唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (30)  小随煩悩 害 (5)

2015-07-03 09:59:17 | 第三能変 随煩悩の心所
第十六組の門徒、組推協合同聞法会で法話をされる廣瀬 俊師
「此も亦瞋恚の一分を以て体と為す。瞋に離れて別の害の相用無きが故に。」(『論』第六・二十五左)

 (此れ(害)もまた瞋恚の一分をもって体とする心所である。何故なら、瞋恚に離れて別の相も用もないからである。從って害は仮法である。)
 ここで問題は、小随煩悩の十は三毒の煩悩の仮法であるといっているのですが、では小随煩悩と三毒とはどのような相違がみられるのかですね。次科段ではこの問題について論じられています。
 「瞋と害との別相は、善に准じて説く応し。」(『論』第六・二十六右)
 「述して曰く、瞋は無瞋を障へ、正しく慈を障う。害は不害を障へ、正しく悲を障う。故に善に准じて説くべし。瞋は命を断ず。害は但だ他を損す。故に此は別なり。善の中に説けるが如し。」(『述記』第六末・七十五左)
 瞋恚 ― 命を断ず。瞋はものの命を絶つ働きを持つ。慈悲の慈がない。
 害 ― 他を損悩する。相手に損害を与えたり、悩ませたり、傷つけたりすることを本性とし、相手に傷つけたり、押し逼ったりするという働きを持つ。慈悲の悲がない。
 「善に准じて説く応し」というのは、善の心所に不害の心所が説かれている所から、それを以て考慮しなさいということですね。ここは善の心所を振り返っていただければいいのではと思いますが、元に戻ってみますと、
 害を翻じた不害が善の心所に入られる理由が述べられます。 
 「害も亦然なりと雖も、而も数々現起し、他を損悩するが故に、無上乗の勝因たる悲を障うるが故に、彼が増上の過失を了知せしめむが故に、翻じて不害と立てたり。」(『論』第六・九左)
 (随煩悩の害もただ第六意識のみに存在するといっても、しかし、しばしば現起して、他を損悩する為に、また無上乗の勝因である悲を障碍する故に、害の増上の過失を知らせんが為に、害を翻じた不害として立てたのである。)
 害についての再論になりますが、復習の意味も込めて今一度考えます。
 「云何なるをか害と為す。」 害という煩悩はどのようなものであるのかという問いです。害は「そこなう」という意味で、傷つける、妨げるということです。他を傷つけ、悩ませるということになりますね。それが害と云う煩悩の性質であるといっているのです。これは自分に不都合なことが起こると他を傷つける行為に及ぶ。これは日常茶飯事に起こっています。自分と云う他に変えられることのできない命を与えられていることへの目覚めがないのですね。それによって他を害することに於いて自分を守ろうとするわけです。これもまた顛倒ですね。『論』には
 「諸々の有情に於いて心に悲愍(ひみんー慈悲の心・愍はあわれむという意)することなくして損悩(そんのうー傷つける事)するを以って性と為し。能く不害を障えて逼悩ーおしせまる意)しるが故に。謂わく害有る者は。他を逼悩するが故に。此れも亦瞋恚の一分を体と為す。」
 と言われています。害というのは慈悲がないということ、ものをあわれみ・はぐくむことがなく相手を傷つけることを性とするのです。それによって慈悲する心を障へて相手に逼る働きとなるのです。自分の心に害心をもっているのですね。それが外に働くときに相手を傷つける行為に走らせるのでしょう。害は瞋恚の一分になります。瞋恚は、ものの命を断ずることなのですが ーニ河白道の火の河ですね。焼き尽くしてしまいます。- 害は相手を傷つけるということになりますから瞋の一分である。
