まずフェリーチェ・ベアトです。古写真集は例によって『F・ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)。
まず前に確かめた「生麦事件の現場」(外国人4人が襲撃されたところではない)写真。P60です。生麦村のはずれ、神奈川側から江戸方向を写したものですが、左手前に男が三人立っている(ポーズをとっている)通りが東海道。その背後に並んでいる茅葺き屋根の民家(4軒)の棟にはイチハツが植えられています。
その隣りのページ(P61)も「生麦事件の現場」写真ですが、東海道の路上やや左手から生麦村の街道筋を写しています。P60の写真ではわからなかった東海道筋のようすが奥までわかります。生麦事件でリチャードソンら4名が襲撃された現場は、この写真に写る東海道の奥のどこかということになります。リチャードソンらはその奥のところで襲撃され、馬に乗ったまま神奈川宿方向へ(すなわち手前へ)真っ直ぐに逃げてきます。しかしリチャードソンは、出血多量と痛みのためか、ここで落馬してしまいます。街道左脇に立つ男の背後には、先ほど見たイチハツのある茅葺き屋根の民家が写っています。角度が変わっただけです。
さて、ほかにはないか、と調べてみると、
P65下の「東海道沿いの村」。どこかわかりません(おそらく保土ヶ谷から藤沢の間)が、街道筋に並ぶ茅葺き屋根の民家のうち、右側の民家数軒にイチハツが見えます。
P69の上と下の写真は、「東海道の一風景。横浜─藤沢間。」ですが、農家の屋根にはたしかにイチハツが見られます。
P41の写真。これは「八王子に向かう道」すなわち「八王子街道」の鑓水(やりみず)付近を写したもので、右手の2階建ての民家の屋根にはイチハツが見られます。
ということは、その左ページ(P40)の「鑓水の風景」写真に写る茅葺き民家の多くも、イチハツが植えられていた(つまり「芝棟」)と考えてよいでしょう。
P34、35の写真は、「宮ヶ瀬に向かう道に架かる飯山の橋」やそのたもとの「茶屋」を写したものですが、その茶屋の屋根の棟はイチハツです。
とくにP34の写真ではそれがよくわかります。右手が茶屋(2階建て)で、その屋根のてっぺんには草があるのがはっきりとわかります。これがイチハツ。この建物はもちろん現在は残っていません。この橋を渡った向こうに続く道が飯山観音へと続く道です。P35左下に見える石段は神社の入口。この神社は今でもあります。
P39の上・下の宮ヶ瀬の写真。この写真に写る茅葺き屋根の棟はやはりイチハツです。
P32~P33の「原町田」の通り両側には茅葺き屋根の民家が建ち並んでいますが、屋根はどうもイチハツであるようだ。
というふうに見てくると、東海道筋の農家はもちろんのこと、八王子街道や宮ヶ瀬に至る道筋の農家や民家も多くがイチハツの植えられた「芝棟」であったようです(もちろん全部が全部そうではなく、棟が板で囲われていたり、屋根が板葺きであるところ〔厚木や小田原など〕もありますが)。
私にとって実に興味深い「発見」は、P83の「箱根宿」の写真。
この写真の真ん中を走る通りは東海道で、芦ノ湖は右手にあることになりますが、この箱根宿の民家の屋根にはほとんどすべて一様にイチハツが見られます。これは壮観。
今まで何回も見てきた写真ですが、屋根の様子については関心がなかったためか見過ごしてきました。
箱根宿には、初夏を告げるイチハツが、その時期になると、茅葺き屋根の棟の上に一斉に咲いたのです。
おそらく保土ヶ谷宿も、この箱根宿の家並みの風景とそれほど大きな隔たりはなかったことでしょう。
このベアトの写した「箱根宿」の写真を見て、私は日下部(くさかべ)金兵衛が「箱根宿」の写真を撮っていることを思い出しました。
掲載されているのは『日下部金兵衛』中村啓信(国書刊行会)。
