細い舗装道路を進むと右手に「滝子沢」の案内表示。
先ほどの案内マップには「滝子沢」とありましたが、この案内表示には「滝子川」とあります。
中央線の鉄道下のトンネルを潜り、坂道を上がると左手に比較的新しい「双体道祖神」があり、その左横に「一里塚跡 白野」と記された案内柱が立っていました。
ここに一里塚があったということは、甲州街道は現在の国道20号の右手の山裾を通り、滝子沢を渡って、さらに山裾を進んで白野(しらの)宿に入って行ったものと推測されますが、その旧道らしきものは一里塚と同様に見当たりません。
道祖神や一里塚跡を示す標柱の背後はフェンスがあり、その先を見ることができません。
さらに道を進むと中央自動車道を潜るトンネルがあり、そのトンネルを潜ると急な坂道になって左手に「天神社」と記された案内表示があって、その先の石段の上に天神社の小ぶりの社殿が背中を見せていました。
石段を上がって社殿の前の広場に出てみましたが視界は開けない。
天神社の基礎はコンクリート製で新しいものであり、この天神社がもともとここにあったのかどうかもよくわかりませんでした。
しかしおそらくこの天神社の南側下に旧甲州街道が走り、その両側に一里塚があって、そのさらに下方には笹子川が流れていたものと推定することができました。
旧甲州街道は、水害や鉄道(中央本線)の敷設や中央自動車道の建設により、このあたりでは寸断されたり崩されたりして、かつてのルートはかなり失われているものと思われました。
さらに坂道を進んで行くと、左手に「木炭焼釡」の案内表示があり、その上には石積みの基礎が段々になって長く横に延び、その石垣の段上の平場には木々や雑草が茂っていました。
これらの石垣はおそらくかつての集落か作業小屋の敷地の、それぞれの基礎部分にあたると思われました。
この石積みの石垣の上の平場にかつては人家か作業小屋があったものと思われ、その石垣が段々になっていることを考えれば、人家か作業小屋は山の斜面にあり、いくつかの層をなして建っていたものと考えらます。
さらにその人家か作業小屋の下に「木炭焼釡」があることを考えれば、この人家か作業小屋は「炭焼き」(木炭生産)に深く関わるものと推測することができます。
先ほどの案内マップに「渡戸」とあったのは、この集落の名前が「渡戸」といったことを示すものではないかと思われました。
「木炭焼釡」の案内表示が立っている斜面に「焼釡」の焚き口がありましたが、その焚き口の部分は黒い鉄板状のもので覆われていました。
「木炭焼釡」はおそらく、この一ヶ所だけでなく多数、山の斜面のあちこちに造られていたと思われます。
よく見ると、道の傍らには鉄製の幅の狭い線路が露出していました。
これはトロッコか何かを走らせる軌道の残存物であり、かつて大量に生産された木炭をトロッコで下へと運送するものであったものと思われる。
その軌道がどこまで続いていたかはわからない。
中央本線の初狩駅か笹子駅か。それとも下の国道までか。
つまり、想像をめぐらせば、この旧甲州街道から滝子沢に沿って上がったところには、「渡戸」と呼ばれる集落(人家や作業小屋)があり、かつて木炭生産を中心的ななりわいとして生活していたけれども、木炭生産が利益を生まなくなってから人家が減り、やがて人々はその集落から離れ、人家も朽ち果ててしまったということです。
その「渡戸」の集落の西側には「峰の山」があり、東側には沢(滝子沢)向こうに「天神山」があり、滝子沢を遡れば「滝子山」があります。
その豊かな山々の山林を利用して、盛んに木炭生産(炭焼き)が行われ、さらにその生産された大量の木炭を、鉄路を敷いてトロッコで下に運ぶことまで行っていた時代があったのです。
その集落が江戸時代からあったものなのか、それとも明治時代になって出来たものなのか、そしていつから人が住まなくなったのかは、今のところ私はわかりませんが、おそらく昭和20年代か30年代までは人家(ないし作業小屋など)があって炭焼きが行われていたのではないか、と思われました。
さて天保7年(1836年)の8月20日(旧暦)にこの白野(しらの)宿手前の天神社付近の「天神林」に集まった郡内甲州街道沿いの村々の男たちは、総勢600人とも800人とも言われ、正確な実数はわかっていません。
そしてその翌日21日の早朝、勢ぞろいした百姓たちはこの「天神林」を出立して、白野宿→阿弥陀海道(あみだかいどう)宿→黒野田宿を経て、郡内と国中(くになか)の境である険しい笹子峠を越え、山梨郡万力(まんりき) 筋熊野堂(くまのどう)村(現在の笛吹市春日居町)の奥右衛門宅を目指したのです。
続く
〇参考文献
・『上野原町誌 上』(上野原町誌刊行委員会)
・『大月市史 通史編』(大月市)
・『山梨県史資料編13 近世6上』(山梨県)
・『山梨県史 通史編4 近世2』(山梨県)