唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

雑感 大掃除に感じた事

2016-12-28 20:40:21 | 雑感
  

  大掃除に感じた事。
 お釈迦様のお弟子に周利槃特(梵語:Cūḍpanthaka)英語ではCuuda-pantaka (チューダ・パンタカ)という方がおられました。皆さんもよくご存じだと思います。
 レレレノレのおじいちゃんですね。このお方は、修行が出来きず、阿羅漢になることが出来ずにおりました。ある時、お釈迦様が「塵や垢を除け」と唱えなさい、そして精舎を払浄せしめるように勧められたのです。彼はそれにより、汚れが落ちにくいのは人の心も同じだと悟り、ついに仏の教えを理解して、阿羅漢果を得たとされています。
 普段の掃除とは違い年末の大掃除はほんとに大変です。見えないところや、普段は掃除をしないところは垢がこびりついています。掃いても、拭き掃除をしても落ちません。マジックリンしか有りませんね。
 逸話から思えることは、塵や垢は煩悩でしょう。見えるような塵・垢は問題ではないんですね。普段から掃除をしていますからね。しかし塵・垢を放置しておきますと、溜まります。溜まって、下の方はこびりついて落ちません。
 これはね、日常の生活の中でいろいろと起こってきます悩みや迷いは見えてるものなんですね。これはたいしたことないんです。仏教では分別起の煩悩と言っていますが、私たちがよく耳にする言葉では、我執です。我に執われている自分が居て、その上に生活をしているということになりましょう。ですから、眼が外に向いているのと同じように、自分に離れて有るものによって自分の心が乱されると思っています。
 少し戻りますが、掃除と云う一つの行為も大切なことに違いは無いのですが、いくら掃除をしても目覚めは生まれてきません。何故なんでしょう。
 僕の経験の中で思い出すことがありました。茶道の稽古に通っていたのですが、いつの頃からかお稽古場の御庭の掃除をするようになり、お稽古がはじまる前に、打ち水をしてお迎えをするようになりました。
 その当時は禅宗の論書である『碧巌録』や『正法眼蔵』なども読んでおりましたが、茶道に関する本もよく読みました。
 有る時、利休の修行時代の逸話ですが、綺麗に掃き清められ、打ち水もされたその時にですね、一本の樹の枝を揺り動かした打ち水の上に枯れ葉が舞い落ちる風情を演出されたのですね。見事な光景だと思うのですが、それをまねするんですわ。
 それはね、形だけです。何の意味もありませんでした。背景がないからですね。
 周利槃特は釈迦のお弟子の中で、もっとも愚かで頭の悪い人だったと伝えられていますが、本当にそうだったのでしょうか。僕は聡明な人だったと思うのです。お釈迦様猶ご説法を身で聴いておられたんだと思います。それが掃除をされることの異於いて、説法が聞こえたんですね。
 このことは、私の人生に大きなインパクトを与えているように思います。
 「私は何を依りところとして生きているのか」という問いに繋がるんだと思います。
 善導大師は「曠劫以来常に没し、恒に流転して」この身をいただいたと表白されていますが、仏教の覚りは「無始以来ずっと流転してきた」という目覚めが、新たな生の誕生になると教えていたんだろうと思うのです。
 流転は迷いですが、迷いは自己中心の考え方から漏れ出しているものです。それは塵や垢のようなものではなく、掃いても掃いても掃ききれない、頑固な汚れなんですね。
 この汚れは、教えに遇うことに於いてしか拭い去ることはできないのでしょう。ここに、僕は宗教の役割が有ると思うのです。
 例えば、「何々を信ずる」という行為は、「信ずる」主体は「私」ですね。この「私」が問題になったところから開かれてくる世界が「信」の世界でしょうね。
 曠劫以来流転してきたこたが「私」に出遇えた御縁であったという感動だと思います。私たちは、「自分」に出遇いたいんですよ。求めているんです。それが間違った方向に進んでトラブルを起こしてしまうのですね。間違いをを起してしまうほど煩悩がこびりついているんです。
 煩悩はお客様、人間本来のこころは「澄み切った清らかな水のようである」とする学派もあるのですが、いかがなものでしょうか。
 親鸞聖人は『正像末和讃』で「罪業もとよりかたちなし/妄想顛倒のなせるなり/心性もとよりきよけれど/この世はまことのひとぞなき」とうたわれておられますが、この「心性もとよりきよけれど」は無漏の種子を言っておられるのですね。「妄想顛倒のなせるなり」は有漏の種子を言っておられるのだと思います。無漏は有漏を包んで、超えている性ですね。如来の分限です。不可知の世界で、僕たちには手も足も出ないわけです。
 僕たちは「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」という上杉鷹山の名言ですが、川は縦に超えることは出来ないのですね。縦は努力の積み重ねです。此れを否定しているのではありません。縦の努力を積み重ねながら、無漏法に遇うことが求められているんです。それが横超につながるんだと思います。
 何を言いたいのか、はっきりしませんが、大掃除をしての感想を綴ってみました。
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