鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.1月取材旅行「麹町~隼町~青山通り」 その6

2014-02-05 05:53:30 | Weblog

 この東京メトロの「青山一丁目駅」近くのお店で遅めの朝食を済ませ、「青山一丁目駅前」バス停前を通過したのが9:44。

 左手にひときわ高い高層ビルが現れたので、どういう建物かと立ち寄ってみると、それは「パークアクシス青山一丁目タワー」というもので、46Fまである建物でした。

 何の前知識もなく立ち寄ったのですが、その3Fに「港区立赤坂図書館」とあるのを見つけました。6~46Fはマンションであるようです。

 ということでエレベーターで3Fへ上がり、ざっと「港区立赤坂図書館」内を見て回りました。

 その「港区立赤坂図書館」を出たのが10:06。

 「青山通り」に出てふたたび渋谷方面へと進むと、まもなく「厚木49km 渋谷3km」と記された道路標示が現れました。

 「三宅坂」交差点あたりからは、まだ2kmしか歩いていない勘定になる。

 寄り道等をしなければ、30分ほどでここまで来ることができる距離。

 すぐに渡ったのが「青山一丁目」交差点でした。

 明治神宮外苑の銀杏並木で小憩し、「青山小前」歩道橋を渡って東京メトロ「外苑前駅」を過ぎ、「浄土宗 梅窓院」の前に出たのが10:40。

 「梅窓院」は入口が高級料亭へ入っていくような雰囲気があり、その参道の右側には高いビルが建っています。敷地内に建てられた建物のようで、左手へと入っていく細い道を少しばかり歩いてみたところ、奥の方に広大な墓地があるようでした(コンクリート塀の上にあって、墓地はよく見えない)。

 気になって後で調べてみると、「梅窓院」は「青山の観音様」で知られた浄土宗のお寺であり、江戸時代の初期に、領主青山幸成の法号に因んで付けられた名称であるとのこと。この梅窓院の境内には、12代にわたる当主の墓石があるという。

 今まで歩いて来た「青山一丁目」交差点からこの「梅窓院」あたりまでの「大山道」は「青山五十人町」であり、その先が「青山百人町通り」。

 いずれもその両側に武家屋敷が並んでいますが、通り右側(北側)に沿って「丹波篠山藩(兵庫)青山」家六万石の中屋敷があったり、通り左側(南側)の武家屋敷の背後に「美濃郡上藩(岐阜)青山」家四万八千石の下屋敷があったりします。

 その「美濃郡上藩」の下屋敷に隣接(西側)して、浄土宗梅窓院が所在しています。

 この「美濃郡上藩」青山家下屋敷のかつての敷地は、現在は広大な「青山霊園」となっており、そこには大久保利通や中江兆民のお墓があったりします。

 「南青山三丁目交差点」バス停を過ぎ、しばらくして右手にお寺の大きな屋根が見えたので、通りの反対側に渡ってそこに立ち寄ってみると、それは「信州 善光寺別院」でした。

 家康が信濃の善光寺から勧請して谷中村に建てたものを、この地に移転したものであるらしい。

 古地図を見ると「青山百人町」(大山道)に面してあり、その背後には「安芸広島藩(広島)松平〔浅野〕」家42万6千石余の下屋敷が広がっています。

 善光寺の本堂の形は、信州長野の善光寺と較べれば小ぶりながらも、本物の善光寺と似ているように見受けられました。山門の手前から覗く本堂や参道の様子は、ここが「南青山」の「青山通り」前であることを忘れさせるような光景でした。

 「青山五丁目」交差点を過ぎ、「青山学院大学」の門前を通過してから、途中で左手にちょっと入ったところ、「渋谷区立渋谷図書館」と記された古びた看板のようなものを見掛けたので、国学院大学の方を目指してずんずん見知らぬ住宅地の中の道を入って行くと、その途中で現れたのが「東京都渋谷区立渋谷図書館」の赤レンガ風の建物でした。

 この「渋谷図書館」に立ち寄ったことで、その日のその後の行程は大きく変わることになり、「大山街道」(青山通り)からは外れることになりました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『ホントに歩く 大山街道』中平龍二郎(風人社)

・『復元 江戸情報地図』(朝日新聞社)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