第十六組の門徒、組推協合同聞法会で法話をされる廣瀬 俊師
「此も亦瞋恚の一分を以て体と為す。瞋に離れて別の害の相用無きが故に。」(『論』第六・二十五左)
(此れ(害)もまた瞋恚の一分をもって体とする心所である。何故なら、瞋恚に離れて別の相も用もないからである。從って害は仮法である。)
ここで問題は、小随煩悩の十は三毒の煩悩の仮法であるといっているのですが、では小随煩悩と三毒とはどのような相違がみられるのかですね。次科段ではこの問題について論じられています。
「瞋と害との別相は、善に准じて説く応し。」(『論』第六・二十六右)
「述して曰く、瞋は無瞋を障へ、正しく慈を障う。害は不害を障へ、正しく悲を障う。故に善に准じて説くべし。瞋は命を断ず。害は但だ他を損す。故に此は別なり。善の中に説けるが如し。」(『述記』第六末・七十五左)
瞋恚 ― 命を断ず。瞋はものの命を絶つ働きを持つ。慈悲の慈がない。
害 ― 他を損悩する。相手に損害を与えたり、悩ませたり、傷つけたりすることを本性とし、相手に傷つけたり、押し逼ったりするという働きを持つ。慈悲の悲がない。
「善に准じて説く応し」というのは、善の心所に不害の心所が説かれている所から、それを以て考慮しなさいということですね。ここは善の心所を振り返っていただければいいのではと思いますが、元に戻ってみますと、
害を翻じた不害が善の心所に入られる理由が述べられます。
「害も亦然なりと雖も、而も数々現起し、他を損悩するが故に、無上乗の勝因たる悲を障うるが故に、彼が増上の過失を了知せしめむが故に、翻じて不害と立てたり。」(『論』第六・九左)
(随煩悩の害もただ第六意識のみに存在するといっても、しかし、しばしば現起して、他を損悩する為に、また無上乗の勝因である悲を障碍する故に、害の増上の過失を知らせんが為に、害を翻じた不害として立てたのである。)
害についての再論になりますが、復習の意味も込めて今一度考えます。
「云何なるをか害と為す。」 害という煩悩はどのようなものであるのかという問いです。害は「そこなう」という意味で、傷つける、妨げるということです。他を傷つけ、悩ませるということになりますね。それが害と云う煩悩の性質であるといっているのです。これは自分に不都合なことが起こると他を傷つける行為に及ぶ。これは日常茶飯事に起こっています。自分と云う他に変えられることのできない命を与えられていることへの目覚めがないのですね。それによって他を害することに於いて自分を守ろうとするわけです。これもまた顛倒ですね。『論』には
「諸々の有情に於いて心に悲愍(ひみんー慈悲の心・愍はあわれむという意)することなくして損悩(そんのうー傷つける事)するを以って性と為し。能く不害を障えて逼悩ーおしせまる意)しるが故に。謂わく害有る者は。他を逼悩するが故に。此れも亦瞋恚の一分を体と為す。」
と言われています。害というのは慈悲がないということ、ものをあわれみ・はぐくむことがなく相手を傷つけることを性とするのです。それによって慈悲する心を障へて相手に逼る働きとなるのです。自分の心に害心をもっているのですね。それが外に働くときに相手を傷つける行為に走らせるのでしょう。害は瞋恚の一分になります。瞋恚は、ものの命を断ずることなのですが ーニ河白道の火の河ですね。焼き尽くしてしまいます。- 害は相手を傷つけるということになりますから瞋の一分である。
私たちは知らず知らずの内に相対世界・善か悪に染まっていて自己中心的にしか生きれなくなっているのですね。この善か悪と云う概念は時と場所によって変化するのですね。極端な例を挙げますと「殺」という問題です。仏陀は五戒の中で一番最初に「殺すことなかれ」という不殺生戒をいわれました。これは命の尊厳という眼差しから生み出されてくるものですが、私たちの常識から言えば「人の命は大切・しかし敵は殺してもよい。テロリストは排除すべきである。そして私に害を与えるものは排除する。」という発想が有るように思えてなりません。何故命は大切であり・尊厳なのかを根源から問う姿勢が求められているのでしょう。「私に害を与えるものは排除してしまう」という心の深層にメスを入れ「害」が本能であるという目覚めが不害へと転じていく機縁となるのではないでしょうか。
害は所対治されるもので、能対治は不害になります。体は無瞋です。害も不害も仮法である。