その冒頭に集められている手彩色の写真の一枚で、「1669 箱根の宿」となっています。見開きページで大きく載っているものです。
これを初めて見た時、私はびっくりしました。というのはベアトの写真以上に箱根宿の街道筋のようすがよくわかるからです。といってもこの写真が撮られたのは明治になってからのこと。しかしまだ江戸期の東海道のようすをよくとどめています。
この写真を見たら、なんとイチハツがきわめてはっきりと写っています。ベアトの写真と同じように、街道両脇の民家の茅葺き屋根の棟には、ほとんどといっていいくらいにイチハツが植えられています。
これが、どの屋根にもイチハツの花が並んで咲いていて、しかもカラー写真であったとしたら、どういう風景写真になることでしょう。実際に、そういう景観が、その季節になると見られた時代が、長々と続いていたのです。
この写真、左手には鏡のような芦ノ湖が見えます。その芦ノ湖畔からは富士山が望めるはず。茅葺き屋根の上に咲く紫や白のイチハツの花、そして鏡のように静かな芦ノ湖、そしてまだ純白の雪が残る富士山。さらに周囲の山々のみずみずしい新緑。何と言う美しい風景であったことでしょうか。
日下部金兵衛が箱根宿を写した写真は、同書P141にも掲載されています。同じ地点から撮影されているもので、最初、同じ写真かと思っていましたが、よく見ると建物で写っていないものがある。芦ノ湖に突き出たところに、冒頭の写真ではあるところの擬似洋風(和洋折衷)の建物がこれにはありません。したがって、冒頭の写真よりも前に撮影されたものであることがわかります。
箱根宿を、このようにクレーンに乗せた映画用カメラから写したような写真。これを日下部金兵衛は、箱根宿のどこから写したのか。撮影地点に行ってみたくなるような写真です。
終わり
○参考文献
・『F・ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)
・『日下部金兵衛』中村啓信(国書刊行会)
まず前に確かめた「生麦事件の現場」(外国人4人が襲撃されたところではない)写真。P60です。生麦村のはずれ、神奈川側から江戸方向を写したものですが、左手前に男が三人立っている(ポーズをとっている)通りが東海道。その背後に並んでいる茅葺き屋根の民家(4軒)の棟にはイチハツが植えられています。
その隣りのページ(P61)も「生麦事件の現場」写真ですが、東海道の路上やや左手から生麦村の街道筋を写しています。P60の写真ではわからなかった東海道筋のようすが奥までわかります。生麦事件でリチャードソンら4名が襲撃された現場は、この写真に写る東海道の奥のどこかということになります。リチャードソンらはその奥のところで襲撃され、馬に乗ったまま神奈川宿方向へ(すなわち手前へ)真っ直ぐに逃げてきます。しかしリチャードソンは、出血多量と痛みのためか、ここで落馬してしまいます。街道左脇に立つ男の背後には、先ほど見たイチハツのある茅葺き屋根の民家が写っています。角度が変わっただけです。
さて、ほかにはないか、と調べてみると、
P65下の「東海道沿いの村」。どこかわかりません(おそらく保土ヶ谷から藤沢の間)が、街道筋に並ぶ茅葺き屋根の民家のうち、右側の民家数軒にイチハツが見えます。
P69の上と下の写真は、「東海道の一風景。横浜─藤沢間。」ですが、農家の屋根にはたしかにイチハツが見られます。
P41の写真。これは「八王子に向かう道」すなわち「八王子街道」の鑓水(やりみず)付近を写したもので、右手の2階建ての民家の屋根にはイチハツが見られます。
ということは、その左ページ(P40)の「鑓水の風景」写真に写る茅葺き民家の多くも、イチハツが植えられていた(つまり「芝棟」)と考えてよいでしょう。
P34、35の写真は、「宮ヶ瀬に向かう道に架かる飯山の橋」やそのたもとの「茶屋」を写したものですが、その茶屋の屋根の棟はイチハツです。
