護法正義を述べていますが、護法は前科段において、先ず倶生起の慢は苦受と相応することを述べました。では、分別起の慢と五受との相応はどうなるのでしょうか。この問いに対して、本科段は答えます。
「分別の慢は純苦趣(ジュンクシュ)には無し。彼(カシコ)には邪師と邪教との等(ゴト)き無きが故に。」(『論』第六・十八右)
分別起の慢等は、純苦趣(地獄)には存在しない。なぜなら地獄には、邪師や邪教等は存在しないからである。
ここで、僕は前から問題となっていたことがあるんです。「唯識無境」が大前提ですよね、そして仏教は内観の法である、と。そうしますと、『論』の記述はどのように読んだらいいのでしょうか。邪師・邪教は外に存在するとしたら、「無境」ではなくなりますし、外界の存在が自己を既定することになりはしませんか。
『論』の記述は「仮」にですね。仮に説く、ということなのでしょうね。仮説が非常に大切な概念になるんだと思います。そのように説かなければ有情は理解できないんだと。仮を通して実に触れよという催促ではないかなと思っています。
本科段の主旨は、
(a) 地獄の中では、分別起の、慢は存在しない。
(b) 分別起の慢を作る、邪師・邪教等が存在しないからである。
地獄には、分別起の煩悩を作る邪教や邪師や邪思惟が無いから、地獄には分別起の煩悩は存在せず、五受とも相応しないということになります。
ここは大切な所だと思いますが、三毒の煩悩(貪・瞋・痴)は分別起ではないということです。ですから、地獄には分別起の慢は存在しないというのが、護法正義になります。
また、地獄を除いた、分別起の煩悩には、苦受を除いた四つの受と相応するということにもなります。
「 論。分別慢至邪教等故 述曰。其地獄中與苦相應。於總聚中。但有得一切受相應義。非一切慢皆得相應。無分別慢等。即等一切分別貪・瞋・癡・疑・邪見・見・戒取等。以無邪教・邪師・及邪思惟故。」(『述記』第六末・四十右。大正43・451c)
(「述して曰く。其の地獄の中は、苦と相応す。總聚の中に於て、但だ一切の受と相応することを得る義有り。一切の慢は皆相応することを得るに非ず。分別の慢は無しと云わん。等とは、即ち一切の分別の貪・瞋・癡・疑・邪見・見・戒取等を等(取)す、邪教・邪師及び邪思惟無きを以ての故に。」)
そもそも、地獄の中には分別起の慢は存在せず、従って苦受とは相応しないというところの、地獄とは何を指しているのでしょうか。
ここはですね、本当の苦しみと云うのは、分別起ではないということを表していると思うんです。生まれてからのいろんな経験は自己を育てているものであって、苦を与えるものではないのでしょう。苦は教えに先立って、先天的に自己に執着を起こす倶生起の煩悩だと教えているのですね。
成人するまでは、親の庇護のもとで育てられていますから、親の躾の如何が大きくその子の人生を左右するものでしょうが、成人してからの、自分の人生は自分で切り開いていく、成人するまでの過程が縁となって、自己責任のもとで一歩一歩進んでいくのではないでしょうかね。この過程は分別起そのものですね。しかしですね、その背景に倶生起の煩悩が働いていると同時にですね、倶生起の煩悩と倶に如来の大悲ですね、命の救済が働いているということなのでしょうね。分別起に如来の大悲が働いているのでは無いということだと思います。根本的な命そのものへの大きな眼差しが大悲として語られているのではないでしょうかね。
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