この篠塚榮三さんの写真集で知ったことを、いくつか箇条書きしてみます。
①大正12年(1923年)頃、地元資本によって貨物船、第一、第二小見川丸が建造されていること。
②黒部川の河口部には、明治後期の利根川築堤前、常夜燈があったこと。
③黒部川沿いの店の前のダシは、木製の桟橋であり、それに白塗りの貨物船が横付けしたこと。
④「ちば醤油」は、徳川時代から小見川の代表的企業であったが、その本社工場は昭和45年(1970年)、創業地から当町内工業団地に移転したこと。
⑤黒部川に沿った市街には、江戸時代から橋が3つあったこと。
⑥明治20年(1887年)の大火で町の中心部が焼失し、再建されていること。
⑦「小見川銀座商店街」は「川端通り」とも呼ばれ、昔話で、秋に米俵を付けた小荷駄の列ができたといわれる、とのこと。
⑧本町の「仁木書店」(私が入って本を購入したのはその駅前店)には子どもたちが群がり、その店先には飴細工の屋台が出ていたことも。
⑨黒部川の改修以前は、文字通り、「ダシ」(木製)が川の上に出っ張っていた。
⑩町内初のネオンが取り付けられたのは「銀座通り」で、それは昭和29年(1954年)であったこと。
⑪昭和48年(1973年)8月1日に小見川大橋が開通し、小見川と息栖を結んでいた町営の渡し船が廃止されたこと。
⑫黒部川沿いは、昭和38年(1963年)の写真ではすでにコンクリートの堤になっていること。
これらのことからわかってくることは、かつて黒部川の西側の岸には「さっぱ船」など荷船が横付けすることができる河岸があり、周辺の農村から運ばれてくる年貢米を運ぶ「小荷駄」の行列が「川端通り」に出来たということであり、その馬の背で運ばれてきた米を、河口に碇泊している「利根川高瀬船」に、荷船で運んで載せたであろうということ。「利根川高瀬船」が、黒部川河口部に碇泊していたことは、宮負定雄の『下総名勝図絵』の「小見川市中」の絵からわかります。
黒部川には3つの橋が、江戸時代から架かっていましたが、これは周辺農村から小見川にやって来た米俵を積んだ馬が黒部川を渡るためのもの(もちろん人もさまざまな物資もその上を通ります)。小さな町の川に「3つ」も昔から橋が架かっているというのは、小見川町の経済力や重要性を示しています。
明治になって、利根川を利用した物資の長距離運送は、利根川高瀬船だけでなく、蒸気船も加わってきます(「通運丸」や地元資本の貨物船〔「小見川丸」〕)。
しかし明治後半の利根川大改修工事により、小見川における黒部川は利根川と直結しなくなり、巨大な堤防には水門が設けられるようになる。
それでも昭和40年以前においては、貨物船や荷船などが黒部川に出入りし、また最後の「高瀬船」である「高崎丸」も、霞ヶ浦や印旛沼の農村地帯の稲藁を満載して、利根川から黒部川に入っていました。
しかし昭和40年代末には利根川に架かる「小見川大橋」が開通し、小見川~息栖間を結んでいた渡船が廃止されるようになったりして、人や物の移動・運送手段は、車(バスやトラック)や鉄道中心へと加速し、長らく水上交通の重要拠点の一つとして栄えてきた小見川の町は、大きく変貌していった、ということになります。
その「水郷の文化町」としての「残影」は、歩いてみるとあちこちに残っているのがわかりますが、隣の「佐原」と較べてみると、黒部川の岸辺一つをとってみても、垂直のコンクリート堤で改修工事が行われているなど、殺風景なものとなっています。また歴史を感じさせる商家なども至って少ない。
かつて小見川の繁栄をもたらした黒部川には、その歴史が忘れ去られたかのように、ほとんどといっていいほど船は浮かんでいません(小堀川の奥には浮かんでいましたが)。
一方、かつては利根川の一部であったと思われる、大橋から黒部川水門(利根川大橋)にかけての黒部川下流は、昨年の「千葉国体」でボート会場になったことからもわかる通り、「水上スポーツのメッカ」「イベント基地」として活用されているようです。