とくにP34の写真ではそれがよくわかります。右手が茶屋(2階建て)で、その屋根のてっぺんには草があるのがはっきりとわかります。これがイチハツ。この建物はもちろん現在は残っていません。この橋を渡った向こうに続く道が飯山観音へと続く道です。P35左下に見える石段は神社の入口。この神社は今でもあります。
P39の上・下の宮ヶ瀬の写真。この写真に写る茅葺き屋根の棟はやはりイチハツです。
P32~P33の「原町田」の通り両側には茅葺き屋根の民家が建ち並んでいますが、屋根はどうもイチハツであるようだ。
というふうに見てくると、東海道筋の農家はもちろんのこと、八王子街道や宮ヶ瀬に至る道筋の農家や民家も多くがイチハツの植えられた「芝棟」であったようです(もちろん全部が全部そうではなく、棟が板で囲われていたり、屋根が板葺きであるところ〔厚木や小田原など〕もありますが)。
私にとって実に興味深い「発見」は、P83の「箱根宿」の写真。
この写真の真ん中を走る通りは東海道で、芦ノ湖は右手にあることになりますが、この箱根宿の民家の屋根にはほとんどすべて一様にイチハツが見られます。これは壮観。
今まで何回も見てきた写真ですが、屋根の様子については関心がなかったためか見過ごしてきました。
箱根宿には、初夏を告げるイチハツが、その時期になると、茅葺き屋根の棟の上に一斉に咲いたのです。
おそらく保土ヶ谷宿も、この箱根宿の家並みの風景とそれほど大きな隔たりはなかったことでしょう。
このベアトの写した「箱根宿」の写真を見て、私は日下部(くさかべ)金兵衛が「箱根宿」の写真を撮っていることを思い出しました。
掲載されているのは『日下部金兵衛』中村啓信(国書刊行会)。
その冒頭に集められている手彩色の写真の一枚で、「1669 箱根の宿」となっています。見開きページで大きく載っているものです。
これを初めて見た時、私はびっくりしました。というのはベアトの写真以上に箱根宿の街道筋のようすがよくわかるからです。といってもこの写真が撮られたのは明治になってからのこと。しかしまだ江戸期の東海道のようすをよくとどめています。
この写真を見たら、なんとイチハツがきわめてはっきりと写っています。ベアトの写真と同じように、街道両脇の民家の茅葺き屋根の棟には、ほとんどといっていいくらいにイチハツが植えられています。
これが、どの屋根にもイチハツの花が並んで咲いていて、しかもカラー写真であったとしたら、どういう風景写真になることでしょう。実際に、そういう景観が、その季節になると見られた時代が、長々と続いていたのです。
この写真、左手には鏡のような芦ノ湖が見えます。その芦ノ湖畔からは富士山が望めるはず。茅葺き屋根の上に咲く紫や白のイチハツの花、そして鏡のように静かな芦ノ湖、そしてまだ純白の雪が残る富士山。さらに周囲の山々のみずみずしい新緑。何と言う美しい風景であったことでしょうか。
日下部金兵衛が箱根宿を写した写真は、同書P141にも掲載されています。同じ地点から撮影されているもので、最初、同じ写真かと思っていましたが、よく見ると建物で写っていないものがある。芦ノ湖に突き出たところに、冒頭の写真ではあるところの擬似洋風(和洋折衷)の建物がこれにはありません。したがって、冒頭の写真よりも前に撮影されたものであることがわかります。
箱根宿を、このようにクレーンに乗せた映画用カメラから写したような写真。これを日下部金兵衛は、箱根宿のどこから写したのか。撮影地点に行ってみたくなるような写真です。
終わり
○参考文献
・『F・ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)
・『日下部金兵衛』中村啓信(国書刊行会)
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