心が波立つ時や、頭が真っ白になる時等身に覚えがありますが、『楞伽経』には「境等の風に撃(キャク)せられて」と。境は対象或は環境と云ってもいいかと思いますが、境遇ですね。私たちは、境遇が私を支配していると思っています。私がこうして困っているのは貴方の精だと。あんたなんか信じられん、何を信じたらいいのか途方に暮れるわ等、環境の影響によって左右される自分を受け止めれないということがありますね。
確かに、環境の影響によって左右されることはあるのです。
仕事上でいいますと、予定していた仕事がキャンセルになる。仕事が入ってこない等、取引先の都合によって、こちら側が影響されます。影響されるだけですが、影響されて、「それでは困る」と思うのは、こちらの都合になるわけです。
「諸識の浪を起し、現前に作用転」じてきますけれども、自然なんですね。本章の論題ではありませんが、少し思うことがあって書いてみました。
第八識が本識で、後の七つの心は転識である理由を、次の科段で説明されます。
「眼等の諸識は、大海の如く恒に相続して転じて諸識の浪を起こすこと無し。」
「故に知る。別に第八識の性有りと。」(『論』第三・二十一左)
常に御縁の風にうたれて心が波打っているわけですが、眼・耳・鼻・舌・身・意の働きには間断があります。恒にというわけにはいきません。前五識も常に働いているというわけにはまいりませんし、知・情・意も休んでいる時があります。そうしますと、「無始よりこのかた」、「大海の如く恒に相続」している心、前六識を支えつづけている心は、どういう心なのか。
ここが第八識がなくてはならない論証になるのです。
ですから、大乗経典のなかには、別に第八識が有るんだと説かれていることになります。
私の全体を支えている世界、それが第八識だと。それに依っていのちを持続させ、人格を形成させている元になる、人格は境遇に由って変化するのではなく、第八識の中に蓄えられた様々な経験の習気が引き起こしてくるのだと、こういうことを言いたいのですね。
「此れ等の無量の大乗経の中に皆別に此の第八識在りと説けり。」(『論』第三・二十一左)