唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (46) 中随煩悩 無慚・無愧 (12)

2015-07-30 22:50:27 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 今日も横道にそれますね。往復書簡を紹介します。
 前日の暁天講座の感想です。
 S 「河内さんは若い時に仏教に触れて僕は歳をとってから。そこが違うとこですね。歳をとるにしたがって死を意識するのが人間だと思います。周りの身近な人間が死を迎えるのを間近に経験することが理由です。若い時僕は死の恐怖よりも世間のカタログにおいてけぼり、孤独になる恐怖がありました。カタログ、つまり彼女が出来て結婚、といった。人間には必死になって何かを求めようとする次期があるとおもいます。しかし必死に求めても辿り着けず 、結果理想の自分自身とはかけ離れてしまう。 ただ河内さんには商才があったのだと思います。しかし望んでいなかなったからどうでもよい。成りたかった自分自身を忘れる為に我執に走ってしまったのだと思います。 人の事はとやかく言えませんが。僕はと言えば人の意見は聴かず、誘いにも参加せずでした。惨めな自分自身に嫌気がさしていたのでしょう。今は仏教というか唯識を教えて頂いています。河内さんに誘われたからでなく、自分自身の意思によって行ったのか?解りません。感想からは程遠いかも知れませんね。河内さんと付き合いを続けていけるのは河内さんが自分自身の人生を語ってくれたからだと思います。僕からしたら昔良い生活してたんだな!と思いましたが。しかし自慢話ではなかったなと。年齢は離れていますが、自分自身を語ってもいいと思える人間に逢えて良かったです。最終的に辿り着く場所は誰しも同じですよね。最終的にどう思えるかですね。未だに世間の生活カタログに入れないのか?と落ち込む事もあります。愚痴になってますね。仏教とは何か?とは未だに解りません。知識を求めているのではないと思います。僕の捉え方は、他人を全て仏だと思って話を聞いていきましょう。と。無茶苦茶な回答ですかね。人間には転機があると思います。河内さんにとっては子供の誕生が挙げられていましたね。僕にとっては何か?転機を気づける人間は幸せなのかもしれませんね。これから僕はどうなるか?解りません。今は暗闇にいて眼を頼りに生きて、場所を探しているのかも知れませんね。暗闇に居て、光が差した時に怯えず、臆病にならずに生きて生ければと思います。感想になっていませんが、大事なのは自分自身の人生を何処まで話出来るか?それが自分自身を知るきっかけになるのではないかと思っています。」

 K 「大事なのは自分自身の人生を何処まで話出来るか」 この一点ですね。ありがとう。
 
 七月の講座の感想です。
 
 S 「7月の講座の感想。アラヤシキが他人を見る。アラヤシキが見た他人を見直す。と言うことは、僕自身他人の人格、性格なんて見た目だけで判断出来るはずがないのに、勝手に他人を自分自身の妄想の下、造り出しているだけでしょう。今までの経験をもって他人の人格、性格を造り出しているだけでしょうね。見なければならないのは、自分自身でしょう。見ると言うより、自分自身と対話しなければならないでしょう。元々自分自身が中心であるはず。自分自身と対話するのを忘れてしまえば、自分自身にとって都合の良いように他人を造ってしまうでしょう。自分自身にとって都合が悪ければ攻撃し、良ければ仲間と判断する。僕自身で言えば、職業、学歴でしょうね。職業が自分自身より劣っていると思えばバかにし、学歴が低ければバかにする。反省しなければなりません。職業、学歴といったアクセサリーだけで判断しているのですから。他人の本質を見ようとしていないのですから。それで今まで嫌な事もしたし、されたりもしました。過去から現在は行動を規制している。と書いてありましたが、その通りですね。過去を引きずり、今完全に足が前に出ない。現在から未来。積極的に人格を支えている。前向きに生きなさい。ということでしょうか?そう捉えたいと思います。差別されている自分自身より、差別している自分自身に気づけ。という事でしょうか。類は友を呼ぶ。差別的であれば差別的な他人が寄ってきて、明るく過ごせば明るい他人が寄ってくる。と考えても良いのではないでしょうか?現実では、収入的には不安です。それを理由にして他人から逃げて来たのかも知れませんね。人生折り返しの年齢に来てやっと解って来たこともあります。とりあえず前に行かなければどうしようもないと。僕自身の問題としては、もっと人の話を聞かなければと思われます。」

 K 「お早う。快適な目覚めです。コメントよく理解していただいてます。
 裸で生まれて裸で死んでいく。アクセサリーはどこまでいってもアクセサリー。しかしアクセサリーに振り回される自分が居ることは確かですね。
 しかしね、ここが大切な所なんですが、アクセサリーを通さんと見えてこない世界があるんやね。
 それは、今の自分を通して明らかになる、自分の居場所が見えてくるということやと思います。
 でも、素晴らしい気づきです。」

