「犬目」のバス停を過ぎたところで、ほぼ真っ直ぐで平坦な街道筋に連なっていた家並みは途絶え、道は森にぶつかって右手へ大きくカーブします。
カーブしたところにあったお寺が「龍澤山 寶勝寺」(曹洞宗)で、コンクリートの階段下に「観音さまから見える富士は絵になります。どうぞご覧下さい」と記された看板の文字がのぞいていました。
北斎や広重の、犬目峠から眺めた富士山の浮世絵が記憶にあったので、さっそく階段を上がって山門を潜り、本堂左手にある新しい観音像のところへ行くと、そこには次のように記された看板がありました。
「葛飾北斎『冨嶽三十六景』歌川広重『不二三十六景』の富士山は、この辺りから描いたと言われています。」
そこから富士山方向を眺めてみましたが、あいにくうす雲が空を覆っていて富士山の姿は見えませんでした。
「犬目峠」が、「座頭ころがし」のある「矢坪坂」(大目地区矢坪と新田の間)の辺り、あるいは矢坪坂から安達野を経て犬目宿の宝勝寺のあたりまでと考えた場合、広重の描く『冨士三十六景 甲斐犬目峠』も『不二三十六景 甲斐犬目峠』も、実際の犬目峠を描いたものではないことがわかります。
というのは、その二つとも旅人が歩く甲州街道のほんの左下を川(おそらく桂川)が流れているからです。
『冨士三十六景 甲斐犬目峠』に見る桂川両岸の断崖絶壁は、猿橋や大月を流れる桂川の風景に近く、『不二三十六景 甲斐犬目峠』に見る桂川は境川番所(諏訪番所)下の桂川の風景に近い。
広重が諏訪番所手前の茶屋で桂川を眺め、また猿橋で桂川を眺めたのは確かであるから、考えられるのは犬目峠から眺めた富士山の風景と、広重が絶景と見た桂川の風景とを合体し、鳥瞰的に描いたものであるということ。
犬目峠で広重が休んだ茶屋「しがら木」は、「犬目峠の宿しがら木といふ茶屋」とあります。
「犬目峠の宿」というのは「犬目宿」であると考えられるから、「しがら木」は犬目宿にあったものと推測できますが、であるとすれば、『不二三十六景 甲斐犬目峠』の街道沿いに描かれている茶屋は、「しがら木」茶屋ではないということになります。
広重は甲州街道を何度か歩き、そして感動を覚えた風景をはじめとして興趣を感じたもの、興味関心を抱いたものを写生(スケッチ)していることは確実ですが、特に浮世絵の風景版画とする際には、写生した風景そのものではなく合体させたり鳥瞰的にしたりと彼の頭の中で再構成していることがわかります。
では一方、北斎の『冨嶽三十六景 甲州犬目峠』はどうか。
この絵では犬目峠から見える郡内の山々は谷間を覆う雲か霧を描くことによってそのほとんどが捨象され、雪を頂く富士山だけがクローズアップされています。
実際に犬目峠から見える富士山はこれほど大きくはなく、また裾野までこのように大きく見えるものでもありません。
また犬目峠は扇山の急斜面(山腹)を走っていて、街道右手がこのように大きく広がっているわけではありません。
これでは犬目峠は尾根道の草原を走っていることになります。
北斎の絵もまったくの写生画ではなく、写生をもとに北斎の頭の中で再構成したものと考えられます。
甲州街道が小仏峠を越えて相模・甲斐の両国に入ると、街道は山間(やまあい)を屈曲上下しながら進み、ところによっては周囲の山々を遠望しながら旅人は歩を進めていくわけですが、近づいてきているはずの富士山はいっこうにその姿を見せません。
しかし犬目峠に差し掛かったあたりから、行く手はるか、郡内地方の山々が連なる先の合間から、いきなりその流麗な姿を現します。
特に郡内の山々は濃い緑であるのに、その先に白雪をかぶった富士山がくっきりと見えた時の感動は大きなものであったでしょう。
確かに富士山のある甲斐の国にやって来たのだという感動です。
とりわけ街道を歩いてきた「富士講」の人々にとっては、その富士山が望める場所は礼拝(遥拝)の地であったでしょう。
犬目峠=富士遥拝の地、というイメージ。
広重や北斎の絵に共通するのは、浮世絵の買い手(圧倒的に庶民が多い)に対する、程度の差はあれ旺盛なサービス精神であったと思われます。
続く
〇参考文献
・『北斎・広重の冨嶽三十六景 筆くらべ』(人文社)