鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 魚梁瀬まで その1 

2010-01-17 06:25:51 | Weblog
 私は歩いて県境の山を越えることはできないので、予定では車で県境を越えることにしていました。その林道の名前は、「大木屋小石川林道」。

 あらかじめインターネットや地図などで調べておきましたが、かなりハードな道のようで、車で入るような旅人は少ないようです。しかし四駆の小型ジープなどはなんとか入ることができるようで、そういう記事もインターネットで確認していました。

 私の愛車は、2年ちょっと前から、軽自動車の商用車になっています。取材旅行に備えて四輪駆動とし、また長距離移動をすることも考えてターボエンジンを搭載する車種にしました。走っている途中でボタンを押せば、二輪駆動(後輪駆動)から瞬時にして四輪駆動に切り替わります。

 未舗装の山道に入る場合に備えて四輪駆動としたわけですが、私はその四輪駆動の威力というものを、須走(すばしり)から富士山の五合目まで車で登って行った時に実感しました。登っていく途中で、「そうだ、これは四輪駆動だったんだ」と気付き、ボタンを押して四輪駆動に切り替えたところ、まるで道路にへばりつくようにしながら力強く五合目まで登って行ったからです。

 轟の滝の駐車場で出会った地元のおじさんは、県境のトンネルまでは最近車で入ったことがあるけれども、その先は通ることができるかどうかわからない、しかし通れないという話は聞いていない、といった情報を私に提供してくれました。

 そこで、車で行けるところまで行き、崖崩れなどで行き止まりになったら、無理をせず引き返すことにして、轟の滝の駐車場を出発しました。

 轟の滝から、寒ヶ瀬(かんがせ)へ出る渓谷沿いの道は、「県道148中部山渓轟公園線」という。かつてはもちろん車が入ることができるような道ではなく、渓谷沿いの、崖の中腹を行くような山道(「轟さん」への信仰の道)であったでしょう。

 寒ヶ瀬の赤い橋の手前でその「轟公園線」は、高知県の馬路(うまじ)へ延びていく道路とぶつかります。「←徳島│高知県 馬路→」と大きく記された案内標示が、突き当りの建物のコンクリート壁に貼ってあります。

 この寒ヶ瀬にも、海南町営バスが入っており、バス停が左手にありましたが、その停留所の名前は「轟口」。そこには、子ども2人を連れたお父さん(?)とその母親(孫の一人を膝の上に乗せています)の人形が、長椅子に座っていました。その左手の看板には「海南町川上農協平井出張所」とありました。

 そこを右折。赤く塗られた橋を渡り、まもなく左折してまた橋を渡ります。右手へ行くと道はやがて行き止まりになります。この橋を渡ったのが11:10頃。

 左折するところに、「道路情報 ← 大木屋小石川線 高知県側 通行止」と記された看板が立っています。またその看板の左上には、「←大木屋から高知県」と記された小さめの看板も。右上には「川又→」の看板。この先に「川又」というところがあるのです。

 左折すると、「林道 大木屋小石川線 起点」と書かれた角柱が立っていました。

 そこから舗装道路を7分ばかり進むと、またまた「林道大木屋線起点」という看板が現れ、その左手には「↑行止り ←大木屋小石川線高知方面」という立て看板。

 そこで左折。

 御船神社前→大木屋谷→山祇(やまずみ)神社→大木屋→六谷といった経路。大木屋には人家があり、右手の人家を修理している大工さんらしき人二人を見掛けました。その先は砂利道で人家はなく、道は屈曲しながらぐんぐん上へと延び、高度を上げていきます。ガードレールはところどころにあり、それほど危険を感ずる道ではありませんが、普通の乗用車で気軽に通れるような道ではありません。やがて視界が開け、右手に山の重なりが見えてきました。

 トンネルの手前に到着したのは、11:57。「轟口」からはおよそ55分かかりました。

 トンネルの名前は「大木屋小石川隧道(ずいどう)」。これを潜れば高知県に入ることになります。おじさんが言っていた通り、このトンネルまでは(つまり徳島県側)は道は一応整備されていましたが、その先がどうなっているかはわからない。

 「通行が難しくなったら、無理をせずに引き返す」と自分に言い聞かして、車を発車させ、一車線のトンネルのちょうど中ほどで、正午を迎えました。高知県側に入ったのです。


 続く


○参考文献
・『中江兆民全集⑪』(岩波書店)「阿土紀游」兆民居士


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