鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

天保騒動(甲斐一国騒動) その2 

2017-10-22 07:54:49 | Weblog

 天保4年(1833年)が、「天保の大飢饉」の始まりの年として当時の人々に意識されていたことは、前に触れたところです。

 その年は、甲州においては「五月廿日より六月中、一ヶ月日和と申ハ無之」(『並崎の木枯』)といった状態で、天気のよい日がほとんどありませんでした。

 「日和」がほとんどないばかりか、7月(旧暦・以下同じ)というのに富士山に雪が積もるほどの冷夏でした。

 また8月1日には大風雨があり(台風の襲来)、田んぼの稲も草木も風雨のために倒れ大きな被害が生じました。

 田植え(5月)後の稲が育つ大事な時期であるのに、5月下旬から6月にかけて日照が不足し、また7月なのに富士山に冠雪があるほどの低気温(冷夏)。さらに8月に入るとすぐに台風の被害を受けるといった悪天候の継続は、当然人々の間に米の不作が噂されることになり、実際にその年の秋は大変な不作となりました。

 そのために天保4年の夏以後になると、穀物は言うまでもなくさまざまな品物が高騰して「諸人困窮ニおよび候」(『天保九酉年凶年日記控』)という事態に至りました。

 将軍のお膝元である江戸ではどうであったか。

 この年(天保4年)8月2日、江戸の儒者松崎慊堂(こうどう)は「近日米価は涌起(ゆうき・高騰)し、百銭にて七合なり」とし、9月20日には「近日、都下は五合米にて百銭、人情はきょうきょうたり。卒歳の計(はかり)なし。奈何(いかん)せん奈何せん」と日記に記しています(『慊堂日暦』)。

 一ヶ月半余で米価は1.4倍となっており、5月頃と較べると江戸の米価は2倍以上に跳ね上がっていました。

 人情は不安げで、今年をどう乗り切ればいいかその方法も考え付かない。

 「どうしようか、どうしようか」という気持ちは多くの江戸市民に共通したものであるとともに、慊堂自身の気持ちでもあったでしょう。

 8月14日、大坂町奉行は米価騰貴抑制の触(ふれ)を出したものの、播州加古川筋では総勢一万人が加わったという大規模な「打ちこわし」が発生しており、慊堂は日記にそれを「播磨一揆」として記録しています。

 この松崎慊堂と親しい交流を重ねていた渡辺崋山(登)は、この天保4年に何をしていたかと言えば、1月から4月にかけて年寄役末席(家老)として、田原藩領である三河国渥美半島の田原城下に滞在し、渥美半島沿いの村々や神島、佐久島を訪れる旅も経験しています(『参海雑志』の旅)。

 5月には江戸へ戻っていますが、そのしばらく後に天候不順による「天保の大飢饉」が全国的に発生することになりました。

 「天保の大飢饉」の始まる天保4年の後半から、それが一応の終息を見せる天保9年(1838年)までの間、石高1万2千石の小藩であった田原藩の一家老として、崋山が藩内の飢饉対策や藩財政の運営のために奔走したであろうことはまず間違いありません。

 その天保4年の彼の日記は、『参海雑志』においては4月25日に田原城下を江戸に向けて出立するところで終わっていますが、実際は江戸に戻ってからも彼の日記は書き続けられていたものと思われます(毎日ではなくとも)。

 しかし何らかの事情で現在はほとんど残されておらず、その後の日記で残っているのは天保11年7月1日に始まり同年12月28日に終わっている『守困日歴』だけであり、その間7年ちょっとの彼の日記を私たちは見ることはできません。

 この間に起きている大きな出来事は、「天保の大飢饉」であり、それに端を発する「天保騒動」などの「打ちこわし」であり、「大塩平八郎の乱」であり、そして「モリソン号事件」でした。

 彼のその間の日記が残されていれば、それらの事件に対する彼の反応を垣間見ることができたはずですが、残されていない以上、それを推測するしかありません。

 私が、崋山が『天保騒動』にどう反応したかを推測する際にとりわけ注目したいのは、天保2年(1831年)9月に彼が大山街道を歩いた時の見聞です。

 その見聞は『游相日記』という旅日記の中に書き留められています。

 天保4年(1833年)の後半に「天保の大飢饉」が始まって以後の崋山を取り巻く状況は、その深刻さのゆえにそれ以前とは全く一変することになりました。

 その深刻さを増す状況において、一国の家老としての立場から領国経営に関する危機意識(対外的な危機意識も)を深めていくことになるのですが、その危機意識はすでに家老になる以前からすでに芽生えていたものであることを、『游相日記』からうかがい知ることができるのです。

 崋山は『天保騒動』にどう反応したか。

 これはその時期の日記が残されていない以上、推測するしかないのですが、崋山がそれに全く反応を見せなかったという推測だけは決して成り立たたないと私は考えています。

 では、『游相日記』にはどういう見聞が書き留められているのでしょうか。

 

 続く

 

〇参考文献

・『山梨県史 資料編13』(山梨県)

・『慊堂日暦4』(平凡社)

・『渡辺崋山集 第1巻 第2巻』(日本図書センター)



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