 S 「自分自身の事は考えず、他人がする自分自身の評価ばかり気にしている。それが自他分別を考えていての気づきです。他人に自分はどう思われているのか?を考えてばかりいて、自分自身を知ろうとしない。世間に迎合する為に自分はこんな人間です。と演技している。本当の自分自身ではないでしょう。また自分自身にとって所詮他人はアクセサリーくらいのものとしか思っていない。飽きれば棄てる。自分自身にとって利益がなければ他人との付き合いを情け容赦なく切る。僕自身がそうでしたね。自分自身はこんな人間だ。と勝手に造り上げて生きてきたのでしょう。自分は他人とは違うと。その考えは自分自身を苦しめる事になっていたのでしょう。今でもそうですが。自分自身の事を知ろうとせず、全ての問題は外にあると。見た目は立派でも中身は空洞だったのかも知れません。外に問題があるとしていれば楽なのかも知れません。自分自身を見直す事は容易ではないと思われます。しかし、外、つまり他人のせいにばかりしていたら他人との距離は遠くなり、死の間際でも悔いの残る人生だった。と思うでしょう。人は知らず知らずのうちに他人を傷つける言動をとる事があります。僕自身も人を傷つけて来たでしょう。気をつけねば。と思います。結局知らず知らずのうちに自分自身を守っているからでしょう。自分自身に閉じ籠る事により、結果他人も傷つけて、自分自身も苦悩するのかなと。自分自身が見ている他人は自分自身にとって都合のよいように他人を創っている。その事を意識して人間関係を保ちたいものです。いつも自分自身が中心にいる。忘れてはいけない事でしょうね。他人の為に尽くして来たのに。と思えば思うほど分別することになるのかなと。どー思われてもよい。自分自身とは何か?とずっと思案を続けられたらよいのですが。なかなか困難ですね。どー思われてもよい。とはどうでもよい。ではなく、全ての他人の自分自身に対する言葉を善悪を判断せず、受け入れる事ではないかと。なかなかそうはいきませんが。」

 K 「なかなか腑に落ちなかったことが、ようやく見えてきました。仏法の気づきは、これが私だということですね。論理的に説明するとややこしいことに成りますが、これが私だと言える自分に出遇いたいのではないですか。出遇っているんですね。阿頼耶識とは、「世尊我一心」の「我」でしょう。我とは主体ですね。客体化されたものではないというkとです。客体化された我は考えられた我。しかし考えられた我であっても、阿頼耶識を依り所として生起してくるわけです。本来性回帰運動とも、自浄能力とも言っていいのかもしれません。客体化された我は妄想の我であって、働きのないものです。阿頼耶識の所縁ということが伝えたいのは、一切は私がつくりだしたものという視線でしょう。世の中は様々な問題を抱えていますが、その一つ一つが阿頼耶識の所縁ということになろうかと思いますね。
 私が作りだしたということは、その責任は私に有るということです。一人一人が背負っていかなければならない宿題を提起されているのですね。生まれた課題は、この問いに対する答えを提出するということではないでしょうか。
 私たちが何かを知るというのは、言語を通します。言語を媒介として認識を起こすわけです。言語そのものに分別はないのですが、言語を持った途端分別を起こします。経験上で知っている事柄については、解ったように思っているんですが、解は解釈であり、思いは計度ですね。対象化されたものは似我似法であって識体が転じたもの。識そのもの、或いは念仏は、対象化できるものではないということでしょう。これもまた計らいやという気づきが大切ではと思いますが、計らいですね。」

第三能変 第四 随煩悩の心所について (45) 中随煩悩 無慚・無愧 (11)

2015-07-30 00:18:31 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 横道ばかりですみません。本題に戻ります。不倶生難(無慚・無愧が倶生しないという点からの論破になります。)
 「斯に由って二の法は倶生せざる応し。受と想との等きに此の義有る者には非ざるが故に。」[『論』第六・二十六左)
 (これによって無慚・無愧の二の法は倶生しないものとなってしまうであろう。何故ならば、受と想などのようなもの、即ち類同なるものは倶生しないのと同様に此の二つの場合も同様である。)
 本科段は論破の第二になります。
 無慚・無愧は、本来倶生するにも拘らず、古説の主張ならば、無慚・無愧の二つは倶生しないことに成り矛盾をきたすことになるという視点からの論破です。
 何度も同じ説明の繰り返しになりますが、古説の主張は、無慚・無愧の体は「恥じることのない心」なんですね。それは類同であるが為に、倶生しないと云うのが論破の主題になります。不倶生難を通して、無慚・無愧の用は「恥じない心」ではあるが、体はそれぞれ違うものであることを明らかにしてきたのですね。
 実際には、無慚も無愧も倶生しているわけです。自覚を通してですね、無慚・無愧の体は「恥じることのない心」ではないと主張しています。
 
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 阿頼耶識の所縁は、種・根・器なんですね。心は対象としないということが説かれているわけですが、何故心は阿頼耶識の所縁とはならないのかですね。心は心王なんです。心王が対象化されますと、生きて働くとことが無くなってしまうのですね。心が心を所縁とするのは、所縁とした心が本当の心で、この心が生きて働いているわけです。
 聴聞されていて、「頭では理解ができるんですが」とよく聞きますが、頭で聞くのは法を対象化しているんですね。対象化した(考えられた)ものとしての法は、生きて働いていないのです。対象化するには、その中間に介在する「我」がいます。私が主体で、教えは客体になりますね。
 ここが問題なのですが、私たちは、対象化しないと仏法を聞くことは出来ませんということなのです。いうならば、徹底的に対象化して、有る時「膝を打つ」、その時ですね。「念仏もうさんとおもいたつこころのおこる時」、この心は対象化された心ではありません。生きて働いている心なんですね。
 私たちは生きて働きていない仏法を聞いているわけですが、その因は私にあるということなのです。これ以前が外道、これからが内道という迷いの二重構造が明らかにされてきます。ですから、雑行は考えられたもの、本願は生きて働いているもの。本願は自証分であり、証自性分であるといえます。ここから聞法が始まるわけですね。
 論理的には、心は能変です。心が変現したもの、心が変化して作り上げたのが見・相二分なんです。見・相二分が所変になり、所変の中で、能縁が見分・相分が所縁となります。阿頼耶識の具体相ですね。私たちが迷妄している根元が阿頼耶識にあったという気づきが大切かと思います。
 もう少しつめて考えます。