鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.7月取材旅行「三ヶ尻 Ⅱ」 その6

2013-08-12 06:11:27 | Weblog
 黒田宅の敷地の南側には東西に走る道がありますが、その敷地と通りの間にはよく刈り込まれた垣根があります。

 その垣根に沿って通りを少し戻ると、垣根は白いフェンスに替わり、黒田家の敷地とその西隣の家の敷地の間に、白いフェンスの柵が両側にある水路が延びていました。

 水路の両壁はコンクリート壁になっています。

 かつては黒田家の敷地のまわりをお堀のように流れていた水路であるのかも知れない。

 そこから今度は通りを東方向へと進んで行くと、その道は三尻公民館などがある大きな通り(県道47号線)に出たので、そこで左折して少し公民館方向へ進み、途中で左折して黒田宅の敷地の裏側へと回ってみました。

 するとそこにも白いフェンスが両側にあるコンクリート壁の水路が延びており、それは突き当りの山林のところで先ほどの水路とつながっているようでした。

 公民館前や郵便局前、また農協前などを経て、荒川に架かる押切橋に至る県道47号線は新しく造られた道であるから、崋山が三ヶ尻村を訪れた時にはなかったもの。

 ということはこの用水路は「奈良堰」につながるものであったとも考えられますが、たしかなところは分かりません。

 「三宅屋敷」には山林の中から湧き出る清水を利用してまわりにお堀があったということであり(だから「堀ノ内」と言われた)、その北隣の黒田宅にも山林の中から湧き出ている清水を利用したお堀か水路のようなものがあったものと思われる。

 敷地内に清冽に流れる水路があって、黒田平蔵の「観流亭幽鳥」の号はそれに由来するものでした。

 現在の敷地の西側と北側に流れる水路は、その名残りであるように思われました。

 そこから県道47号線に戻って、三尻郵便局の前を通過して「三ヶ尻」交差点のところに至ったのが7:42。

 そこで右折して、通りで三ヶ尻八幡神社のお祭りの準備で立ち働いていた笠原さんと黒田さんを見つけてお礼を述べ、「幸安寺北門」の少し手前で右折してみました。

 というのも、崋山の「瓺尻全図」によれば、そのあたりが「下宿」(実際は「上宿」)であり、そこから右折すると、「深谷道」や「折ノ口道」、そして「大谷海道」へとつながる道筋があったものと考えられたからです。

 現在は県道47号線が深谷方面へと至る道筋になっていますが、崋山の来訪時にはそれに重なるような道筋は三ヶ尻村にはなく、深谷方面へと至る道は「上宿」から、「八幡社」(三ヶ尻八幡神社)の背後を西北方向に延びていたものと考えられるのです。

 崋山の絵には「下宿図」という三ヶ尻村の「下宿」を描いたものがありますが、その画面の左側に、旅人や馬方が食事をしている茅葺き屋根の茶屋らしきお店が描かれています。

 この場所は実は三ヶ尻村の「上宿」であり、茶屋があるところの手前の犬がいる道を左へと進んで行けば、それは「深谷道」や「折ノ口道」、あるいは「大谷海道」とつながるのではないかと、私は推測しています。

 茶屋の前、用水路のある画面右側の通り(荷物を負った馬が休憩し、親子連れが歩く道)はもちろん秩父街道(熊谷道)であり、したがって私の推測がもし正しければ、街道を歩く親子連れは中山道熊谷宿方面へと向かっていることになります。

 ということで、その道へと入って行くと、左手にはコンクリートブロック塀があって、その向こうに長い瓦葺の屋根を持つ建物があり、また突き当りの道が左へとカーブしているところには、2階部分に赤い手すりのある瓦葺木造2階建ての建物と、その向かいにやはり重厚な瓦葺木造2階建ての商店らしき建物(左手に延びるブロック塀の尽きたところに)が見えました。


 続く



○参考文献
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)


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