唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (40)

2017-03-21 21:43:51 | 阿頼耶識の存在論証
  
 阿陀那識の三義を説きおわって、凡夫と二乗の性が明かされます。
 甚深と甚細の義を以て、凡夫と二乗の種姓の違いがあるのですね。
 「無姓有情(ムショウウジョウ)は底を窮むること能わざるが故に甚深と説く。趣寂種姓(シュジャクシュショウ)は通達(ツウダツ)すること能わざるが故に甚細と名く。」(『論』第三・十九左)
 (無姓有情(凡夫)は無漏の種子を持っていないので甚深と説いている。非常に深い意味があることを容易に知ることが無い存在であるから。またこうも説かれている。「無姓有情は阿陀那識に於て窮底すること能わざるが故に甚深なりと説く。」と。
 趣寂種姓(自己の苦しみを滅して寂静にのみ趣こうとする声聞と独覚をいう)この人たちは慈悲を捨てるということがあって、阿陀那識の深い意味を知ることが無く、深い自己の根底に目覚めることがないので、「通達すること能わず」、つまり甚細である。)
 凡に対しては甚深、愚に対しては甚細です。後に出てきますが、凡は無性に約し、愚は趣寂に約して説かれています。
 『呼応する本願』(藤元正樹師述)で、藤元先生は、
 「求めたことが与えられることが救いではなくて、むしろ求めたものがまちがいであったということが明らかになることが救いでしょう。・・・救済を求める心が迷いであることを知らされるんです。救済を求めた心が実は迷妄であったことを知らされる。・・・むしろ人間の求める心そのものの変革を求める。・・・どんな状況にあっても、自分を見捨てない自己とはいったい何なのかと、ただ単なる自己ではない。そういう自己というものをいいあてたのが本願というようなものでございましょうね。・・・」まぁ、このように教えてくださっています。
 私の救いは私の思いが叶うことだと思っているわけですが、そうではなく、そのことが逆に私を縛ってくる因になる。だからまた結果を求めなくてはならないのですね。因果同時というわけにはいかないのです。このことが甚深が持っている意味ですね。
 甚細が二乗に約されるのは、二乗は我執を断じていますから、我と執する愛着処が見えないのです。所知という愛着処ですね。所知は二乗では問題にはならないのです。それで甚細と説かれるのです。

 まとめますと、
 三義はバラバラということではありませんね。執持と云う場合は、執受と執取が背景にあります。
 執持ば「無始以来界たり」です。梶原先生は、時間の連続性と教えてくださいました。
 執持 - 種子
 執受 - 色根
 種子は、色根に依るわけですね、種子には覚受はないけれども、身体には感覚がある。何を感覚しているかと云うと、第八識ですね、具体的には種子でしょう。種子は経験の全体を表しますから、経験の全体化であると教えていただきました。
 執取 - 諸有
 種子は有漏種子ですから、そこに結生相続が生れてくるといえましょう。結生相続は「菩提をもとめる印」といって云いのでしょうか。菩提を求める印が感覚なのでしょうか。梶原先生は、「存在の世界性を与えるものとしてこの身を感覚させる用きである」と教えてくださっています。
 ですから、経験といってもですね、何かを経験したということではなく、私がどのように感じたのかが問題なのでしょう。身の問題ですね。感じたことが種子として宿ることになるのでしょう。その種子が「求めるべき存在として身」を現行と倶に感受されているのかもしれません。身体を通して感覚しているのが、種子生現行の時、捨と倶に苦楽を感じて、捨が苦楽を縁として清浄業処を願う機縁となるのではないでしょうか。
 思考不十分ですね、もう少し考えさせてください。いずれ投稿します。