鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.3月「長谷~七里ガ浜~江の島」取材旅行 その6

2009-03-22 07:19:59 | Weblog
 小動神社は予想外に立派な神社で、参道の左手には背の高いコンクリート製の倉庫のような長い建物が一棟あって、それに手前から下町・神戸・濱上・土橋・中原と大書されていて、山車(だし)の倉庫のように思われましたが、帰宅してから調べてみると、やはり山車を保管する倉庫でした。まだ新しく立派な倉庫です。7月の第一日曜日から第二日曜日にかけて行われる天王祭においては、それらの町内の山車が、あの江ノ電が真ん中を走る通りを練り歩くとのこと。これは見物(みもの)です。天王祭最終日には、江の島の八坂神社のお神輿(みこし)が、小動神社のお神輿とともに小動神社に渡御(とぎょ)するという。

 江の島と小動神社は、深いつながりがあるようです。

 社殿の左手には「海(わたつみ)神社」というのがありました。漁業の神・航海の神で、鳥居の刻銘は、「腰越村三ヶ町名主 木村徳左衛門 池田仁兵衛 享保十三戊申季5月吉日」というもの。「享保十三年」といえば、西暦では1728年。今から280年も前のこと。もっとも、平成14年に修復されています。

 「御嶽山神社」というのもあって、行者・先達、講元、世話人の名前が刻まれている石碑があり、さらに「日露戦勝記念碑」や「金刀比羅宮」もある。

 広場の海に出っ張ったところにコンクリート製の四角い見晴台があり、そこへ上がると、相模湾の広大な広がりの中に、江の島が間近に見えました。右下は腰越漁港で工事中。江の島方面からは、なぜか太鼓の音が響いてきます。

 この小動神社(八王子社)というのは、文治年間(12世紀後半)に佐々木盛綱が父祖の領地であった近江の八王子社を勧請(かんじょう)したもので、腰越村の鎮守であったという。

 幕末には、この高台から相模湾を見晴るかすことができるため、遠見番所兼用の小さな砲台があったということですが、見晴台付近から社殿の海側にかけてのどこかにその砲台があったと思われるものの、遺構らしきものも、またそれに関する案内板もありませんでした。

 この見晴台のところで小憩し、ふたたび通りに出て左折。左手に「腰越漁業協同組合」の建物を見て、「←腰越漁港入口」のところで左折。駐車場の中を進んで、川(神戸川〔ごうどがわ〕)の河口付近の堤防に至ったところで、堤防の上に座り、少し早めの昼食を摂りました。

 この駐車場に立ち寄ったのは、持参の1枚の写真の撮影地点を探るためでした。その1枚の写真とは、例によって、「長崎大学付属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」の、「江の島」関係の写真の1枚。「漁民」と題されていて、目録番号は1228。撮影者は未詳。

 インターネットで簡単に見ることができるので、興味のある方はご覧下さい。

 浜辺に1隻の漁船が引き揚げられていて、その舟の上に、侍のような男2人と侍の子どものような男の子が立っています。舟の手前の砂浜には、頬かぶりをした男2人が座り、その右奥に漁師の子どもらしい男の子(か女の子)ともう一人立ち姿の男性がいます。右端には舟を繋ぎとめるためのものか柱が1本立っている。よく見ると、その中の何人かは、自分たちが獲った魚を手にしています。

 沖合いには漁船が浮かんでいるのが見え、また左手奥には岬があって1本の大きな松の木が崖の途中から海に向かって張り出しています。

 この左手の岬は、小動崎(こゆるぎさき)の一部であると見当をつけ、腰越漁港の駐車場に入ってみたのですが、情景はかなり変わっています。浜辺はコンクリート敷きの駐車場になっていて車がいっぱい止まっています。海に張り出した松の木はありません。

 しかし、この写真に写る浜辺は、やはり腰越の浜のように見える。手前右に写っている男たちや子どもは、腰越の集落のものたちであり、この浜辺は腰越漁港の昔の姿である、と私は推定しました。

