太宰が深浦で訪れたかったところは円覚寺であったようであり、深浦駅で下車すると、太宰はまっすぐに町はずれの円覚寺に向かいました。
五能線の深浦駅は、深浦町の北東部にあり、町の外れといっていい。
円覚寺は、深浦町の西よりにあり、やはり町の西はずれといっていい。
太宰は、町の東の外れである深浦駅前から、町の西外れである円覚寺まで、海岸に沿った「大間越街道」を歩き、その両側に人家が櫛比する深浦の町を通り抜けたことになります。
あとで立ち寄る郵便局も、そして秋田屋旅館も、その通り筋の町中にありました。
この深浦町についての印象は、「底落ちつきに落ちついてゐる感じがする」というものであり、「完成されて」いて、「旅人に、わびしい感じを与へるもの」でした。
情景描写としては、「丘間に一小湊をなし、水深く波穏やか、吾妻浜の奇巌、弁天嶋、行合岬など一とほり海岸の名勝がそろつてゐる。しずかな町だ。漁師の家の庭には、大きい立派な潜水服が、さかさに吊されて干されてゐる。」と記すくらいで、参拝した円覚寺や薬師堂に関する記述は何もありません。
実にそっけない。
戦時中であることが、まるで嘘のように感じられるような深浦の町の落ち着いたたたずまいで、日々の日用必需品を手に入れるのにもやっとな戦時下の東京とは大違いでした。
その、戦時中とは思えない光景に、あとで太宰は「越野たけ」と再会する小泊村でも出くわすことになります(小泊国民学校の運動会)の様子。
津軽旅行中の太宰は、東京の子どものことを「なるべく思ひ出さないやうにして」いましたが、円覚寺の薬師堂を参拝してから、深浦の海岸に降り、岩に腰掛けて日本海や海浜の村の風景を見ているうちに、東京の子どもや妻美知子のことを、ふと思い出しました。
「心の空虚の隙をねらつて、ひよいと子供の面影が胸に飛び込む。」
子どもは百日咳を患い、妻の美知子は二人目の子どもを近く産もうとしていました。
戦時下において、自分は、そして自分の家族はどういう運命をたどっていくのだろう。
津軽半島西海岸の、戦時中とは思われないような町の風景の中に置かれた太宰は、急に東京にいる自分の子ども(百日咳を患う)や、出産間近い妻のこと、つまり厳しい自分の現実を突き付けられたのです。
ここで、ふと気になるのは、太宰は円覚寺の薬師堂で何をおまいりしたのかといったこと、またなぜ円覚寺を訪ねようと思ったのかといったこと。
「国宝」に指定されていることを知っていて、いつかは訪ねたいと思っていたのだろうか。
円覚寺の薬師堂内厨子は、現在、国の重要文化財になっており、この円覚寺薬師堂には、あの菅江真澄も参拝しています。
この円覚寺は、深浦町の「澗口観音」として「西廻り航路」の船乗りたちから篤い信仰を受け、また代々の津軽藩主からも厚い庇護を受けていた真言宗密教系(修験道系)のお寺でした。
続く
〇参考文献
・『津軽』太宰治