 私たちは知らず知らずの内に相対世界・善か悪に染まっていて自己中心的にしか生きれなくなっているのですね。この善か悪と云う概念は時と場所によって変化するのですね。極端な例を挙げますと「殺」という問題です。仏陀は五戒の中で一番最初に「殺すことなかれ」という不殺生戒をいわれました。これは命の尊厳という眼差しから生み出されてくるものですが、私たちの常識から言えば「人の命は大切・しかし敵は殺してもよい。テロリストは排除すべきである。そして私に害を与えるものは排除する。」という発想が有るように思えてなりません。何故命は大切であり・尊厳なのかを根源から問う姿勢が求められているのでしょう。「私に害を与えるものは排除してしまう」という心の深層にメスを入れ「害」が本能であるという目覚めが不害へと転じていく機縁となるのではないでしょうか。
害は所対治されるもので、能対治は不害になります。体は無瞋です。害も不害も仮法である。
害もまた六識中第六意識にのみ存在する随煩悩の心所であるから、害を翻じた不害は善の十一の心所の中には入れられないはずである。にもかかわらず、何故害を翻じた不害は善の心所に入れられているのか、というのが設問であり、問いに対する答えが提起されます。
 害は「數々現起し、他を損悩するが故に、無上乗の勝因たる悲を障うるが故に」という、害は悲を障礙する働き顕著である為に、というのがその理由である、と述べています。
 『述記』には、三つの理由を挙げています。
 ① 「しばしば現起する」。害はしばしば現起する心所であり、他の煩悩・随煩悩に勝れている。
 ② 「他を損悩する」。嫉・慳には他を損悩する働きは無い。
 ③ 「無上乗の勝因である悲を障うるが故に」。害は、大乗仏教の勝因である悲を障礙する。
 何故、無瞋とは別に不害の心所を立てられなければならないのか、 
 「慈と悲の二の相、別(コトナル)ことを顕さんが為の故なり」
 無瞋は慈の働き(無瞋与楽)、不害は悲の働き(不害抜苦)を明らかにし、「有情を利楽することに於て、この二の働きは勝れたものだからである」、と、理論上から、そして実際的な視点から説明されています。
 「無瞋は、物の命を断ずる瞋に翻対(ほんたい)せり、不害は、正しく物を損悩する害に違せり。無瞋は楽を与う、不害は苦を抜く。是を此の二が麤相の差別と謂う。」(無瞋は、物の命を断つ瞋と正反対の性格をもつもので、不害は物を損悩する害の裏返しである。無瞋は楽を与え、不害は苦を抜く。これを無瞋と不害の二つの麤相のくべつをいうのである。)
 無瞋は瞋を対治し、不害は害を対治する。その理由は、対治される側にあります。つまり、瞋は有情のいのちを断つことをもって本質とするのに対し、害は有情を損悩することを以て本質とすることの相違です。対治する大正が異なっているのですね。從って能対治も異なるはずであるというのがその理由になります。
 それと抜苦与楽ということですね。
 「麤相の差別」は、有情と非情について、無瞋と不害は、有情についてのみ云われていることで、非情は含めないところから、粗い相として述べているのであって、これを麤相の区別であるといっています。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (29)  小随煩悩 害 (4)

