鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 熊本その2 

2009-01-21 04:46:38 | Weblog
 横井小楠(しょうなん・平四郎・1809~1869)は、幕末の福井藩にとって恩人とも言える人物です。幕末の一時期、福井藩は政局の中心に登場したことがありますが(松平慶永〔春嶽〕の政治総裁職就任)、その時の補佐(政治顧問)をしたのがこの横井小楠。安政5年(1858年)、熊本藩では不遇であった小楠の、その思想に心服した福井藩主松平慶永は、熊本藩と掛け合って小楠を福井に招聘。その小楠の指導のもとに藩政改革が行なわれ、その改革は見事に成功を収めたのです。その実績のもとに、慶永と小楠が政局の中心に登場してくるのです。

 かつて福井市内の足羽川のほとりに、2人の人物が並んだ銅像がありました。その銅像をかすかながら私は覚えています。今は、それはありません。

 2人の人物とは、一人は橋本左内(さない・1834~1859)であったかと思います。福井城下出身で、蘭学を修め、藩の学制改革と藩政刷新につとめ、慶永の侍読兼内用掛となって将軍継嗣問題の中心的な担当者となりました。福井市内には「左内公園」というのもあり(おととしの夏の取材旅行で久しぶりに訪ねました)、福井ではよく知られた人物です。いわゆる「安政の大獄」で処刑されます。私の出身校の校歌にも、その名が出てきました。

 もう一人の人物が、横井小楠でした。これは確実です。

 その銅像を見た時、幼かった私は、橋本左内は知っていましたが、横井小楠は何者であるかまったく知りませんでした。

 まわりから、かつておそらく一度も聞いたことがなかった人物であったのです。

 かなり年輩の人物のように思われました。

 なぜ、この人物の銅像があるのだろう。橋本左内とどういう関係があるのだろう。なぜ2人並んで銅像になっているのだろう……、そういったことを漠然と考えたような思い出があるのです。

 あの銅像は、どこに建っていたのだろう。おそらく九十九橋(つくもばし)の南側のたもとであったように記憶していますが、これもたしかではありません。古くからあのあたりに住んでいる方であれば、ご存知であると思います。

 それ以来、「横井小楠」という名前は、私の頭の隅にありました。

 ふたたび「横井小楠」の名に出会ったのは、大学に入ってから以後のこと。とくに日本思想史というものに関心を抱いた時、私の身近に「横井小楠」に関心をもって研究をしている人たちがいたのです。その友人(先輩)は、山崎正董(まさただ)編の『横井小楠遺稿』(日新書院)を手に入れていました。

 それから私はふたたび横井小楠のことを少しずつ調べるようになり、幕末の福井藩、さらに幕末・明治初年の政局においてきわめて重要な役割を果たした人物であることを知るにいたりました。橋本左内ばかりか、松平春嶽はじめ、当時の福井藩の主だった人々とも深い関係を結び、また勝麟太郎(海舟)や坂本龍馬、西郷隆盛らとも深い交友関係を持ちました。あの当時において、思想家としても頭抜けたものを持っていました。西洋列強の「文明」に圧倒されてしまう政治状況・思想状況のなかで、その西洋の「文明」というものを絶対化するのではなく、相対化できる視点なり価値基準というものを、小楠は持っていました。非は非として批判し、それをおさえた上で、「富国安民」のために有用なものは、思想の面でも物の面でも積極的に活用していこうという、開かれた思想を持っていました。しかもそれを実際の場面で、運用し、それなりの実績を上げ得たのです。

 小楠もはじめからそうであったわけではありません。現実にぶつかった時に、絶えず思想を検証し、みがき上げていく中で、そのような思想を獲得していったのです。状況に応じてクルクルと変わっていくところがあって、不定見のように見えるところがありますが、根本にあったのは「富国安民」であったでしょう。

 「民を安らか」にしなければ「富国」はない。「安民」なくして「富強」はない、というのが小楠の思想の基本にあって、それはついにぶれなかった、と私は思います。

 「安民」を軸に置いた時、時の状況に応じて、思想が変化していくのは当然のことでしょう。あくまでもある思想・原理・立場を固守していけば、場合によっては多くの犠牲が生まれ、犠牲が生まれれば「安民」にはつながらない。

 小楠は、幕末において、そういった「犠牲」が生み出される状況を、さまざまなところで見聞し、体験もしたのです。

 小楠が、幕末の日本において、いっとう頭抜けた思想家であった、という認識は今でも変わりません。その思想に、勝海舟も、西郷隆盛も、坂本龍馬も大きな影響を受けました。幕末の福井藩の面々も、由利公正をはじめ大きな影響を受けました。

 また幕末・明治維新期の熊本においても、地方豪農層を中心にして、小楠の思想は大きな影響と広がりを持ちました。

 福井藩の人々は、小楠の住む熊本藩にしばしばやって来たし、また熊本の小楠の門下生たちもしばしば福井藩にしばしばやってきました。

 幕末における福井と熊本の交流は、横井小楠を媒介として、活発に行なわれていた時期があったのです。

 その小楠が、福井藩から失意のうちに戻って、閑居していたところが、熊本城下東方の田園地帯であった、この「沼山津」(ぬやまづ)の地でした。


 続く



○参考文献
・『中江兆民全集 17』(岩波書店)
・『横井小楠遺稿』山崎正董編(日新書院)


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