傍目には愚かな決定として知られるものが歴史上にはいくらでもあるわけですが、それは必ずしも間違った判断によるものではなく、何かしらの理由があって行われたものだったりすることも少なくありません。国家を弱体化させた大粛正も統治体制を盤石なものにするという面では合理性があったり等々、成功か失敗かは目的次第で判断が分かれます。
「景気が回復したら、改革する意欲がなくなってしまう」と、小泉純一郎は宣いました。この小泉時代に日本経済は息の根を止められ、世界的な成長から完全に取り残されるようになったわけですが、では小泉改革は愚かな失敗だったのでしょうか? 経済成長を目標とするなら、何ら擁護の余地はありません。しかし、今に至る低成長と格差の固定化を目標にしたのであれば、意図するところは達成されたと言えます。
そこで私が思うのは、会社の人事のことです。とかく会社の人事は不適在不適所、不適切な人材を不適切なポジションに着け、組織に混乱と停滞をもたらしているわけですが、この目的は何処にあるのでしょう? 人材の有効活用や組織の活性化という面では、失敗に見えるのが普通かも知れません。しかし別の目的があるとしたら、それは合理的なのかも知れません。
先日は私の勤務先で、経理業務に会社発足以来ずっと携わってきたベテランが辞めました。次の就職先はもう決まっていて、異業種ではあるけれども結局は経理として勤めるとのこと。会社が変わってもやることは変わらない不思議な転職ですが――どうやら秋の人事異動で別の部署への異動を打診されていたそうです。しかし経理として働き続けることを望んだ彼は、他部署への異動ではなく他社への転職を選びました。
どうしてウチの会社の人事は、経理担当の生き字引であった彼を異動させようとしたのでしょうか。実務上の中心メンバーであった大ベテランを失い、半期の決算業務は大混乱の模様です。仮に辞職に至らなかったとしても経理で最も頼りになる人が担当を外れてしまえば業務が滞ることは必至でした。それでも会社は異動を選ぶ、何故でしょう?
経理の専門家は組織にとっては有為の人材ですが、「キャリアデザイン」などと言い出す人がいれば「経理しか出来ない人」はダメな人と扱われてしまうのかも知れません。そんな「経理しか出来ない人」の「キャリアを広げるため」経理とは全く無関係の別の業務に従事させる、それが本人の成長のためであると、会社の人事は信じている可能性があります。
「仕事の幅を広げるため」との旗印があれば、むしろ「不得意な業務」にこそ人を配属させるのが正義になると言えます。得意な仕事が出来るのは当たり前⇒得意な仕事だけでは成長しない⇒「本人の成長のために」未経験な仕事をやらせよう…… かくしてその人の得意な仕事は剥奪され、興味も経験もない未知の分野に配属される、そうしてパフォーマンスを落とす人や退職する人が続出するのが弊社です。
時には技術開発一筋だった人が営業に配属され、地位確認を巡って裁判に発展する、なんてことがあります。本人から見れば遠回しに退職を勧めるハラスメントにしか見えないでしょうし、客観的にもそう受け止められるところですが、会社の人事にとっては違う可能性があります。人事は本気で「その人の成長のため」技術職から営業所に配置換えをしているのかも知れません。
もちろん、得意な仕事を取り上げて不得意な仕事を押しつければ、パフォーマンスもモチベーションも低下します。でも、それを「乗り越えて成長する」のが人事の思い描いているプランなのではないでしょうか。だから人事は積極的に、その人の能力が活かせる部署ではなく、その人が最も腐ってしまうであろうポジションを宛がうわけです。人事は愚かである故に適材を適所に配置できないのではなく、もっと別の目的のために不適在不適所を続けているのだと思いますね。
本人の適正・希望と逆の部署に配属して苦手を克服させる、という方針で「我が社のメンバーは全員がジェネラリストでありスペシャリスト」と謳っていました。
出版不況による業績悪化の改善策として決められて方針でした。
営業・編集・総務を別々の人間がやっていたのでは効率が悪い、全員が全分野の仕事を満遍なくこなせる万能型人材になれば、効率が良くなる、とのことでした。
現実はそんな巧くは行かず、苦手分野の仕事が嫌になって退職する若手社員が続出しました。それでも人事方針に問題があるとは考えず、「苦手を克服できないのは社会人として根性が足りない」と言って、「根性のある」体育会出身者を採用する事に熱を入れるようになりました。