鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.7月取材旅行「三ヶ尻 Ⅰ」 その2

2013-07-26 05:32:20 | Weblog
 県道に面して立つ石鳥居を潜り、まっすぐ延びた参道に入って行くと、右手は公園となっており、左手は駐車場になつていました。

 何の建物の駐車場かと表に回ってみると、入口に「熊谷市三尻公民館 熊谷市役所三尻出張所」とありました。

 2階建て鉄筋コンクリートのやや古い造りの建物です。

 表側(県道側)にも裏側にも駐車場があり、早朝ということもあって、駐車場には車は1台も停まっていません。

 私の車を石鳥居の前にずっと停めておくわけにもいかないので、これを幸いと、車に戻り、公民館裏手の駐車場へと車を移動させ、そこから八幡神社へと向かいました。

 公民館の裏手には県道と平行するやや幅の狭い道があり、その道に八幡神社の次の鳥居(石鳥居ではなく木製の鳥居)は面しています。

 その鳥居を潜って奥へと参道は続き、その参道の奥の方に石段と3つ目の鳥居、そのさらに奥に賽銭箱のある社殿が見えました。

 参道両側には旗も林立しており、それには「奉納 八幡神社」という文字が見えます。

 鳥居の傍らには「熊谷市三ヶ尻八幡神社社叢ふるさとの森」と記された看板が立っていて、それには八幡神社について次のような記述がありました。

 八幡神社は天喜四年(1056年)、鎮守府将軍源頼義と、嫡男八幡太郎義家が、前九年の役出陣にあたり、特にこの地に兵をとどめ、戦勝を祈ったところ

 であること。

 そして本殿・拝殿は平成12年に新装となったということ。

 義家が愛馬をつないだといわれる杉の巨木が、神木として残っているということ。

 林相は、スギ・ヒノキ・スダジイ・モミ・カシなどから構成されているということ。

 これらの記述から、この神社は源頼義や八幡太郎義家と深い関わりのある神社であること。そしてその現在の拝殿や本殿などは、平成12年に新装されたばかりの新しいものであることがわかります。

 注連縄の架かる木製の大きな鳥居を潜り、参道をさらに進み、石段を上がって鳥居(今度は石鳥居)を潜って、拝殿の前に出ました(6:28)。

 拝殿前の参道は立派な石畳であり、その両側には狛犬も石灯籠もあります。

 崋山が描く「八幡社」の拝殿に比べると、ちょっと横幅が広く、一回り大きく見えます。

 崋山来訪時の拝殿前の参道は石畳ではなく、土の道であるようです。

 境内には義家が愛馬をつないだという杉の巨木(神木)の幹の部分が、屋根付きの建物に入った状態でありました。新しい太い注連縄が巻かれています。

 その境内の裏手へと進んで行くと出口があり、その出口を出たところは三ヶ尻小学校でした。

 そこからぐるっと八幡神社の社叢を回って、社叢の一画にある「三ヶ尻村靖国社」の前を通過し、木製鳥居の前で通りを左折して参道を戻って県道に面した石鳥居の前(最初、車を停めたところ)に出て、そこから公民館を右手に見て、県道を南方向へと歩いて行くことにしました。



 続く



○参考文献
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)


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