鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

木下(きおろし)河岸 その2

2011-05-26 05:28:37 | Weblog
 六軒川の川沿いを歩いてまもなく振り返ってみると、その流れの奥に水門施設が見えました。その水門施設が、現在は利根川と手賀沼および六軒川、弁天川、手賀川などとの水量の調節を行っている施設であるようです。

 しばらくしてぶつかった六軒川に架かる橋は「六軒橋」。この「六軒橋」上を通る道路は、先に発作(ほっさく)から弁天川沿いを歩いた時、ぶつかった通りで、右折すれば布佐方面へと至るはずです。左折すれば木下街道と交差します。

 その「六間橋」を突っ切って、細い道へと入っていくと、左手に「兵左エ門」と記された表札のある立派な門柱(石製)のある家などがあり、やがてJR成田線の線路下を潜りました。「冠水時通行止め」という看板があったから、集中豪雨の時などはここには雨水などがたまって車や人の通行が出来なくなるようです。

 JR成田線の鉄橋が右手に見えますが、これは六軒川に架かる鉄橋。線路下を潜るところは「六軒ガード」という名前が付いています。

 この「六軒ガード」を潜ると、そこから先は田んぼの中の農道のような一本道となったので、途中で道を戻り、右手に「港屋材木店」を見て「六軒橋」の通りに出たところで右折しました。「港屋材木店」の名前の由来はわかりませんが、「木下(きおろし)」の地名がかつて竹袋村より木材を利根川へと下ろしたところから来ているということを考えると、この材木店は、その歴史と何らかの形でつながっているのではないかと思われました。

 通りを右折すると、そこにあった電柱の地名標示は「大森」で、間もなく渡った橋が「弁天橋」。つまり「弁天川」に架かる橋。この橋の下の「弁天川」も、かつては「さっぱ舟」がしきりと往来していたところです。それなりの風情が川筋に漂っています。

 「木下街道」と交わる交差点を突っ切り、県道356号線(木下街道のバイパス)と交わる「大森交差点」で左折し、印西市立図書館のある印西市文化ホールに到着したのは9:03でした。

 この印西市立図書館の郷土資料コーナーの諸資料の中で最も参考になったのは、『印西町の歴史』に収められている山本忠良さんの「木下河岸と鮮魚輸送(一)(二)(三)」でした。質量とももっとも充実したものであり、山本忠良さんが木下河岸や木下街道を中心としたこの地域の郷土史研究の第一人者であることがわかります。

 同じく『印西町の歴史』所収の榎本正三さんの「木下河岸の人々のくらし(前編)(後編)」、おなじ榎本正三さんの『女たちと利根川水運 河岸・遊郭・女人信仰』(崙書房)、山本忠良さんの『近世印西新田』(崙書房)などもたいへん参考になりました。

 山本忠良さんと榎本正三の論文などで共通して触れられていて、しかも文政8年(1825年)頃の木下河岸のようすがわかるのが、文政9年(1826年)の「飯盛女事件」。この事件には河岸問屋吉岡家の当時の当主である「吉岡七之助」や、村方名主(竹袋村の名主であるでしょう)や組頭の名前、また関係したであろう「飯盛女」(遊女)たちの名前が出てきており、崋山一行が立ち寄った頃の木下河岸の動静を伺うことができるもので興味深いものでした。


 続く


○参考文献
・パンフレット「吉岡まちかど博物館」


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