 となると、この写真を獲った者の背後には、腰越漁港の砂浜と、そして海に流れ込む神戸川(ごうどがわ)の流れがあるはずです。

 撮影地点は、現在私が座っている神戸川の堤防よりもっと小動崎に寄ったところ。

 ということで、昼食を終えてから、駐車場の真ん中の道を小動崎の方へ歩いていくと、道端に4、5人ほどの地元の方と思われる年輩の男性が、集まって話をしているのを見掛けました。これ幸いと、「ちょっとお伺いしていいですか」と声を掛けました。

 「この写真は、この腰越の浜で撮ったものと思うんですが、この漁師が持っている魚はなんという魚ですか」

 おじさんたちは私の差し出した1枚の写真を見て、

 「これは一本松だよ」

 と即座に声を発しました。

 「しばらく前までここにあって、崖が崩れて今はなくなってしまったよ」

 「浮世絵なんかにも描かれた有名な松の木らしいよ」

 と別のおじさん。おじさんと言っても、みんな70代前後の方。

 「これはずいぶん古い写真ですよ。舟に乗っているのはお侍さんのように見えるから」

 と私。

 「ほう、たしかにお武家さんのようだ」

 「となると、幕末か明治維新の頃に撮られたものかも知れません。篤姫が生きていた頃の写真。腰越の漁師を写したもっとも古い写真であるかも知れませんよ」

 「へぇー、よくこんな古い写真が残っているもんだ」

 私は持参している江の島関係の古写真のコピーの束を、おじさんたちに渡しました。

 それをきっかけに、これらの写真にちなむいろいろな話を、おじさんたちから聞かせてもらいました。

 腰越の浜と小動崎を写した写真がもう1枚あります。それは、やはり「長崎大学附属図書館」の例のメタデータの「江の島」関係41枚のうち、目録番号117、「江の島海岸(1)」というもの。これは撮影者がわかっています。あの日下部(くさかべ)金兵衛です。

 撮影年代はわからない。しかしこれもそうとうに古そうです。

 右手前の砂浜に、莚(むしろ)状のものがかぶせられた漁船が写っています。広い浜辺にはほかにも舟が数隻引き揚げられています。海岸の右奥に見えるが小動(こゆるぎ)崎。その付け根左側奥に腰越の集落が見えます。その集落のある浜の、小動崎に寄ったところが、目録番号1228の先ほどの「漁民」という写真が撮影されたところ。

 おじさんたちが「一本松」と呼んだ松の木は、この遠く離れた地点と角度からは、木の繁りに見えます。小動崎の上には何本かの大きな松の木が聳(そひ)えています。

 「小動」という地名のいわれは、この岬の松の木が風もないのに小刻みに揺れていることから、と伝えられているようですが、この岬の松の木は、古来その姿形で有名であったのでしょう。

 この写真に写る集落の一番片瀬寄りの家が、「池田」といって、現在も国道沿いに「池田」と記されたお店があるところ。現在、そのお店の片瀬寄りにある家は、もともとはなかったもので、「浜上(はまじょう)」から移ってきたものであるとのこと。浜には物置小屋などがあり、集落は通り沿い、すなわち現在の江ノ電が走る通りにあって、かつては浜側には道はなかったのだ、とのこと。

 日下部金兵衛の、目録番号117の写真で言えば、写真の中央やや左の少しへこんだところから左端中央にかけて、かつては唯一の道(腰越から片瀬に至る道・現在の江ノ電が走る通り)が走っていることになります。

 浜辺近くを国道134号線が走る現在とは、大違いなのです。

 こういったことも、1枚の古写真をきっかけとした地元のおじさんとの会話から知ることができました。

 もう1枚、この腰越の浜から写した写真があるのですが、その写真のことについては、次回に触れることにします。その写真を写したのはあのフェリーチェ・ベアト。おそらく江の島を写した最も古い写真の1枚です。

 そして、あの写真に写っていた魚が何であったかということも、次回に触れたいと思います。


 続く


○参考文献

 ネット
・「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」
・「小動神社」(Wikipedia)
・「東京紅団 太宰治を巡って」


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