しかしながら町中を歩いてみると、早朝ということもありましたが、かつて昭和30年代に賑わった商店街は、現在は閑散としています。
これは小見川ばかりでなく、多くの地方都市で見られるところです。
かつては「職住同一」ないし「職住接近」であったのが、交通や産業構造の変化により、人々は遠くまで働きに行くようになり、また遠くまで買い物に行けるようになりました。交通手段や交通路が便利になればなるほど、そのようになっていきました。
渋滞や騒音を避けてバイパスが出来れば、そのバイパス沿いに商店などは移り、また大資本の経営するスーパーマーケットや複合施設、コンビニなどが出来て、従来の街中の商店街は空洞化していきました。
近くにあった働き口も、工業団地などが出来て遠くなっていきました。
そのようにして、従来からの町の中心部は、かつて呈していたその活況を失っていくようになったのです。
そのような町や村の風景、あるいは「景観」を、歩きながら見続けてくると、これからの「まちづくり」がいかにあるべきか、といったことを考えてしまいます。
方向性としては、田村明さんの『まちづくりの実践』(岩波新書)や、広井良典さんの『創造的福祉社会─「成長」後の社会構想と人間・地域・価値』(ちくま新書)、また原研哉さんの『日本のデザイン─美意識がつくる未来』(岩波新書)などが、そのヒントを多々示してくれているように思われますが、なお、これからもそういったことを、歩きながら考えていきたい。
小見川の町は、そういった思いを私に触発させる町でした。
終わり
※写真は『水の中の残影 印画紙に記録された小見川の水運』篠塚榮三(ワールドフォトプレス)より(大橋下流・昭和38年)
○参考文献
・『水の中の残影 印画紙に記録された小見川の水運』篠塚榮三(ワールドフォトプレス)
・『まちづくりの実践』田村明(岩波新書/岩波書店)
・『創造的福祉社会』岩井良典(ちくま新書/筑摩書房)
・『日本のデザイン』原研哉(岩波新書/岩波書店)
①大正12年(1923年)頃、地元資本によって貨物船、第一、第二小見川丸が建造されていること。
②黒部川の河口部には、明治後期の利根川築堤前、常夜燈があったこと。
③黒部川沿いの店の前のダシは、木製の桟橋であり、それに白塗りの貨物船が横付けしたこと。
④「ちば醤油」は、徳川時代から小見川の代表的企業であったが、その本社工場は昭和45年(1970年)、創業地から当町内工業団地に移転したこと。
⑤黒部川に沿った市街には、江戸時代から橋が3つあったこと。
⑥明治20年(1887年)の大火で町の中心部が焼失し、再建されていること。
⑦「小見川銀座商店街」は「川端通り」とも呼ばれ、昔話で、秋に米俵を付けた小荷駄の列ができたといわれる、とのこと。
⑧本町の「仁木書店」(私が入って本を購入したのはその駅前店)には子どもたちが群がり、その店先には飴細工の屋台が出ていたことも。
⑨黒部川の改修以前は、文字通り、「ダシ」(木製)が川の上に出っ張っていた。
⑩町内初のネオンが取り付けられたのは「銀座通り」で、それは昭和29年(1954年)であったこと。
⑪昭和48年(1973年)8月1日に小見川大橋が開通し、小見川と息栖を結んでいた町営の渡し船が廃止されたこと。
⑫黒部川沿いは、昭和38年(1963年)の写真ではすでにコンクリートの堤になっていること。
これらのことからわかってくることは、かつて黒部川の西側の岸には「さっぱ船」など荷船が横付けすることができる河岸があり、周辺の農村から運ばれてくる年貢米を運ぶ「小荷駄」の行列が「川端通り」に出来たということであり、その馬の背で運ばれてきた米を、河口に碇泊している「利根川高瀬船」に、荷船で運んで載せたであろうということ。「利根川高瀬船」が、黒部川河口部に碇泊していたことは、宮負定雄の『下総名勝図絵』の「小見川市中」の絵からわかります。
