唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 四分義(14)

2014-11-27 08:48:51 | 初能変 第二 所縁行相門
 
 「是ガ中ニ。色法ヲ心々所ガ所變ト申候樣ハ。先ニ申ツル八識ノ心王ト。五十一ノ心所トニ。一一ニ四分アリ。四分ト申候ハ。相分・見分・自證分・證自證分也。眼識ニモ此四分アリ。乃至阿頼耶識ニモ此四分アリ。五十一ノ心所ニモ如是。此中ニ自證分ト申候ハ。心ノ正キ體也。殘ノ三分ハ心ノ用也。用ト申ハ。體ニ備レル功能也。所謂相分ハ功能ノ中ニ知ラルル功能也。心ト云物ハ。物ヲ知ルホカニ別ノ樣ナシ。若知ラルル物ナクバ。何ヲカ知ランヤ。此ニ依テ。心ノ體轉變ジテ知ラルル物トナル。此知ラルル用ヲ相分ト名ク。諸ノ色法ハ此相分ノ中ニアリ。サレバ色法ハ心ニ不離也。見分ト申ハ。能ク此相分ヲ知ル用也。知ラルル物アリトモ。正ク其ヲ知ル功能ナクバ。爭カ知ランヤ。故ニ心ノ體轉變ジテ能ク物ヲ知ル功能ヲ13越ス。此能ク知ル用ヲ見分ト名ク。證自證分ト申ハ。ヨク自證分ヲ知ル功能也。自證分ハ心ノ體トシテ中ニアリテ。見分ヲモシリ。證自證分ヲモ知ル也。」(『二巻鈔』大正171・114b~c)
 『二巻鈔』本文は、岩波書店刊『鎌倉旧仏教』(日本思想体系15)p126~p158に所収されています。
 この中で色法(五根と五境と法処所摂色)は「心・心所が所変として心を離れず」ということについて、先に説明した通り、八つの心王と五十一の心所との一つ一つに四分がある。四分というのは、相分と見分と自証分と証自証分である。眼識にも四分がある。耳識にもまた四分がある。乃至阿頼耶識にもこの四分がある。五十一の心所にも同じように四分がある。
 このうち自証分というのは心の本体である。その他の三分は心の作用である。作用というのは、本体に備わっている働き(功能)である。いわゆる相分とは、心の働きの中で知られる働きである。心というものは、物を知るという外に別に何かがあるわけではない。もし知られる物がなければどうして知るということができようか。この理(ことわり)によって、心の本体が転変して知られる物となる。この知られる働きを相分と名づくのである。さまざまな色法はこの相分の中に摂められる。このような理由から、色法は心に離れては存在しないのである。
 見分というのは、よくこの相分を知る働きである。知られる物があっても、まさしくその知る働きがないならば、どうして知るということが成り立つのであろうか。故に、心の本体が転変して物を知る働きを起こす。この物を知る働きを見分と名づけるのである。証自証分というのは、よく自証分を知る働きである。自証分は、心の本体として相分・見分の要として、見分を知り、証自証分をも知る働きをもつのである。
 以上が『二巻鈔』に説かれる四分の説明です。この説明に所量と能量と量果が説明され、現量と比量と非量という三量で説明されます。このことは『成唯識論』に戻って読んでいきたいと思います。

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