牧平(まきだいら)の神明神社横から鼓川(つづみかわ)に架かる橋を渡って左折して塩平へと向かう途中、道路右手に道祖神御仮屋を見つけました。
御仮屋は前面の下半分が藁束で作られ、上半分は杉葉で作られています。
上半分の杉葉の正面真ん中から藁で作った大きな陽根が突き出しており、先端には神明神社横の御仮屋のそれと同様にみかんが付けられ、それから一本の白い幣紙が垂れています。
陽根の中ほどには立派な注連縄(しめなわ)がリング状に掛けられ、その陽根は交差する2本の竹棒によって支えられています。
その竹棒はまるで角のようにも見えます。
よく見るとその陽根の根元の少し下に藁で作った2つの玉のようなものもありました。
藁束と杉葉で作られている御仮屋は初めて見るもの。
また陽根に太い注連縄がリング状に掛けられているのも初めて見るものでした。
それほど距離的に離れていないのに御仮屋にもいろいろなバリエーションがあるものだと思いました。
背後にやや離れて、立派な石垣の上に換気と採光のための「越し屋根」のあるかつては養蚕農家であったと思われる大きな屋敷がありました。
「御山飾り」はというと道の向かい側の「上道公民館」の横の広場に立てられていました。
火の見櫓と「北原区リサイクルステーション」と記されたゴミ集積用の倉庫がある小さな広場。
角材に結わえ付けられた竹の支柱の先に笹竹が結わえ付けられ、その下に輪があり、その輪を支えにして色紙が結わえ付けられた7本の棒が四方に垂れさがっています。
また笹竹の根元にも一本、同じような棒がしなって垂れています。
さらに笹竹には赤い円盤状のものも取り付けられていました。
この旭日を思わせる飾り物も初めて見るもの。
「どんど焼き」はおそらくこの公民館横の小さな広場で行われるのでしょう。
ここからまた車に乗って県道西保線(旧秩父裏街道)をさらに山間(やまあい)へと入っていきました。
山奥の人家が尽き始めたあたりに杉葉や木の枝が積まれた広場があり、その向こうに石祠などの石造物やコンクリート製の幟枠が並んでいるのを見掛けて車を停め、その広場に近寄りました。
基壇に載る石祠の下には丸石が五つ並んでいます。
これは道祖神の石祠であるでしょう。
しかし杉葉や藁束で作られた御仮屋が小正月であるのにここにはありませんでした。
その石祠の右横には双体道祖神とおもわれる石造物があり、その前に丸石がやはり五つ置かれています。
道祖神が石祠型と双体型が二つ並んでいることになります。
御仮屋が設けられていない小正月の道祖神を私はここで初めて見たわけですが、道祖神が丸石そのものではなく石祠型と双体型であることに意外な感を覚えました。
私はこのあたりの道祖神御仮屋の中には丸石が鎮座しているものと思い込んでいたのですが、もしかしたらこの道祖神場の道祖神のように石祠型や双体型である可能性も考えられたからです。
今まで見て来た御仮屋の、御仮屋のない実際の道祖神を見てみたいと思いました。
ここは鼓川の上流で旧秩父裏街道の甲州側最奥の集落であるようです。
車をさらに奥に走らせると、山の切れ間からはるかに富士山が見える場所があり、また「塩平の獅子舞」と記された案内板が立っているのを見つけました。
その案内板によれば、塩平は公卿の落人(おちうど)によって開拓されたと伝えられ、公卿平、公卿の墓等の遺跡があるとのこと。
この塩平の獅子舞は毎年一月十四日に小正月行事として行われる道祖神祭で、この獅子舞は古くは若衆組、その後青年層により伝承され、現在は保存会である新郷会員によって継承され、親宿を中心に昔から伝統を守り厳粛に行われているという。
獅子舞の種類には、「三番叟」(さんばんそう)、「ご幣の舞」、「剣の舞」、「狂の舞」、「幕の舞」があるが、かつてはこれらのほかに「鳥刺踊」、「七福神」、たたら万歳や歌舞伎狂言などもあったといったことが記されていました。
いろいろな種類の獅子舞がかつては「若衆組」によって担われて行われていたこと、また「たたら万歳」や「歌舞伎狂言」なども道祖神祭礼の時には行われていたことを知りました。
かなり盛大な共同体の祭りであったのです。
甲府道祖神祭りでは「俄」(にわか)と言って「俄狂言」が行われました。
祭りの時に町人が仮装などをして演じた即興狂言ですが、このような狂言は恵林寺近くの藤木地区でもかつては村で起きた出来事などを面白おかしく即興狂言として演じたようです。
この塩平地区でも「たたら万歳」や「歌舞伎狂言」など、即興的な演芸が道祖神祭礼の時に村人たちの手(とりわけ「若衆組」)によって行われていたことがわかります。
またこの案内板によってこのあたりの集落が「塩平」であることも確認できました。
しかしこの塩平の道祖神場の道祖神には、今まで各地で見てきたような「御仮屋」の設けはなく、また「御山飾り」もありませんでした。
道祖神はそのままの姿で道祖神場に鎮座していたのですが、なぜ御仮屋の設けがなく、また御山飾りの設けもなかったのか、聞く人も見つからなかったため結局わからずじまいに終わりました。
続く