害もまた六識中第六意識にのみ存在する随煩悩の心所であるから、害を翻じた不害は善の十一の心所の中には入れられないはずである。にもかかわらず、何故害を翻じた不害は善の心所に入れられているのか、というのが設問であり、問いに対する答えが提起されます。
害は「數々現起し、他を損悩するが故に、無上乗の勝因たる悲を障うるが故に」という、害は悲を障礙する働き顕著である為に、というのがその理由である、と述べています。
『述記』には、三つの理由を挙げています。
① 「しばしば現起する」。害はしばしば現起する心所であり、他の煩悩・随煩悩に勝れている。
② 「他を損悩する」。嫉・慳には他を損悩する働きは無い。
③ 「無上乗の勝因である悲を障うるが故に」。害は、大乗仏教の勝因である悲を障礙する。
何故、無瞋とは別に不害の心所を立てられなければならないのか、
「慈と悲の二の相、別(コトナル)ことを顕さんが為の故なり」
無瞋は慈の働き(無瞋与楽)、不害は悲の働き(不害抜苦)を明らかにし、「有情を利楽することに於て、この二の働きは勝れたものだからである」、と、理論上から、そして実際的な視点から説明されています。
「無瞋は、物の命を断ずる瞋に翻対(ほんたい)せり、不害は、正しく物を損悩する害に違せり。無瞋は楽を与う、不害は苦を抜く。是を此の二が麤相の差別と謂う。」(無瞋は、物の命を断つ瞋と正反対の性格をもつもので、不害は物を損悩する害の裏返しである。無瞋は楽を与え、不害は苦を抜く。これを無瞋と不害の二つの麤相のくべつをいうのである。)
無瞋は瞋を対治し、不害は害を対治する。その理由は、対治される側にあります。つまり、瞋は有情のいのちを断つことをもって本質とするのに対し、害は有情を損悩することを以て本質とすることの相違です。対治する大正が異なっているのですね。從って能対治も異なるはずであるというのがその理由になります。
それと抜苦与楽ということですね。
「麤相の差別」は、有情と非情について、無瞋と不害は、有情についてのみ云われていることで、非情は含めないところから、粗い相として述べているのであって、これを麤相の区別であるといっています。
「此も亦瞋恚の一分を以て体と為す。瞋に離れて別の害の相用無きが故に。」(『論』第六・二十五左)
(此れ(害)もまた瞋恚の一分をもって体とする心所である。何故なら、瞋恚に離れて別の相も用もないからである。從って害は仮法である。)
ここで問題は、小随煩悩の十は三毒の煩悩の仮法であるといっているのですが、では小随煩悩と三毒とはどのような相違がみられるのかですね。次科段ではこの問題について論じられています。
「瞋と害との別相は、善に准じて説く応し。」(『論』第六・二十六右)
「述して曰く、瞋は無瞋を障へ、正しく慈を障う。害は不害を障へ、正しく悲を障う。故に善に准じて説くべし。瞋は命を断ず。害は但だ他を損す。故に此は別なり。善の中に説けるが如し。」(『述記』第六末・七十五左)
瞋恚 ― 命を断ず。瞋はものの命を絶つ働きを持つ。慈悲の慈がない。
害 ― 他を損悩する。相手に損害を与えたり、悩ませたり、傷つけたりすることを本性とし、相手に傷つけたり、押し逼ったりするという働きを持つ。慈悲の悲がない。
「善に准じて説く応し」というのは、善の心所に不害の心所が説かれている所から、それを以て考慮しなさいということですね。ここは善の心所を振り返っていただければいいのではと思いますが、元に戻ってみますと、
害を翻じた不害が善の心所に入られる理由が述べられます。
「害も亦然なりと雖も、而も数々現起し、他を損悩するが故に、無上乗の勝因たる悲を障うるが故に、彼が増上の過失を了知せしめむが故に、翻じて不害と立てたり。」(『論』第六・九左)
(随煩悩の害もただ第六意識のみに存在するといっても、しかし、しばしば現起して、他を損悩する為に、また無上乗の勝因である悲を障碍する故に、害の増上の過失を知らせんが為に、害を翻じた不害として立てたのである。)
害についての再論になりますが、復習の意味も込めて今一度考えます。
