところで左折。

 レトロな旧「津宮郵便局」を左手に見て、まもなく「千葉交通」の「高速バス 津の宮」バス停を過ぎたところで、「→香取神宮」とある道路標示に従い右へ折れたところ、香取神宮を意識したJR成田線の香取駅の駅舎にぶつかり、そのままちょうどやってきた成田行きの普通電車に飛び乗り、帰途に就きました。


 終わり



○参考文献
・『渡辺崋山 優しい旅びと』芳賀徹(朝日選書/朝日新聞社)
・『新・利根川図志 下』山本鉱太郎(崙書房出版)


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