鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.6月取材旅行「木下~十里~神崎」その5

2011-06-12 07:33:57 | Weblog
 このあたりは、海からおよそ64kmの地点。堤防下に見えた木造の鳥居に近寄ってみると、その鳥居や二つの祠の周辺には、「青面金剛像」の刻像や「庚申塔」、「西国秩父板東百ヶ所」と刻まれた石祠などが散在していました。

 その鳥居や祠の左手に道路があり、その道路は用水路に架かる橋を渡って北側に広がる水田へと延びています。その橋向こうの左手に小さな工場か倉庫らしきものがあって、一人のおじさんが働いているのを見掛けたので、近寄って声を掛けてみました。

 「ちょっとおたずねしていいですか」

 おじさんは、見知らぬ者がいきなり声を掛けてきたにも関わらず、仕事の手を休めました。

 「十里というところは、この先ですか」

 「十里は、まだかなり先だよ」

 「まだ先ですか。十里というのは変わった地名だけど、どうして十里と言うんでしょうね。十里というのは40kmということだけど、海から十里ということでしょうか」

 「いや、このあたりが海から64kmだから、十里が、海から40キロということはないよ」

 「この堤防は昔からここにあったんですか」

 「オレの生まれた時から、ここにあったよ」

 「でも昔の堤防とは違うんでしょ」

 「その堤防のことは100歳以上の人でないと覚えてないよ。昔は高瀬船が利根川を行き来していたというからね」

 利根川の堤防改修工事が行われたのは明治末から大正時代にかけてのことだから、おじさんの言う通り、100歳以上の人でないと、当時のこのあたりの利根川のことは覚えていないことになります。

 「ダンナはどこから来たんだ?」

 と聞かれたので、

 「神奈川からやってきた」

 と答えると、

 「道理でアカヌケしていると思った」

 と言われました。

 「神奈川から来たと言ったって、もともとは日本海側の田舎の生まれですよ」

 と答えたものの、外見的には、リュックを背負い、腰にカメラを装着し、帽子をかぶったチノパン姿であれば、たしかに「アカヌケ」て見えるのかも知れない。

 「何かの調べ物かい」

 「ええ、ちょっと。木下駅から歩いてここまで来ました。高瀬船が航行していた川筋を歩いています」

 サイクリングの人たちや地元の人以外には、このあたりの堤防上を、遠くからやってきて歩く人はおそらくきわめて少ないのでしょう。

 話を交わしている最中に、おじさんの知り合いが車で通りかかり、会話は中断。お礼を述べて、用水路に架かる橋を渡り、ふたたび堤防上へと上がりました。

 左手の堤防下には、黒瓦葺き2階建の豪壮な人家や、かつては茅葺き屋根であったものが茶褐色や水色のトタン葺きになった人家、あるいは新建材の人家などが並んでいます。どれもかなりの敷地を持ち、その敷地内に物置小屋や作業小屋などが建っており、樹木や生垣が緑陰をつくっています。

 「農林水産省布鎌排水機場」が左下に見えてきたのが10:46。ということは、このあたりが「布鎌」であり、その向こうが「十里」ということになる。ここは「海から63.00km」地点であり、そこから間もなく、左手に堤防へと真っ直ぐにぶつかる道路があり、その道路の右側から堤防沿いに、こんもりと繁った樹木に囲まれた屋敷が連なる集落が見えてきました。この堤防にぶつかる道路は、利根川の河岸に向かって水田の中を延びてきている一本道であり、むかしからあるもののように思われました。

 この集落が、崋山が茶船から描いた「十里」であったのです。


 続く


○参考文献
・『渡辺崋山集 第1巻 日記・紀行(上)』(日本図書センター)


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