2015-07-03 00:14:41 | 第三能変 随煩悩の心所
 
 害はどういう影響を与えるのかについて詳論されます。
 「謂く、害有る者は他を逼悩するが故に。」(『論』第六・二十五左)
 (つまり、害の心所を持つ者は他を悩ませ、苦しめるからである。)
 またまた横道にずれてしまいますが、僕はつい最近の話なんですが、頭から冷水をかけられるような「ああ、頭が上がっていたな」と思い知らされたことが有ります。僕は優しい人間なんだと云う思い上がりが、完全に崩されてしまった、いや、そんな優しさなんかか無かったんだ。それどころか、怒り腹立ちが渦巻いていたんだということに気づかされたんです。
 気づかしてくれたのは前妻です。詳しいことは書きませんが、僕は×二なんです。最初の妻は非の打ちどころのない才媛でした。僕の我儘がすぎたんですね。遊びほうけていました。最後は帰宅したら、喉元に包丁を突き付けられましてね、それでも遊びを止めなかったですね。それどころか、「自分の心が満たされないのは、あんたの精や」と責任を転嫁していました。それからいろいろありまして、二度目の御縁をいただいたんです。その時は、過去の反省もしていましたから、我儘はいわない、できるだけ彼女をサポートする、金銭面で苦労はさせない、という三つの約束事を誓ったんです。それがね、ものの見事に破れました。皆さん方は、結婚については、それなりにお付き合いもされ、お互いの事を理解しあって、周囲から祝福されて目出度くゴールインされたと思いますが、僕たちはそうではなかったんです。お互い×一で、どちらかというと脛に傷を持つ身でありましたから、「痛みを持った者同士、痛みを分かち合って生きていけへんか。」という口説き文句ですね。そんな思いを深夜の漫画喫茶で語り、「俺も罪滅ぼしや。今度は精一杯頑張るわ」と、自分頼みで「あんたを引き受ける」といったんです。これが大きな誤りでした。結婚して一週間も経たないうちに、「お前ってそんや奴なん」と、貴方がお前に、お前が奴に変化するんですね。
 でも過去のことを考えると、「嫁がしていること、俺はそれ以上のことを前妻にしてきたんやな。俺のしてきたこと見せつけられているんや。まあ罪滅ぼしや、仕方ない。」と許せんけれども許してきた。茲が問題なんや。「許す・許せん」が自分の範疇で推し量っている。これはね、天秤にかけられている方はたまらんですね。わかるんですね、自分が天秤にかけられていることが。中略しますが、最後は病床の身をもって出ていきました。
 僕はね、「仕方ないなあ。自分の造ってきた種やから、精一杯生きてや」と心の中でつぶやいたんです。僕には一種の安堵感もあったんです。「僕は十分罪滅ぼしをしたんや」という思いあがりです。ここまででしたら「僕は間違っていない。」ということで終わってしまい気づきを得るということは無かったと思いますが、如来の働きは多方面からやってきますね。前妻の口を借りて、如来が僕に語りかけて下さるのです。「これでもお前は腹を立てないのか。怒らないのか。お前のやってきたことは優しさでも、思いやりでもなんでもない。お前がお前自身に酔いしれていただけの話や。どうや、思い当たる節は無いか。」と。
 前妻は病気で施設に入っていますが、息子と携帯の連絡をするのに解約せず、そのまま使用してもらっているんですが、何かの間違いだったんでしょう。携帯解約されたと。その手紙が届きました。この手紙の内容を読みまして、最初の文章につながるんです。
 「私、まだラリっているけど夜の夜中に携帯使用禁止って何?そんなこともっと早い時間に送れば済む事なのに。私があんなに苦しんだ出産、だからこんな病気になったんだよ、それまではすごく元気だった。無理して産むことなかったんだね。どんなことがあろうと自分の子供が可愛くない親なんていないはず。育てたのは貴方かも知れないけど、産んだのは私だよ。育児放棄した訳じゃなく、それなりに一生懸命やってきたつもりです。それさえも取り上げて、最後の通信手段まで取り上げるなんてあまりにもひどすぎる。携帯とめたければ止めればいい。ここまで私を追いこんで、ざまーみろって思っている?貴方とはもう他人だけど、私が何をしても博貴(子供の名前)は私の子供だよ。博貴がたまには遊びにくればいいと言ってくれたのはすべて嘘、だったんだ。情けないよ、自分のしたこと分からないわけじゃないけど、博貴が会いたくないと言うのならもう仕方ない。せっかく生きて行こうかと思ったけどもう必要ないね。自分でなんとか生きて行くなどとカッコいいこと言ったけど、そんなの無理だとわかった。生きているのが辛い、「だれか殺せ」世の中冷たいもんだ。もう寝る、眠いから寝る、目が覚めなきゃいいと思う。あと薬だいぶある。色々取り混ぜたら死ねるかな。死にたい、ただそれだけだ。どんな形にせよ、貴方達と繫がっていたから今まで生きて来られた。それが絶たれた今、もういきている形がない。ハッハッハッ私の人生何だったのだ。携帯無くなったわけだから、繫がり切れた~。ファこんなもんだよ、人を大切にしてこなかったばっかりに。今頃になって気づいても遅いよ。バカな女だー長生き無用ー。悪妻はいらないよね。ただお金・お金・お金の女やったもんね。言い出したらきりがないよ。離婚の事はすべて私の精にしておいたらいい、事実そうだと思うから。二度と手紙も書かないから心配しないで。それじゃ。」
 こういう内容の手紙です。最初この手紙を読んだときは僕は激怒しましたね。なにを今さら勝手なこというものではないと、ね。でもね、よくよくこの内容を読み返しますと、「お前が悪い・お前が悪い」と言って僕は僕自身を慰めていたことに、「思いあがっていたな、お念仏忘れていたな、如来さまをここまで苦しめていたのは私だったんだ」という気づきを得ることができました。施設にはそれなりにサポートしていただくように伝えましたが、彼女も人生の崖っぷちで叫んだ言葉の意味を考えてもらえばいいなと思っています。彼女の師子吼は、彼女の口から出た私への如来のメッセージと受け取らせていただきました。
 今回のテーマとは少し違いますが、私が「害」の張本人だったのです。「害有る者は」他人事ではなかったんです。私の言動が他を悩ませ、苦しめる原因なっていることの眼差しが必要なんだと知らされました。

  
    ねるも仏

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