「云何なるをか害と為す。」 害という煩悩はどのようなものであるのかという問いです。害は「そこなう」という意味で、傷つける、妨げるということです。他を傷つけ、悩ませるということになりますね。それが害と云う煩悩の性質であるといっているのです。これは自分に不都合なことが起こると他を傷つける行為に及ぶ。これは日常茶飯事に起こっています。自分と云う他に変えられることのできない命を与えられていることへの目覚めがないのですね。それによって他を害することに於いて自分を守ろうとするわけです。これもまた顛倒ですね。『論』には
「諸々の有情に於いて心に悲愍(ひみんー慈悲の心・愍はあわれむという意)することなくして損悩(そんのうー傷つける事)するを以って性と為し。能く不害を障えて逼悩ーおしせまる意)しるが故に。謂わく害有る者は。他を逼悩するが故に。此れも亦瞋恚の一分を体と為す。」
と言われています。害というのは慈悲がないということ、ものをあわれみ・はぐくむことがなく相手を傷つけることを性とするのです。それによって慈悲する心を障へて相手に逼る働きとなるのです。自分の心に害心をもっているのですね。それが外に働くときに相手を傷つける行為に走らせるのでしょう。害は瞋恚の一分になります。瞋恚は、ものの命を断ずることなのですが ーニ河白道の火の河ですね。焼き尽くしてしまいます。- 害は相手を傷つけるということになりますから瞋の一分である。
私たちは知らず知らずの内に相対世界・善か悪に染まっていて自己中心的にしか生きれなくなっているのですね。この善か悪と云う概念は時と場所によって変化するのですね。極端な例を挙げますと「殺」という問題です。仏陀は五戒の中で一番最初に「殺すことなかれ」という不殺生戒をいわれました。これは命の尊厳という眼差しから生み出されてくるものですが、私たちの常識から言えば「人の命は大切・しかし敵は殺してもよい。テロリストは排除すべきである。そして私に害を与えるものは排除する。」という発想が有るように思えてなりません。何故命は大切であり・尊厳なのかを根源から問う姿勢が求められているのでしょう。「私に害を与えるものは排除してしまう」という心の深層にメスを入れ「害」が本能であるという目覚めが不害へと転じていく機縁となるのではないでしょうか。
害は所対治されるもので、能対治は不害になります。体は無瞋です。害も不害も仮法である。
害もまた六識中第六意識にのみ存在する随煩悩の心所であるから、害を翻じた不害は善の十一の心所の中には入れられないはずである。にもかかわらず、何故害を翻じた不害は善の心所に入れられているのか、というのが設問であり、問いに対する答えが提起されます。
害は「數々現起し、他を損悩するが故に、無上乗の勝因たる悲を障うるが故に」という、害は悲を障礙する働き顕著である為に、というのがその理由である、と述べています。
『述記』には、三つの理由を挙げています。
① 「しばしば現起する」。害はしばしば現起する心所であり、他の煩悩・随煩悩に勝れている。
② 「他を損悩する」。嫉・慳には他を損悩する働きは無い。
③ 「無上乗の勝因である悲を障うるが故に」。害は、大乗仏教の勝因である悲を障礙する。
何故、無瞋とは別に不害の心所を立てられなければならないのか、
「慈と悲の二の相、別(コトナル)ことを顕さんが為の故なり」
無瞋は慈の働き(無瞋与楽)、不害は悲の働き(不害抜苦)を明らかにし、「有情を利楽することに於て、この二の働きは勝れたものだからである」、と、理論上から、そして実際的な視点から説明されています。
「無瞋は、物の命を断ずる瞋に翻対(ほんたい)せり、不害は、正しく物を損悩する害に違せり。無瞋は楽を与う、不害は苦を抜く。是を此の二が麤相の差別と謂う。」(無瞋は、物の命を断つ瞋と正反対の性格をもつもので、不害は物を損悩する害の裏返しである。無瞋は楽を与え、不害は苦を抜く。これを無瞋と不害の二つの麤相のくべつをいうのである。)
無瞋は瞋を対治し、不害は害を対治する。その理由は、対治される側にあります。つまり、瞋は有情のいのちを断つことをもって本質とするのに対し、害は有情を損悩することを以て本質とすることの相違です。対治する大正が異なっているのですね。從って能対治も異なるはずであるというのがその理由になります。
それと抜苦与楽ということですね。
「麤相の差別」は、有情と非情について、無瞋と不害は、有情についてのみ云われていることで、非情は含めないところから、粗い相として述べているのであって、これを麤相の区別であるといっています。