「蟪蛄不識春秋(蟪蛄春秋を識らず)、伊虫豈知朱陽之節(伊虫豈に朱陽の節を知らん乎と)」
今夏、蝉の第一声も聞かれ始めました、「いよいよ茹だるような暑さが本番となりますよ」という蝉からのメッセージですね
蟪蛄不識春秋というのは、荘子の「逍遥に遊ぶ」の中の文章だったんですね?、意味としては、夏蝉は春秋を知らない。伊虫(こうろぎ)は真夏の季節を知っていようか、豈、自分の住んでいる季節をも知らないのではないのか、知ることもないであろうという自分の存在の意味をも知らないという喩なのですね。
実は、松本曜一先生が、瑞興寺の報恩講で語られメッセージだったんですが、僕はこの言葉は幾度となく聞いていたはずだったのですが、本当は聞いていなかったんですね。ブログの中で、安田理深先生の『自己に背くもの』を紹介させていただいているのですが、「虚妄と実相」という中でこの問題を語られています(2011年12月11日のブログを参考にしてください)。
三在釈の中で語られている譬えなのですが、出典は『浄土論註』巻上・八番問答ですね。親鸞聖人も『教行信証』信巻に引用されています、大切な言葉です。(真宗聖典p275)
安田先生は、「八番問答」を締めくくるにあたって、「ひぐらしは、夏生まれて夏死んでしまう。蜩は春秋を知らず、従って夏も知らない。夏といっているのは人間である。十念もわれわれは知らない。十念は仏の知っていることである。」と教えられています。詳細はブログを開いていただいて、報恩講で語られたメッセージ、松本先生が私たちに何を語られようとしたのかを一考していただければいいなと思います。少しでかけます。