黒部川には3つの橋が、江戸時代から架かっていましたが、これは周辺農村から小見川にやって来た米俵を積んだ馬が黒部川を渡るためのもの(もちろん人もさまざまな物資もその上を通ります)。小さな町の川に「3つ」も昔から橋が架かっているというのは、小見川町の経済力や重要性を示しています。
明治になって、利根川を利用した物資の長距離運送は、利根川高瀬船だけでなく、蒸気船も加わってきます(「通運丸」や地元資本の貨物船〔「小見川丸」〕)。
しかし明治後半の利根川大改修工事により、小見川における黒部川は利根川と直結しなくなり、巨大な堤防には水門が設けられるようになる。
それでも昭和40年以前においては、貨物船や荷船などが黒部川に出入りし、また最後の「高瀬船」である「高崎丸」も、霞ヶ浦や印旛沼の農村地帯の稲藁を満載して、利根川から黒部川に入っていました。
しかし昭和40年代末には利根川に架かる「小見川大橋」が開通し、小見川~息栖間を結んでいた渡船が廃止されるようになったりして、人や物の移動・運送手段は、車(バスやトラック)や鉄道中心へと加速し、長らく水上交通の重要拠点の一つとして栄えてきた小見川の町は、大きく変貌していった、ということになります。
その「水郷の文化町」としての「残影」は、歩いてみるとあちこちに残っているのがわかりますが、隣の「佐原」と較べてみると、黒部川の岸辺一つをとってみても、垂直のコンクリート堤で改修工事が行われているなど、殺風景なものとなっています。また歴史を感じさせる商家なども至って少ない。
かつて小見川の繁栄をもたらした黒部川には、その歴史が忘れ去られたかのように、ほとんどといっていいほど船は浮かんでいません(小堀川の奥には浮かんでいましたが)。
一方、かつては利根川の一部であったと思われる、大橋から黒部川水門(利根川大橋)にかけての黒部川下流は、昨年の「千葉国体」でボート会場になったことからもわかる通り、「水上スポーツのメッカ」「イベント基地」として活用されているようです。
しかしながら町中を歩いてみると、早朝ということもありましたが、かつて昭和30年代に賑わった商店街は、現在は閑散としています。
これは小見川ばかりでなく、多くの地方都市で見られるところです。
かつては「職住同一」ないし「職住接近」であったのが、交通や産業構造の変化により、人々は遠くまで働きに行くようになり、また遠くまで買い物に行けるようになりました。交通手段や交通路が便利になればなるほど、そのようになっていきました。
渋滞や騒音を避けてバイパスが出来れば、そのバイパス沿いに商店などは移り、また大資本の経営するスーパーマーケットや複合施設、コンビニなどが出来て、従来の街中の商店街は空洞化していきました。
近くにあった働き口も、工業団地などが出来て遠くなっていきました。
そのようにして、従来からの町の中心部は、かつて呈していたその活況を失っていくようになったのです。
そのような町や村の風景、あるいは「景観」を、歩きながら見続けてくると、これからの「まちづくり」がいかにあるべきか、といったことを考えてしまいます。
方向性としては、田村明さんの『まちづくりの実践』(岩波新書)や、広井良典さんの『創造的福祉社会─「成長」後の社会構想と人間・地域・価値』(ちくま新書)、また原研哉さんの『日本のデザイン─美意識がつくる未来』(岩波新書)などが、そのヒントを多々示してくれているように思われますが、なお、これからもそういったことを、歩きながら考えていきたい。
小見川の町は、そういった思いを私に触発させる町でした。
終わり
※写真は『水の中の残影 印画紙に記録された小見川の水運』篠塚榮三(ワールドフォトプレス)より(大橋下流・昭和38年)
○参考文献
・『水の中の残影 印画紙に記録された小見川の水運』篠塚榮三(ワールドフォトプレス)
・『まちづくりの実践』田村明(岩波新書/岩波書店)
・『創造的福祉社会』岩井良典(ちくま新書/筑摩書房)
・『日本のデザイン』原研哉(岩波新書/岩波書店)
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